第78話 献上
昭和三十七年(一九六二年)三月 東京・浜町 信格のマンション
帝国ホテルで見合いをしてから、十日ほど経った夜のことだった。
浜町の部屋に、見知らぬ客が一人訪ねてきた。案内してきたのは大島で、客は五十がらみの痩せた男だった。地味な鼠色の背広に、度の強い眼鏡をかけている。在日の同胞たちのあいだで、北の側に立つ団体の幹部をしている男だと、大島は扉の前で、低い声で耳打ちした。
信格は、居間の長椅子に腰を下ろしたまま、男に、向かいの椅子を顎で示した。男は浅く腰をかけ、膝の上に帽子を載せると、穏やかな朝鮮の言葉で話しはじめた。
あなたのお名前は、海の向こうでも、よく知られております。日本の大男たちを、いえ、アメリカの大男たちまでを薙ぎ倒す同胞がいると、村々の年寄りたちまでが、誇らしげに噂しておりますよ。
〈俺は、日本人だ〉と、信格は、朝鮮の言葉で言った。〈長崎の、百姓の倅だ〉
男は、眼鏡の奥の目を細めて、静かに笑った。
もちろん、存じております。新聞にも、そう書いてございますから。
それから男は、帽子の鍔を指先で撫でながら、何気ない口ぶりで続けた。
あなたのお生まれになった村の川も、今年の冬は、ずいぶんよく凍ったそうでございますよ。お兄様は、いまも、あの川のほとりで、おひとりで田を耕しておられます。奥様とお嬢様は、戦争の折に、南の傀儡どものほうへ逃げてしまわれたそうで。お気の毒なことです。
信格の口から、葉巻が離れた。
男は、膝の上の帽子を、そっと持ち直した。
それから、咸興の工場には、お兄様によく似た、怒ったような目をしたお嬢さんが一人、勤めておられます。日本から、母親が欠かさず金を送ってくるので、たいそう助かっているそうです。立派なお母様ですな。
部屋の中が、しんと静まり返った。
信格は、男の顔を見つめたまま、動かなかった。
目黒の離れ。卓袱台の前で、帰らない男を待っている女。信格が月に一度、何も言わずに置いていく金。届くはずがないと思っていたその金の行方を、信格は、とうに忘れていた。
あの女は、ずっと、海の向こうへ送っていたのだ。俺が一度も顔を見に行かなかった、俺の娘に。
〈……誰に、聞いた〉
信格の声は、かすれていた。男は、それには答えなかった。
ただ、ああいうご時世でございますから。身内を南へ逃がした家の者で、そのうえ日本で大和の英雄とまで呼ばれておられるお方の血筋となりますと、いろいろと、取り沙汰する者もおりましてね。将軍様のお慈悲がなければ、とても、あのように穏やかには暮らしてゆけますまい。お兄様も、お嬢様も。
男は、そこで言葉を切り、穏やかに微笑んだ。
来月の十五日は、将軍様の、五十歳のお誕生日でございます。国じゅうが、お祝いの支度をしております。日本に暮らす同胞たちも、それぞれに真心をこめた品をお贈りしようと、いま準備を進めているところでございます。
窓の外を、隅田川の水音が流れていった。
日本じゅうの茶の間が、自分を大和魂の英雄と呼んでいる。城を建て、ゴルフ場を拓き、近いうちには日本の良家の娘と婚約の運びになる。それでいて、自分が生まれた村の川が凍ったかどうかも、兄が生きているかどうかも、娘がどこで何をしているのかも、自分はこの十数年、一度も知らずにきたのだ。知ろうとさえ、してこなかったのだ。
その何もかもを、いま、目の前のこの男が握っている。
〈……何を、贈ればいい〉
男は、帽子を手に取り、立ちあがった。
それは、あなたがお決めになることです。お兄様と、お嬢様の暮らしに、ふさわしいものを。
同じ月の下旬 東京・虎ノ門 輸入車の商会
ショールームの磨きあげられた床の上に、黒い大きな車が一台、ひっそりと置かれていた。
メルセデス・ベンツの三〇〇。西ドイツの工場から船で届いたばかりで、右ハンドルに仕立て直させた、特別の一台だった。艶のある黒い車体が、天井の照明を鈍く映し返し、ボンネットの先の銀色の星の飾りが、冷たく光っている。
商会の支配人が揉み手をしながら、エンジンの排気量や、革張りの座席の縫い目や、ドイツの職人の腕前を、得意げに並べたてていた。信格はその声をろくに聞かずに、車の周りを、一度だけゆっくりと歩いて回った。
「これでいい」
支配人が、目を丸くした。値段を聞きもしなかったからだ。
「お支払いは、どちらの口座から……」
「現金だ。明日、持ってくる」
信格はそう言い捨てて、ショールームを出た。表で待っていた大島が、黙って頭を下げた。
この買い物のことは、天道にも、芳村にも、誰にも知らせていなかった。帳面を付けさせている事務所の金庫からではなく、浜町の部屋の、寝室の脇の小部屋の引き出しから、札束を出すつもりでいた。郷馬のハワイのギャラを、しまいこんであった、あの引き出しから。
昭和三十七年(一九六二年)四月初め 東京から新潟へ向かう国道
夜の十時に、信格は、虎ノ門の商会の裏の車庫から、ベンツを自分で運びだした。
運転席に乗りこんだのは信格で、助手席には大島が座った。大島は信格の隣に座ることに慣れていないのか、膝の上で両手を固く握りしめ、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、前だけを見ていた。
ベンツは、夜の東京の街を抜けて、北へ向かって走りだした。熊谷を過ぎ、高崎を過ぎるあたりから道は暗く細くなり、両側に黒い山の影が迫ってくる。雪解けの水が路肩を濡らし、ヘッドライトの光の中で、ときおり、きらりと光った。
信格の運転は、静かで、丁寧だった。カーブの手前で早めに速度を落とし、ハンドルをゆっくりと切って、車体をほとんど揺らさない。キャデラックの後部座席で、角を曲がるたびに運転手の後頭部を殴りつけている男とは、とても思えないほどだった。
三国峠に差しかかったあたりで、信格が、低く鼻歌を歌いはじめた。
ゆったりとした、どこか物悲しい調べで、同じ旋律が、峠を越える坂道のように、何度もゆるやかに上っては、また下りていく。信格は前を見たまま、その節を、口の中で転がすように繰り返していた。
二度目に同じ節が巡ってきたとき、助手席の大島が、かすかに喉を鳴らした。信格の鼻歌に、低い、もう一つの声が重なった。大島も、その節を知っていたのだ。海を隔てた半島の、北の村でも南の浜でも、子供の頃に誰もが耳にした節だった。
二人の男の鼻歌が、暗い峠道を、しばらくのあいだ並んで上っていった。
峠の頂を越えたところで、信格が鼻歌をやめた。大島も、やめた。
〈金泰一〉
信格は、朝鮮の言葉で、大島の本当の名を呼んだ。
〈はい、兄さん〉
〈お前、帰りたいと思うことはあるか〉
大島は、少しのあいだ黙っていた。
〈あります。毎晩〉
〈どこへだ〉
〈全羅南道の、浜です。おふくろが、まだ、生きていれば〉
信格は、前を見たまま、何も言わなかった。
大島の帰りたい浜は、境界線の南にある。信格の帰りたい川は、境界線の北にある。同じ節を知っている二人の男が、同じ車の中に並んで座りながら、帰る先は、雪の上に引かれた一本の線の、両側に分かれているのだった。
〈兄さんは〉と、大島が、遠慮がちに訊いた。
「ふっ」
信格は、小さく笑った。
〈俺は、長崎の百姓の倅だ。帰るところなんか、ねえよ〉
それきり、二人は、新潟の港に着くまで、一言も口をきかなかった。
翌未明 新潟港
港に着いたのは、夜明け前の四時を回った頃だった。
埠頭の一番奥に、灰色の大きな船が、黒い海の上にのしかかるように停まっていた。船腹には、白いペンキで文字が書かれている。日本に暮らす同胞たちを乗せて、海の向こうの北の国へ向かっていく、帰国船だった。
船の前で、厚い外套を着た男たちが四、五人、待っていた。その真ん中に、浜町の部屋を訪ねてきた、あの眼鏡の男の姿もあった。
信格がベンツを降りると、男たちは、一斉に頭を下げた。眼鏡の男が進み出て、信格の手を両手で握り、朝鮮の言葉で何かを言った。信格も、朝鮮の言葉で、短く答えた。
男たちの一人が、埠頭の倉庫の軒下に、折りたたみの小さな机を運んできた。机の上には、硯と、太い筆と、白い紙が二枚、用意されていた。眼鏡の男が、何かを頼むように頭を下げた。
信格は、しばらく、その白い紙を見下ろしていた。それから外套の袖をまくりあげ、筆を取った。
墨をたっぷりと含ませた筆が、紙の上を走った。一枚目には、将軍の名の三文字と、萬歳、という二文字が、太く、力強く書きつけられていく。
最後に、信格は筆を紙の左下へ移し、自分の名を書いた。力王山、と書いた。
それから、ほんの一瞬、筆が止まった。
信格は、その下に、さらに三文字を書き足した。崔信格。日本に来てから、人前で一度も書いたことのない名だった。
大島は、信格の背後に立って、その三文字を見ていた。何も言わなかった。ただ、外套の袖の中で、握りしめた拳が、かすかに震えていた。
二枚目の紙には、平和統一、という四文字と、力王山の名だけが書かれた。
信格は筆を置き、硯の脇に手をついて、しばらく黙って二枚の紙を見下ろしていた。それから、眼鏡の男に向かって、顎をしゃくった。男は、二枚の紙を押しいただくように受け取り、丁寧に巻いて、桐の筒に収めた。
やがて、船の甲板に据えられた荷役の起重機が軋みながら首を振り、太い綱に吊られたベンツの黒い車体が、ゆっくりと宙に浮かびあがった。夜明け前の薄闇の中を、まるで棺が運ばれていくように、音もなく、黒い車が持ちあげられていく。銀色の星の飾りが、埠頭の照明を一瞬だけ跳ね返し、それから、船の甲板の向こうに、静かに消えていった。
信格は、両手を外套のポケットに突っこんだまま、身じろぎもせずに、それを見送っていた。北の海から吹きつける風が、信格の髪を乱していた。
その横顔は、リングの上で手を挙げているときの顔でも、後部座席で拳を振りあげているときの顔でもなかった。大島が一度も見たことのない、ひどく静かな顔だった。
「帰るぞ」
信格は、それだけ言って、駅のほうへ歩きだした。大島は、その三歩後ろを、黙ってついていった。背後で、船の汽笛が一度だけ、低く、長く鳴った。
同じ未明 新潟港 埠頭の倉庫の陰
倉庫の陰の暗がりに、灰色の外套を着た男が一人、立っていた。
男は、首から提げた小さな写真機を胸の前で構え、起重機に吊られて宙に浮かぶ黒い車を、音を殺して何枚も撮った。それから、駅のほうへ歩いていく二つの大きな背中を、もう一枚。
最後に男は、倉庫の軒下に残された、折りたたみの小さな机に目をやった。硯の墨は、まだ乾ききっていなかった。
男は写真機を外套の内側にしまうと、手帳を取り出して、鉛筆で短く書きつけた。
『四月某日未明。新潟港。帰国船に黒塗りの乗用車一台、積みこみ。
運転してきたのは、力王山本人。同行、大柄な男一名。大島金吾と思われる。
埠頭にて、何か揮毫の模様』
男は手帳を閉じ、夜明けの港の霧の中へ、静かに姿を消していった。




