第77話 帰国
昭和三十七年(一九六二年)四月 東京・羽田
羽田の到着口には、一年前に郷馬を見送ったときの、倍ほどの記者とカメラマンが詰めかけていた。
フラッシュの閃光が途切れなく焚かれるなか、タラップを降りてきた郷馬は、アメリカで仕立てたらしい明るい灰色の背広を着て、片手に鍔の広い帽子を提げていた。一年前よりも胸板が厚くなり、首も一回り太くなっている。二メートルを超える体が到着ロビーの扉をくぐるとき、わずかに身をかがめたその仕草さえ、記者たちは逃さずに写真に収めた。
「郷馬さん、ロサンゼルスはいかがでしたか」
「本土で、何連勝されたんですか」
「アメリカの新聞が、あなたを東洋の巨人と呼んでいるそうですが」
矢継ぎ早の質問に、郷馬は少し眠たげな目で記者たちを見下ろし、穏やかに頷くばかりだった。答えは、ほとんど口にしない。それがかえって、記者たちの鉛筆を走らせた。
信格は、その人垣の一番前に、紋付袴で立っていた。
一年前、同じ場所で郷馬の肩を抱き、最高の一番弟子だと胸を張ったのは、この自分だった。いまも、記者たちが振り返れば、白い歯を見せて笑ってみせる準備はできている。けれど記者たちは、なかなか振り返らなかった。カメラの向きは、ほとんどすべてが郷馬に注がれていて、信格の紋付の家紋は、フラッシュの光の端を、わずかにかすめるだけだった。
やがて郷馬が、人垣の向こうの信格に気づいた。郷馬は記者たちのあいだを静かに抜けてくると、信格の前で足を止め、深々と頭を下げた。
「先生。ただいま、戻りました」
その一言で、ようやくカメラが信格のほうを向いた。信格はすかさず郷馬の肩に手を回し、白い歯を見せて笑った。
郷馬の肩は、一年前よりも、ずっと高いところにあった。腕を伸ばして抱き寄せようとすると、信格のほうが、爪先立ちになってしまいそうだった。
「よく帰ってきた。こいつは、俺の、最高の一番弟子だ」
一年前と同じ言葉を、信格は、同じ声の調子で口にした。フラッシュが、一斉に焚かれる。郷馬は信格に肩を抱かれたまま、されるがままになって、穏やかな顔でカメラを見ていた。
その肩が、信格の腕の中で、少しも力を入れずにいることに、信格は気づいていた。拒んでもいないし、寄り添ってもいない。ただ、重さだけが、そこにある。
同じ日 羽田から渋谷へ向かうキャデラック
運転席には熊木が座り、後部座席には信格と郷馬が並んで腰を下ろしていた。
二メートルの大男が乗りこんだせいで、後部座席は、ひどく狭く見えた。郷馬は長い脚を斜めに折りたたみ、膝を前の座席の背もたれにつけるようにして座っている。帽子は、膝の上に置かれていた。
一年前、この同じ車の床に、熊木は鞄を抱いて座らされていた。いまは、その熊木がハンドルを握っている。
「寛人くん」
不意に、郷馬が後ろから声をかけた。
「運転、うまくなったね」
熊木は、バックミラーに目をやった。郷馬は窓の外を見たまま、口元だけを、わずかに緩めていた。
「……ありがとうございます」
信格の太い指が、膝の上で、ぴくりと動いた。
「こいつに運転を教えたのは、俺だ」
信格が言うと、郷馬は窓の外から目を離さずに、ゆっくりと頷いた。
「そうでしょうね」
それきり、車の中は静かになった。熊木は、角を曲がるたびに後頭部に拳が落ちてくるのを待っていたが、その日は、一度も落ちてこなかった。信格の拳は、膝の上で固く握られたまま、動かなかった。
同じ夜 東京・内幸町 帝国ホテルの一室
郷馬がその部屋に呼ばれたのは、渋谷の力王パレスで帰国の祝いの宴が跳ねたあと、夜の十一時を過ぎてからのことだった。
部屋で待っていたのは、松木だった。松木は窓際の椅子に浅く腰かけ、ブランデーのグラスを、手の中で揺らしていた。郷馬が入ってくると、立ちあがりもせずに、向かいの椅子を手で示した。
「よく帰ってきたね、郷馬くん」
郷馬は一礼して、椅子に腰を下ろした。松木の背後の窓には、日比谷の夜景が広がっている。
「アメリカの新聞は、全部読ませてもらったよ。君のことは、向こうの興行師たちのあいだでも、ずいぶん評判だそうじゃないか」
「ありがとうございます」
「君は、もともと、うちの球団の人間だった」
松木は、グラスの中の琥珀色を見つめたまま言った。
「野球では芽が出なかったが、あれは、君のせいじゃない。使う側の目がなかったんだ。私は、ずっと、君がこんなところで終わる男じゃないと思っておった」
郷馬は、黙って聞いていた。
東都を解雇されたとき、球団の事務所で一枚の紙を渡されたことを、郷馬はよく覚えている。その紙の端に押されていた判子の名前も、覚えていた。
「これからは、君の時代が来る」と、松木は言った。「力王くんは、立派な男だ。だが、いつまでも同じ顔ばかりが、テレビに映っているわけにもいかんだろう。客は、新しい顔を見たがるものだ」
郷馬は、少しのあいだ、松木の顔を見ていた。それから、穏やかに頭を下げた。
「先生には、お世話になっております」
肯定もせず、否定もしない答えだった。松木はグラスを口に運び、満足そうに目を細めた。
「それでいい。いまはまだ、それでいい」
同じ夜更け 力王パレス八階 客室
郷馬が力王パレスに戻ったのは、夜中の一時を回った頃だった。
帰国してしばらくは、パレスの八階の客室に寝泊まりしろと、信格から言いつけられていた。自分の城の中に置いておけば、どこへ行き、誰と会うのか、すぐにわかる。信格が口にしなかったその理由を、郷馬も天道も、承知していた。
部屋の扉の前の廊下に、天道がひとり、壁にもたれて煙草を吸っていた。
「遅かったな」と、天道は言った。「どこへ行ってた」
「少し、外の空気を吸いに」
郷馬は鍵を開けて部屋に入り、天道も、あとについて入ってきた。
郷馬は、部屋の隅に置いたままの鞄を開け、中から一通の封書を取り出した。ホノルルを発つ前の晩に、ジョージ青木から手渡されたものだった。封筒の中には、郷馬がハワイと本土で稼いだギャラの、一年分の明細が、英語でタイプされて入っていた。
青木は、封筒を渡すとき、片言の日本語でこう言った。
「コーヘイ。アンタノカネ、ゼンブ、リキノトコロニ、オクッタ。アンタ、ナンボ、モラッタ?」
郷馬は、明細の最後の行に記された数字を、もう一度見下ろした。この一年、月に一度、信格の名前で送られてきた小遣いを全部足しても、その数字の十分の一にもならない。
天道が、戸口にもたれたまま、郷馬の手元を、ちらりと見ていた。郷馬はその視線に気づいていたが、明細を隠そうとはしなかった。
「天道さん」
「なんだ」
「先生は、もうお休みですか」
「浜町だよ。ゆりちゃんのところで飲んで、そのまま帰った。今夜は、こっちには来ねえ」
天道は、そう言って、煙草を部屋の灰皿に押しつけた。
「オヤジから、お前の様子を見てこいと言われてな。ちゃんと寝てたと、言っておくよ」
天道は口の端で笑って、部屋を出ていった。郷馬は、閉まった扉をしばらく見つめてから、明細を封筒に戻し、鞄の底にしまった。
郷馬は、寝台の端に腰を下ろし、膝の上で、使い古した手帳を開いた。東都の頃から書きつづけてきた手帳だった。右手で鉛筆を握り、ゆっくりと書きつける。
『四月某日。帰国。
羽田、記者多し。先生、一年前と同じ言葉で、肩を抱く。
帝国ホテル。松木。君の時代が来る、と。
青木さんの明細。ハワイと本土、一年分。先生の懐に。
今夜からは、先生の城に住む。廊下に、天道さん。
技術は、学んだ。
金のことも、学んだ。
あとは、時を待つだけ』
郷馬は手帳を閉じ、窓の外を見やった。屋上のネオンの赤と青の光が、窓ガラスの端を、規則正しく染めては消えていく。
郷馬は寝台に体を横たえ、長い脚を寝台の端からはみ出させたまま、静かに目を閉じた。




