第14話 私刑
昭和二十四年(一九四九年)五月 東京・両国 三所の山部屋
番付の東の欄に、力王山の名が刷られた。
関脇。大関の一つ下。協会が、ここまでは上げてもいい、と線を引いた、その天井だった。
番付表を手にした付け人たちが、口々に祝いの言葉を並べた。信格は、それに一言も答えなかった。ただ、番付表の下のほうを、指でなぞっていた。
幕下。三段目。
九年前に自分を嘲った男たちの四股名が、まだそこにあった。
戦争で死んだ者もいる。廃業して、闇市に流れた者もいる。けれど何人かは、いまだに関取にもなれず、三十を過ぎた体で、番付の底にしがみついていた。
その筆頭が、黒岩だった。
ちゃんこ鍋をわざと空にして、底のゴミだけを残した男。おい崔、朝鮮人に食わせる肉はねえぞ、土の塊でも食ってろ、と笑った男だった。九年前の声が、耳の奥に、鮮やかに蘇った。
信格は、番付表を静かに畳んだ。
翌朝の稽古場で、信格は、土俵の脇に立つ黒岩に声をかけた。
「黒岩関。胸、出してもらえますか」
稽古場の空気が、凍りついた。
関脇が、幕下の兄弟子に、ぶつかり稽古の胸を出せと言う。形の上では、礼を尽くした頼みだった。けれど、その意味がわからない者は、この部屋に一人もいなかった。
黒岩は、青ざめた顔で土俵に上がった。
九年の月日は、二人の体を、すっかり逆さまにしていた。痩せて肉の落ちた黒岩の前に、山のような関脇が立っている。
「……力王、俺は」
黒岩の言葉は、最後まで続かなかった。
信格の体が、弾丸のようにぶつかった。黒岩の体は土俵を転がり、羽目板に叩きつけられた。
「立ってください、黒岩関」
信格の声は、どこまでも丁寧だった。
「まだ、一番目ですよ」
黒岩が、よろめきながら立ちあがった。また、ぶつかる。また、転がる。また、立たされる。十番、二十番、三十番と、それは続いた。
黒岩の額が割れ、鼻から血が噴き出し、土俵の砂が赤黒く染まっていった。それでも信格は、黒岩が自分の足で立てなくなると、髷を掴んで引きずり起こした。
「どうしました。九年前は、もっと元気でしたよね」
黒岩の目に、ようやく、理解の色が浮かんだ。これは、稽古ではなかった。
「すまなかった……悪かった、力王……許して……」
「許す?」
信格は、黒岩の顔を覗きこんだ。
「何を、ですか」
黒岩は、答えられなかった。自分が何をしたのか、もう覚えていなかったのだ。
信格の口元が、かすかに歪んだ。
九年間、一日も忘れなかった。あの雨の夜、柱に刻んだ首の型の、一人一人の顔を。けれど、こいつは、覚えてもいない。
信格は、黒岩の体を土俵の真ん中に立たせると、一歩下がった。
上から、斜め下へ。首の横。
あの夜から、何千回、何万回と柱に叩きこんできた角度で、掌が振り下ろされた。
鈍い音がした。
黒岩の体は、糸の切れた人形のように崩れ落ち、そのまま、二度と起きあがらなかった。
稽古場の隅で、若い衆たちが、息を殺して見ていた。上がり座敷の親方も、見ていた。けれど、親方は何も言わなかった。煙管をくわえたまま、黙って立ちあがり、奥へ引っこんでいった。止めれば、自分が何を懐に入れたのかを、この男に問われる気がしたのかもしれない。
その日から一か月のあいだに、三所の山部屋では、さらに二人の兄弟子が、稽古中の怪我で廃業した。一人は膝を砕かれ、一人は首を痛めて、二度と土俵に上がれなくなった。
三人とも、九年前の夜、大部屋で花札に興じながら、信格を嘲った男たちだった。
同じ頃 相撲協会の奥座敷
噂は、すぐに協会の耳に入った。
奥座敷に集まった幹部たちは、青い顔で額を寄せあっていた。
「稽古の名を借りた、ただの私刑だ」
「あんなものが、もし大関に、いや、横綱にでもなってしまったら……」
「相撲界は、終わりだ。いや、この国の国技が、朝鮮の狂犬に食い荒らされる」
年嵩の幹部が、しばらく黙って腕を組んでいた。
それから、重い口を開いた。
「……大河原先生に、お願いするしかあるまい」
ほかの幹部たちが、息を呑んで顔を見合わせた。
半年前、巣鴨の門から出てきたばかりの男の名だった。




