第76話 邂逅
昭和三十七年(一九六二年)三月 東京・有楽町 松木の新聞社 社主室
社主室の窓からは、皇居の濠と、その向こうに芽吹きはじめた木立とが見下ろせた。松木は窓辺に立ったまま、背後の応接椅子に深く腰を沈めた大河原の話を、黙って聞いていた。
「女を、替えさせる」
大河原は、膝の上で指を組みながら言った。
「目黒の女は、もう、使いものにならん。公安の連中が、あれの後ろに張りついておる。いずれは、どこかで表に出る。そのとき力王の横に、あの女がおってはならん」
「別れさせる、と」
「別れさせるのではない。上から、別のものを被せるのだ」
松木は窓から振り返り、眼鏡の奥の目を細めた。
「嫁、ですか」
「そうだ。どこから見ても、きちんとした家の、きちんとした日本の娘をな。大和の英雄が、日本の娘を嫁にもらう。新聞は、一面で書く。テレビは、結婚式を中継する。それで、あの男の後ろにあるものは、全部、見えなくなる」
大河原の口調は、まるで興行の台本を読みあげるようだった。松木はしばらく黙っていたが、やがて机の引き出しから一冊の薄い綴りを取り出し、頁を繰った。
「沢井製紙の娘が、ちょうど年頃です」
「沢井」
「富士の、製紙会社ですよ。親父さんは、元海軍の主計大佐でしてね。朝鮮の特需が終わったときに、取引先に次々と逃げられて、手形が落ちる寸前まで行った。そこを、うちの新聞の用紙を一手に任せてやって、持ち直させたんです」
松木は綴りを閉じ、眼鏡を指で押しあげた。
「あの家は、うちに足を向けては寝られません。断る口は、持っておらんでしょう」
大河原は、満足げに頷いた。松木は、机の上の電話の受話器を取り、秘書を呼びだした。
「田園調布の、沢井さんのお宅へ、繋いでくれ」
同じ月 東京・内幸町 帝国ホテル
見合いの席は、帝国ホテルの奥まった一室に設けられた。
信格は、約束の時刻より三十分も早く着いていた。紋付袴ではなく、銀座の仕立て屋に急がせて作らせた濃紺の背広を着て、ネクタイを何度も締め直しては、窓ガラスに映る自分の顔を確かめている。後ろに控えた天道が、その様子を、珍しいものでも見るような目で眺めていた。
「オヤジ、そんなに締め直したら、首がもげますよ」
「うるせえ」
信格は振り返りもせずに言ったが、その声には、いつもの刺々しさがなかった。
熊木は、ホテルの車寄せで、キャデラックの運転席に座ったまま待たされていた。磨きあげたボンネットに、春の薄い陽が映っている。ホテルの回転扉の向こうへ消えていった信格の背中が、いつもより一回り小さく見えたことを、熊木はぼんやりと思い返していた。
約束の時刻の五分前に、松木の妻に伴われて、仲人役の夫人と、和服姿の初老の男と、その娘とが、部屋に入ってきた。
沢井律子は、二十三歳だった。
田園調布の、銀杏並木の坂の上の家で育った娘である。夏になると一家で鎌倉の別荘に移り、律子は子供の頃から、その海で泳いで育ったのだという。父親は元海軍の主計大佐で、戦後は富士に製紙会社を興し、いまは新聞用紙の大口の取引で、会社を立て直したところだった。律子自身は東京の女子大を出たあと、丸の内の大手商社に勤め、一階の受付に座って、外国から訪ねてくる客にも、片言の英語で取り次ぎをしているのだそうだ。
そのどれもが、仲人役の夫人の口から、まるで履歴書を読みあげるように語られていった。会社が誰のおかげで持ち直したのかということだけは、誰も口にしなかった。
律子は、淡い藤色の訪問着を着て、父親の隣に静かに座っていた。目鼻立ちは控えめで、華やかな美しさとは違う。けれど、背筋がすっと伸び、膝の上に重ねた手の指先までが、乱れることなく整っていた。隣の父親は、松木の妻に何度も深々と頭を下げ、娘の顔を、一度もまともに見ようとしなかった。
信格は、律子の手ばかりを見ていた。
満州の娼館で、秀貞の手は、いつも何かを握りしめていた。煙草か、盃か、客から受け取った札か、あるいは信格の腕か。目の前の娘の手は、何も握っていない。何も握らなくても、そこにじっと置いておけるのだ。
「先生は、長崎のお生まれだそうですね」
仲人役の夫人が席を外し、父親が庭を見に出たあとで、律子が初めて自分から口を開いた。
「ああ」と、信格は答えた。「大村の、在のほうだ。百姓の倅でね」
何百回となく繰り返してきた嘘だった。新聞記者にも、雑誌の聞き書きにも、三友の重役たちにも、同じ言葉を同じ調子で語ってきた。口の中で転がし慣れた飴玉のように、もう味もしない。
「大村なら、海がきれいでしょう。鎌倉の別荘から見る海とは、また違うのかしら」
「ああ。いい海だ」
「わたくし、一度、行ってみたいと思っておりました」
律子はそう言って、小さく微笑んだ。疑う色は、どこにもなかった。
信格は、自分の嘘が、この娘の中に、何の引っかかりもなく滑りこんでいくのを感じた。それは、拍手喝采の中で空手チョップを叩きこむときとはまるで違う、底の抜けたような心地だった。
しばらく、二人は黙っていた。窓の外の日比谷の木立を、春の風が揺らしている。
「あの」と、律子が、ためらいがちに言った。「失礼なことを申しあげたら、お許しくださいね」
「なんだ」
「父と一緒に、金曜の夜に、いつもテレビで先生を拝見しておりますの。父は、先生がアメリカ人をやっつけるたびに、膝を叩いて喜んでおります」
律子は、膝の上の指先に、そっと目を落とした。
「でも、わたくし、ずっと思っておりました。勝って、リングの上で手を挙げていらっしゃるとき、先生は、いつも、少しだけお寂しそうなお顔をなさってるって」
信格は、何も言えなかった。
背広の内ポケットの上に、知らず知らず手が当てられていた。二つに折った古い写真の角が、生地越しに、かすかに胸に触れている。
「……ふっ」
ずいぶん間を置いてから、信格はようやく笑った。けれど、その笑いは、どこにも届かないまま、部屋の空気の中に消えていった。
「おかしなことを言う娘だ」
律子は顔を上げ、信格の目をまっすぐに見て、それからまた、小さく微笑んだ。
同じ日の夕方 帝国ホテルの車寄せ
回転扉から出てきた信格は、車寄せで待っていたキャデラックに乗りこむと、しばらくのあいだ、何も言わずに窓の外を見ていた。熊木は、エンジンをかけたまま、行き先を告げられるのを待っていた。
「……寛人」
「はい」
「お前、女に、寂しそうな顔だと言われたことはあるか」
熊木は、バックミラーの中の信格の顔を見た。その顔は、雪の夜の車中で見たものとも、リングの上で手を挙げているときのものとも違っていた。何かを持てあました子供のような、途方に暮れた顔だった。
「……ありません」
「そうか」
信格は、窓の外に目を戻した。
「目黒じゃねえ。浜町へやれ」
熊木はギアを入れ、ゆっくりと車を出した。日比谷の通りには夕暮れの灯りがともりはじめ、帝国ホテルの重厚な壁が、バックミラーの中で遠ざかっていった。
同じ夜 東京・目黒 秀貞の部屋
その夜も、信格は、目黒には帰らなかった。
秀貞は、離れの卓袱台の前に座って、母屋の暗い窓を眺めていた。帰らない夜には、慣れていた。慣れていたはずなのに、今夜の母屋の暗さは、いつもより深く見えた。
卓袱台の上には、昼間に天道が届けにきた菓子折りが、手もつけずに置いてある。帝国ホテルの包み紙だった。天道は、オヤジからです、とだけ言って、秀貞の顔を見ずに帰っていった。
秀貞は、その包み紙を、長いあいだ見つめていた。
同じ夜 東京・世田谷 大河原の屋敷
「乗り気か」
大河原は、座敷の床の間を背にして、天道の報告を聞いていた。
「乗り気、というのとは、少し違います」と、天道は答えた。「あんなオヤジは、見たことがありません。何というか……怯えていました」
「怯えていた、か」
大河原は、低く笑った。
「それでいい。怯えておる男は、手綱を引けば、どこへでもついてくる」
天道は、畳に両手をついて頭を下げたまま、何も答えなかった。
座敷の外では、春の夜風が、庭の竹を、さらさらと鳴らしていた。




