第79話 婚約
昭和三十八年(一九六三年)一月 東京・内幸町 帝国ホテル 孔雀の間
婚約の記者会見は、松の内が明けたばかりの帝国ホテルの宴会場を、一つ借り切って開かれた。
金屏風の前に並べられた二つの椅子に、紋付袴の信格と、薄桃色の振袖を着た律子とが、並んで座っている。正面には、新聞社と雑誌社とテレビ局の記者が百人近くひしめきあい、そのうしろでは、松木の局のカメラが三台、黒い首を揃えて、金屏風に向けられていた。会場の端では、律子の父親が羽織袴でかしこまり、松木の秘書が近くを通るたびに、腰を折って頭を下げていた。
「先生、お二人の馴れ初めをお聞かせください」
最前列の記者に訊かれて、信格は、白い歯を見せた。
「馴れ初めも何もねえよ。いい娘がいると聞いて、会ってみたら、本当にいい娘だった。それだけだ」
会場から笑いが起こり、フラッシュが、一斉に焚かれる。律子は膝の上で手を重ねたまま、頬を少し赤らめて、俯いていた。
「律子さん、先生のどこに惹かれましたか」
律子は顔を上げ、少し考えるように記者たちを見渡してから、隣の信格の横顔に、そっと目をやった。
「……お優しいところです」
会場が、どっと沸いた。日本じゅうの茶の間でアメリカ人を血祭りにあげている怪物を、優しい、と言った娘の言葉は、翌朝の新聞の見出しになることが、その場で決まったようなものだった。
信格は、笑っていなかった。白い歯は見せたままだったが、その目は、隣の律子の横顔から離れずにいた。
優しい。誰かにそう言われたのは、生まれて初めてだった。
「先生、ご郷里の長崎のご家族は、何とおっしゃっていますか」
別の記者の声が飛んで、信格は、ようやく正面に向き直った。
「ああ。喜んでるよ。百姓の倅が、こんな立派な家の娘さんをもらうんだからな」
淀みなく口から出たその答えに、律子が隣で小さく微笑んでいるのが、目の端に映った。
「挙式は、いつ頃のご予定ですか」
「六月だ」と、信格は答えた。「梅雨の晴れ間に、どかんとやる」
同じ月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
婚約の記事が新聞の一面を飾ってから三日後の夕方、道場の二階の事務所に、大島が上がってきた。
大島は、このところ道場にあまり顔を見せていなかった。地方の巡業に先乗りで出ていることが多く、東京に戻っても、信格に呼ばれたとき以外は、浅草の朝鮮人街の安下宿にこもっているという噂だった。
熊木は、ちょうどそのとき、湯呑みを二つ盆に載せて、事務所の扉の前まで来ていた。先生に茶を持っていけと、芳村に言いつけられたのだ。扉は、半分ほど開いていた。
ノックをしようとした手が、宙で止まった。
扉の隙間から聞こえてきたのは、日本語ではない言葉だった。
信格の声だった。低く、早口で、それでいて、熊木がいままで一度も聞いたことのないほど柔らかい響きを帯びている。
熊木は、その響きを知っていた。
十四の年まで暮らした横浜の、桜木町の闇市。焼け跡に並んだバラックの屋台で、唐辛子の匂いのする汁を売っていた女たちが、客の来ない合間に、互いに、こういう言葉で話していた。祖父は、あれは朝鮮の言葉だと言って、熊木の手を引き、足早に屋台の前を通り過ぎたものだった。
一年前の雪の夜、キャデラックの後部座席で、信格がオモニと繰り返しながら呟いていたのも、この言葉だった。あのとき、どこかで聞いた響きだと思いながら、まさか、と打ち消した。打ち消したかったのだ、と、いまになって熊木は思った。
熊木は、息を詰めて、扉の隙間から中をうかがった。
机の向こうに信格が座り、その前に大島が直立している。机の上には、分厚い封筒が一つ置かれていた。信格は、その封筒を指先で大島のほうへ押しやりながら、同じ言葉で、何かを言い聞かせている。大島は封筒を両手で受け取り、深く頭を下げて、短く答えた。
その答えも、同じ言葉だった。
大島がふだん日本語を口にするときは、いつも訛りの強い、たどたどしい片言だった。それがいま、扉の向こうでは、水が流れるように、何のつかえもなく言葉を返している。
盆の上で、湯呑みが、かたりと鳴った。事務所の中の声が、ぴたりと止んだ。
「誰だ」
信格の声が、日本語に戻っていた。熊木は、扉を押し開けて、一礼した。
「お茶を、お持ちしました」
信格は、机の向こうから、熊木を見上げていた。その目には、怒りよりも先に、何か別のものが浮かんでいた。熊木はその目を、前に一度だけ見たことがあった。雨の夜のバックミラーの中で、拳を振りあげるたびにくしゃりと歪んでいた、あの顔の目だった。
「……置いて、出ていけ」
信格の声は、かすれていた。
熊木は盆を机の端に置き、もう一度頭を下げて、事務所を出た。扉を閉めるとき、大島が封筒を胸に抱いたまま、じっとこちらを見ているのがわかった。
その夜、信格は、熊木に何も言わなかった。殴りもしなかったし、靴を磨けとも言わなかった。それが、かえって熊木には、不気味だった。
同じ夜 大和プロレス道場 更衣室
稽古の終わった更衣室には、汗と塗り薬の匂いが籠もっていた。大島が一人で、ロッカーの前で着替えていた。
熊木は、自分の練習着を手に持ったまま、しばらく大島の背中を見ていたが、やがて意を決して近づいていった。
「大島さん」
大島は、シャツのボタンを留める手を止めずに、振り返った。
「さっきの言葉、朝鮮の言葉ですよね」
大島の手が、止まった。
大島は、何も言わなかった。黙って、熊木の顔を見つめていた。その目は、怒っているのでも、脅しているのでもなかった。ただ、底の見えない井戸を覗きこんだときのように、静かに、暗かった。
「誰にも、言いません」と、熊木は言った。「言うつもりも、ありません」
更衣室の天井の裸電球が、じじ、と音を立てた。
大島は、長いあいだ、熊木の顔を見ていた。それから、ほんのわずかに、顎を引いた。頷いたのか、ただ目を伏せただけなのか、熊木にはわからなかった。大島は最後のボタンを留め、上着を羽織り、ロッカーの扉を閉めて、何も言わずに更衣室を出ていった。
同じ夜更け 東京・目黒 秀貞の部屋
離れの戸を叩く音がしたのは、夜の十時を回った頃だった。
秀貞が戸を開けると、大島が立っていた。顔を合わせるな、と言いつけられていたのだろう。大島は秀貞の顔を見ようとせず、戸口の土間に封筒を一つ置くと、深く頭を下げて、すぐに夜の闇の中へ消えていった。
封筒の中には、厚い札束と、四つに畳んだ新聞が一部、入っていた。
秀貞は、卓袱台の上で、新聞を広げた。一面に、金屏風の前に並んだ二人の写真が載っていた。紋付袴の男と、振袖の若い娘。娘は頬を赤らめて俯き、男は白い歯を見せて笑っている。
手紙は、入っていなかった。
秀貞は、写真の中の男の顔を、長いあいだ見つめていた。白い歯を見せて笑っているその顔の、目だけが笑っていないことに、秀貞は気づいていた。満州の娼館の薄い布団の上で、明け方に一人で目を覚ましたこの男が、天井を見上げていたときと、同じ目だった。
秀貞は新聞を畳み、札束と一緒に封筒に戻した。それから、箪笥の奥の、油紙の包みのそばに、そっとしまった。
同じ夜更け 大和プロレス道場の裏の物干し場
熊木は、物干し場の隅に腰を下ろして、夜空を見上げていた。凍てついた冬の星が、隅田川のほうの空に、鋭く散らばっている。
あの男は、朝鮮の人間だ。
長崎の百姓の倅でも、大和魂の英雄でもない。日本じゅうの茶の間が拝んでいるあの男は、闇市の屋台で唐辛子の汁を売っていた女たちと、同じ言葉で泣く男なのだ。
だから、どうした。熊木は、自分の胸の中で、そう言い返していた。
あの男が殴る拳の重さは、変わらない。夜の海の水の冷たさも、千回のスクワットも、三十足の靴も、何ひとつ変わらない。あの夜の、だろう、の一言も、変わらない。生まれがどこであろうと、先生は先生だ。リングの上で、あの男より強い人間を、熊木はまだ一人も知らない。
俺は、ついていくと決めたんだ。
ブラジルの農園からこの国に戻ってきた日に、もう決めていた。いつか、ぶっ殺すと決めたのと、同じ日に。
熊木は立ちあがり、物干し竿から、乾いた練習着を一枚ずつ取りこんだ。冷たい夜風が、隅田川の匂いを運んできていた。




