第四章 赤い送金 仕組まれたブック 第75話 疑惑
昭和三十七年(一九六二年)二月 東京・新橋 ガード下の喫茶店
国電のガード下にある喫茶店は、頭の上を電車が通るたびに天井の電球が揺れ、珈琲茶碗の受け皿が、かたかたと鳴った。午後の三時、客の姿はまばらで、奥の席に向かいあって座る二人の男に目を留める者は、誰もいない。
天道の向かいに座っているのは、正月に大河原の屋敷で炬燵を挟んでいた、あの目立たない顔の中年の男だった。男は、砂糖を二杯入れた珈琲をゆっくりとかき混ぜながら、天道の顔を見ようともせずに口を開いた。
「上野の、漬物屋だ」
男は、上着の内ポケットから折りたたんだ紙片を取り出し、卓の上を滑らせてよこした。御徒町の駅から少し入った裏通りの、小さな店の名前と所番地が、鉛筆で走り書きしてある。
「月に一度、あそこに荷が持ちこまれる。中身は、金だ。そこから先は、新潟の港へ回っているらしい」
「新潟、ですか」
「あの港から、何が、どこへ向かって出ているかは、あんたも知っているだろう」
天道は紙片を手に取り、しばらく黙って眺めていた。帰還船という言葉を、男は口にしなかったが、口にしなくても、二人のあいだでは通じていた。
「その荷を持ちこんでいるのが誰なのか、確かめてもらいたい」と、男は言った。「あんたなら、顔がわかるはずだ」
電車がまた頭上を通り過ぎ、揺れる電球が、男の顔に落ちる影を伸び縮みさせた。天道は紙片を背広の内ポケットにしまい、冷めかけた珈琲を一口すすったが、ひどく苦かった。
「わかりました」と、天道は言った。
横浜の港で、朝鮮人の荷役たちに混じって汗を流していた頃のことを、天道はときどき思い出す。言葉を覚えたのは、生きるためだった。仲間だと思わせなければ、仕事にありつけなかったのだ。あの頃、昼飯の握り飯を半分分けてくれた男たちの顔を、天道はいまでも何人か覚えている。その男たちの言葉で、いまは、別の誰かを売っている。
そのことを、天道は考えないようにしていた。考えはじめれば、帳面を開く手が、止まってしまうからだ。
同じ月の下旬 東京・上野 御徒町の裏通り
二月の終わりの朝は、霜が溶けきらずに、路地の土を白く縁取っていた。
漬物屋の向かいには古い煙草屋があり、天道はその店先で煙草を一箱買って、釣り銭を受け取るふりをしながら、通りの向こうをうかがっていた。店先に並んだ樽からは、白菜と唐辛子の匂いが、かすかに漂ってくる。看板には日本の名前が書いてあったが、樽の中身は、天道が横浜の港で嗅いだのと、同じ匂いだった。
九時を少し回った頃、通りの角から、地味な灰色のコートを着た女が一人、風呂敷包みを胸に抱えて歩いてきた。
煙草の封を切る天道の手が、止まった。
秀貞だった。
髪をきつく引っつめ、化粧もほとんどしていない。目黒の離れで信格の帰りを待っているときの、どこか崩れた艶やかさは影も形もなく、ただの所帯じみた女にしか見えなかった。それでも、その歩き方には見覚えがあったし、風呂敷包みを抱く腕の、何かを守るような角度にも、見覚えがあった。
秀貞は、一度だけ通りの左右を確かめてから、漬物屋の暖簾をくぐった。店の奥から出てきた白い前掛けの老人が、何も言わずに包みを受け取り、二人は短く、朝鮮の言葉で何かを交わしたようだったが、天道の耳には、その声までは届かない。届かなくてよかった、と天道は思った。
ほんの一分ほどで、秀貞は暖簾をくぐって出てきた。胸に抱えていた包みはもうなく、手ぶらになった両腕をどうしていいかわからないというように、コートの前で固く組みあわせている。それから秀貞は、凍えた路地の上で、一度だけ空を見上げた。北の方角だった。
天道は、煙草屋の軒先から一歩も動かずに、その横顔を見ていた。秀貞が通りの角を曲がって見えなくなるまで、火をつけそこねた煙草を、指のあいだで潰していた。
同じ日の夕方 新橋 ガード下の喫茶店
「女でした」
天道は、男が珈琲に砂糖を入れ終えるのを待ってから、そう言った。
「力王山の、目黒の女です。満州の頃からの」
男は匙を置き、初めて天道の顔を、まっすぐに見た。
「本人は」
「たぶん、知りません」と、天道は答えた。「女が、自分の金を、自分の子供に送っているだけです」
言ってから、天道は、自分が余計なことを口にしたと気づいた。男はそれを咎めもせず、手帳を取り出して、何かを短く書きつけた。
「たぶん、か」と、男は呟いた。「大河原さんは、たぶん、という言葉が嫌いでね」
頭上を電車が通り過ぎ、電球が大きく揺れた。天道は、自分の珈琲に手をつけなかった。
同じ夜更け 赤坂から目黒へ向かうキャデラック
その夜、信格は、出資して共同経営者に名を連ねている赤坂のナイトクラブで、日付が変わるまで飲んでいた。
ステージのバンドを何度も呼びつけては同じ曲を演らせ、ホステスたちの胸元に札を押しこみ、気に入らない客のテーブルに氷の入ったグラスを投げつけた。支配人が平身低頭で客をなだめているあいだも、信格は奥の席で葉巻をくわえたまま、ひとり、窓のない壁をぼんやりと見つめていた。
熊木が後部座席に担ぎこんだときには、信格はもう、ほとんど自分の足では立てなくなっていた。
雪がちらつきはじめた夜道を、キャデラックは目黒へ向かって走っている。熊木は、後頭部に拳が落ちてくるのを、ハンドルを握りしめたまま待っていた。角を曲がるたびに肩をこわばらせ、車体を揺らさないように、息を詰めるようにしてハンドルを切る。
けれど、その夜は、いつまでたっても拳が落ちてこなかった。
代わりに後部座席から聞こえてきたのは、低い、くぐもった声だった。
「……オモニ」
熊木は、バックミラーに目をやった。
信格は座席に深く沈みこみ、窓ガラスに額を押しつけて、外を流れる雪を見ていた。焦点の定まらない目が、雪のひとひらひとひらを追っているようにも、何も見ていないようにも見える。
「オモニ……オモニ……」
同じ言葉が、何度も繰り返された。
熊木の背筋を、冷たいものが走った。二年前の夏の夜、合宿所の大部屋の暗がりで、隣の布団にもぐりこんだ大島が、震える声で呟いていたのと、同じ言葉だった。
そのあいだに、日本語ではない言葉が、いくつも混じった。ブラジルの農園で耳にしたポルトガル語でもなかったし、アメリカの兵隊が使っていた英語とも違う。喉の奥から絞りだすような、角の丸い、それでいて、どこか湿った響きの言葉だった。
その響きが、熊木の耳の奥の、古い記憶の端に引っかかった。
十四の年まで暮らした横浜の、桜木町の闇市。焼け跡に並んだバラックの屋台の奥で、唐辛子の匂いのする汁を煮ていた女たちが、こんな響きで何かを話していなかったか。
まさか、と熊木は思った。思って、すぐに打ち消した。
信格の声は、だんだんと細くなっていった。呟きは途切れ途切れになり、やがて、子供が眠りに落ちる前のような、意味をなさない吐息に変わっていく。バックミラーの中で、信格の閉じた瞼の端から、一筋だけ何かが光って、頬を伝い落ちていった。
熊木は、目を前に戻した。
ワイパーが、フロントガラスに貼りつく雪を、規則正しく払い落としていく。熊木の頭の中に、ふと、去年の秋の、力王トルコの湯気の匂いが甦った。控室の薄い扉越しに聞こえてきた、女たちの乾いた笑い声。長崎の川が凍るわけないじゃない、と。
あの夜、この男は、子供の頃に凍った川の上を走って向こう岸まで渡ったのだと、女に話していたという。
目黒の坂を上りきるまで、後部座席からは、もう何の声も聞こえてこなかった。
翌日 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
昼の稽古が終わったあと、熊木は、物干し場で煙草を吸っている沢登のところへ、洗いたての練習着を抱えたまま近づいていった。
「沢登さん」
「おう、なんだ」
「オモニって、何ですか」
沢登の指から、煙草の灰が、ぽとりと落ちた。
沢登は、しばらく何も言わずに、熊木の顔を見ていた。いつもの間延びした笑みは、どこにもなかった。それから、物干し場の周りに誰もいないことを確かめるように、ちらりと道場の窓を振り返った。
「知らねえな」と、沢登は言った。「どこで聞いた」
熊木は、答えなかった。答えなくても、沢登にはわかったようだった。
沢登は、吸いかけの煙草を地面に落とし、草履の裏で、念入りに踏み消した。
「寛人。その言葉はな、二度と口にすんな」
低い声だった。
「誰の前でもだ。とくに、天道の前ではな」
沢登はそれだけ言うと、熊木の肩を一度だけ強く叩いて、道場の中へ戻っていった。
熊木は、洗いたての練習着を抱えたまま、物干し場に一人で立っていた。二月の風が、竿に吊るされた白い練習着を、ばたばたと鳴らしていた。




