第三章 最終話 第74話 帝国
昭和三十六年(一九六一年)十二月二十八日 力王パレス最上階 会員制クラブ
仕事納めの夜の、パレスだった。
三友電機の重役たちに、松木の局の編成局長、銀幕のスターと流行歌の歌手、相撲協会の理事に、どこの誰とも知れない金回りのいい男たち。窓際のテーブルには銀の盆に盛られた牡蠣と伊勢海老が並び、白い上着のボーイたちが、シャンパンの瓶を抱えて、客の間を縫うように歩きまわっている。窓の外には、年の瀬の渋谷の灯りが、どこまでも途切れずに広がっていた。
この一年で、信格が手に入れたものは、数え切れない。渋谷の九階建ての城に、浜町の別宅、箱根の山を切り開いているゴルフ場の権利、金を出して共同経営者に名を連ねた赤坂のナイトクラブ、それに地方の興行網を丸ごと押さえた子会社がいくつか。金曜夜八時の「三友ゴールデン・アワー」は、この年も一度として、視聴率の首位を譲らなかった。
客たちは入れ代わり立ち代わり信格の前に進み出て、盃を捧げ、頭を下げていく。信格は、窓を背にした一番大きな椅子にふんぞり返り、紋付の袖から太い腕を突きだして、その一つ一つに鷹揚に頷いてみせた。
壁際には、大和プロレスのレスラーたちが、一列に並ばされていた。芳村は額にまだ薄く傷跡を残したまま、客の顔と名前を一人ずつ頭に刻みつけるように見つめており、沢登は早くもシャンパンの瓶を一本くすねて、柱の陰でこっそり口をつけている。天道は信格の背後に影のように控え、客が名乗るたびに、手帳に小さく何かを書きこんでいた。
熊木は、ボーイたちに混じって、空いた皿とグラスを下げて回っていた。
「先生、今年は、先生の年でしたな」と、三友の重役が赤ら顔で言った。「来年は、どこまで行かれるおつもりで」
「どこまで、だと」
信格は盃を干し、白い歯を見せて笑った。
「行けるところまでだ。この国で俺の名前を知らねえ奴は、もう一人もいねえ。次は、世界だ」
客たちのあいだから、どっと拍手が湧いた。その拍手を背中で聞きながら、熊木は、重ねたグラスを盆に載せ、黙って厨房へ運んでいった。
同じ夜 東京・目黒 秀貞の部屋
目黒の屋敷の離れには、ラジオから、年の瀬の歌番組が小さく流れていた。
秀貞は、卓袱台の上に新聞紙を広げ、その上に一万円札を一枚ずつ並べていた。信格が月に一度、何も言わずに置いていく金の中から、少しずつ取り分けてきたものである。並べ終えると、秀貞はそれを丁寧に揃えて油紙に包み、さらに古い着物の端切れでくるんで、糸できつく縛った。
包みの上には、朝鮮の文字で、宛名が書いてあった。海の向こうの、北の、雪深い村の名前である。
秀貞は、包みを両手で胸に抱き、しばらく目を閉じていた。最後に娘の顔を見たのは、あの子がまだ二つになるかならないかの頃だった。いまでは、もう、人の背丈ほどにもなっているだろうか。
明日の朝には、上野の裏通りの、あの漬物屋の主人に渡すことになっている。そこから先、包みがどんな道をたどって海を越えるのか、秀貞は知らないし、知ろうともしなかった。
ラジオの中で、美園ゆりが歌いはじめた。秀貞は包みを箪笥の奥にしまい、離れの小さな窓から、母屋の暗い窓を見やった。今夜も、あの人は帰ってこない。
同じ夜 力王パレス最上階
宴が最高潮に達した頃、クラブの入口に、地味な背広の上から古いオーバーを羽織った若い男が、場違いなほど遠慮がちに立っていた。
張音勲夫だった。
東名の主力打者として、この年は打率で球界の頂点に立ち、首位打者の称号を手にした男である。それでいて、パレスの金色の扉の前では、広島の路地裏から出てきたばかりの少年のように、オーバーの襟を握りしめて立ちすくんでいた。
信格は、扉の前のその姿を見つけるなり、客たちの輪を両手でかき分けて立ちあがった。
「勲夫! 来たか」
さっきまで重役たちに見せていたのとはまるで違う顔で、信格は張の肩を抱き寄せると、客たちの目もはばからずに、窓際の自分の席まで引っぱっていった。ボーイに命じて厨房に分厚いステーキを焼かせ、山盛りの皿を張の前に置かせる。
「食え。全部食え。首位打者が、そんな細い腕でどうする」
張は、困ったように笑いながら、ナイフとフォークを取った。信格は向かいの椅子に腰を下ろし、張が肉を口に運ぶのを、満足そうに眺めていた。
「見ろ、勲夫」
信格は、窓の外を顎で指した。
「この下の灯りの、あれも、これも、半分は俺のもんだ。このビルも、箱根の山も、赤坂の店も、全部、俺が建てたんだ。誰の手も借りずにな」
張はナイフを止め、窓の外に広がる渋谷の灯りを、しばらく黙って見つめていた。それから、隣でシャンパンを呷っている信格の横顔に、目を移した。
「兄さん」
張は、二人きりのときにしか使わない呼び方で、ほかの誰にも聞こえないほど小さく言った。
「こんなに広いところにいて、寒くないですか」
信格は、盃を口元に運びかけた手を、宙で止めた。
窓の外では、ネオンの光が、赤く、青く、明滅を繰り返している。背後では、客たちの笑い声と、グラスの触れあう音とが、途切れることなく続いていた。
「……ふっ」
しばらくして、信格は笑った。
「寒いわけがあるか。暖房が、ガンガン効いてるだろうが」
そう言って張の頭を乱暴に撫でまわし、いいから、食え、と、皿をさらに押しやった。張は、それ以上何も言わずに、黙って肉を切り分けはじめた。
信格の手は、そのあいだずっと、紋付の胸元に当てられたままだった。
昭和三十七年(一九六二年)一月五日 東京・文京区 拓陽大学柔道場
松の内も明けきらぬ一月五日、拓陽大学の古い木造の道場では、稽古始めが行われていた。白い息を吐きながら、五十人あまりの学生たちが、正座して並んでいる。
その正面に、政木が立っていた。
南米の放浪から戻り、母校の柔道部の監督に迎えられて、もうすぐ一年になる。異国の陽に焼けた顔には深い皺が刻まれ、髪にも白いものが目立ちはじめていたが、背筋だけは、かつて柔道王と呼ばれた頃のまま、一本の竹のように真っすぐに伸びていた。
道場の隅では、文枝が、火鉢に炭を足していた。
肺を患い、一時は医者からも匙を投げられた妻は、政木の黙々とした看病のかいあって、いまでは頬に赤みが差すほどに持ち直していた。稽古のたびに道場に顔を出しては、学生たちのために湯を沸かし、破れた道着の繕いものをしている。学生たちは、この物静かな監督夫人を、ひそかに道場の母と呼んでいた。
道場の窓際に、誰かが持ちこんだ新聞が一部、置き忘れられていた。年末のパレスの忘年会を伝える記事と、窓を背にした紋付姿の男の、大きな写真が載っている。
政木はそれに目を留め、しばらく見下ろしていた。それから黙って新聞を畳み、文枝の火鉢の脇に置いた。焚きつけにでも使え、という意味だった。
「監督」と、最前列の主将が、遠慮がちに口を開いた。「あの人は、監督を……」
学生たちのあいだに、緊張が走った。巌流島のことを知らない者は、この道場には一人もいない。
政木は、主将の顔を、まっすぐに見た。
「強さはな、人に見せびらかすためのものではない」
低く、穏やかな声だった。
「自分の弱さと、毎朝、向きあうためのものだ。わしは、それを、南米の土の上で教わった」
政木は、それだけ言うと、道着の帯を締め直し、道場の真ん中に進み出た。
「始め」
号令とともに、五十人の学生たちが一斉に立ちあがり、組みあい、投げあう音が、凍えた道場の床を震わせはじめた。
火鉢の前で、文枝は、畳んだ新聞を手に取ったが、焚きつけにはせずに、そっと自分の膝の上に置いた。
南米から毎月のように書き送っていた、逃げるな、の手紙のことを、政木は一度も文枝に話したことがない。けれど文枝は、夫がいまもときおり、夜中に一人で起きだして、筆をとっていることを知っていた。宛先が誰なのかも、知っていた。
同じ日 東京・世田谷 大河原の屋敷
広い座敷の床の間に、松飾りが飾られていた。
大河原は、炬燵に足を入れたまま、一冊の薄い綴りを膝の上に開いていた。向かいには、地味な背広を着た、目立たない顔の中年の男が正座している。男は名を名乗らなかったし、大河原も訊かなかった。公安の、それなりの地位にある男だということだけが、互いにわかっていればよかった。
綴りの表紙には、ただ「崔」とだけ書かれていた。
「年末から、上野の裏筋で、妙な金の流れがありましてな」と、男は言った。「北へ向かう荷の中に、どうも、渋谷の匂いがするのが、いくつか混じっておる」
大河原は、綴りの頁を、ゆっくりとめくった。そこには、天道が帳面に書きつけてきた走り書きを、誰かが清書したらしい文字が、几帳面に並んでいる。日付と、場所と、会った相手の名前。そして、ところどころに、朝鮮語で記された短い言葉。
「本人が、送っておるのか」
「まだ、わかりません。女かもしれん。あるいは、本人の知らんところで、周りが勝手に」
大河原は、しばらく黙って綴りを見下ろしていた。床の間の掛け軸の前で、松飾りの青い葉が、炭火の熱にかすかに揺れている。
「力王は、自分の帝国を築いたつもりでおる」
大河原は、綴りを閉じて、炬燵の上に置いた。
「だが、砂の上に建てた城ほど、よう燃える」
公安の男は、何も答えずに頭を下げた。
障子の外では、正月の陽が、白く冷えた庭石を、静かに照らしていた。
第三章「怪物の帝国」は、ここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
柔道王を倒し、日本一の男となった力王山は、元横綱の友を血まみれの噛ませ犬にし、愚連隊から逃げてその友に頭を下げさせ、ついに決別します。台本で世界の王座を手に入れ、渋谷に九階建ての城を建て、金曜夜八時の茶の間を独り占めにしました。
その足元には、三人の若者がいました。
収容所から拾いあげた、同じ国の言葉を話す密航者。二メートルの体と、何も語らない眠たげな目と、一冊の手帳を持つ元投手。そして、夜の海に突き落とされても泳いで戻り、翌朝には黙って靴を磨いていた、ブラジル帰りの野良犬。
城の最上階で、張に「寒くないですか」と問われた男は、笑ってごまかしながら、ずっと胸の写真に手を当てていました。
そして、世田谷の座敷では、「崔」とだけ表紙に書かれた綴りが、静かに開かれています。
明日からは、第四章「赤い送金、仕組まれたブック」の投稿を始めます。
海の向こうへ送られつづけた金。北に残された娘。新しい妻との縁談。見えない糸は、いよいよ力王山の首に、その形をはっきりと現しはじめます。
帝国が、内側から燃えはじめる章です。どうか、見届けてください。
『仮面の怪物 ~昭和の英雄と、見えない糸の群像劇~』を、引き続きよろしくお願いいたします。
木下店長




