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第73話 殿堂

 昭和三十六年(一九六一年)十月 東京・渋谷


道玄坂の下に、それは建っていた。


地上九階、鉄筋の白い壁が秋の陽を照り返し、屋上には「力王パレス」の文字をかたどったネオン管が、まだ灯らないまま、空に向かって組みあげられている。一階から三階まではプロレスとボクシングのための大ホールで、四階にはボウリング場、上の階にはレストランと会員制のクラブが入り、地下には蒸し風呂と按摩の店まで備えてあった。


工事の足場が外され、仕上げの職人たちが最後の窓ガラスを磨いているところへ、信格は紋付袴で乗りつけ、車を降りるなり、しばらく黙って、その白い壁を見上げていた。


かつてこの坂の裏手には、焼け跡のバラックが軒を連ね、闇市の煙が昼夜を問わず立ちのぼっていた。いま信格の目の前にあるのは、そのすべてを踏み潰して建てた、自分の名を冠した城である。


「どうです、オヤジ」と、後ろに控えた天道が言った。「東洋一の殿堂だと、松木さんの新聞が書いてくれるそうですよ」


「ふっ」と、信格は鼻で笑い、葉巻をくわえた。「東洋一で、足りるかよ」


三友電機の重役が差しだした金の鋏を、信格は、こけら落としの日まで取っておけ、と突き返した。


同じ日 力王パレス九階 社長室


その日の夕方、天道が、一通の電報を持って社長室に上がってきた。


窓の外には渋谷の街が広がり、駅前の灯りが、ひとつ、またひとつと灯りはじめている。信格は革張りの椅子に深く身を沈めたまま、天道の手から電報を引ったくった。差出人は、ホノルルの興行師、ジョージ青木だった。


『ゴウマ ホンドノ ケイヤク エンチヤウ ライネン ハル マデ カエレズ ホンニン キボウ ナリ』


信格は、片仮名の羅列を、二度読み返した。


本人、希望なり。


その一行だけが、ほかの文字よりも黒く、太く、紙から浮きあがって見えた。この秋のこけら落としには、あの大男をメインに立たせるはずだった。アメリカで名を上げた二メートルの日本人を逆輸入の怪物として売りだし、満員の客で自分の城を埋め尽くすはずだったのだ。それを、あの男は、自分の口で断ってきた。


電報は信格の掌の中で丸められ、絨毯の上に投げ捨てられた。


「誰が、許した」


天道は、答えなかった。答えようのない問いだということを、二人とも知っていた。


「青木の野郎に、打ち返せ。首に縄をつけてでも連れ戻せ、とな」


「打ちますがね、オヤジ」と、天道は、絨毯の上の紙屑を拾いながら言った。「向こうの契約は、向こうの法律で守られてますよ。あっちは、日本じゃない」


信格の手の中で、葉巻が、ぎしりと鳴った。


「……なら、いい」


しばらく黙りこんだあと、信格は、低く言った。


「こけら落としのメインは、俺がやる。この城は、俺が建てたんだ。俺が、満員にしてやる」


昭和三十六年(一九六一年)十月下旬 力王パレス大ホール


こけら落としの夜、大ホールは、立錐の余地もないほどの客で埋まった。


三方を囲む階段状の客席は、背広の勤め人と学生服の若者と、晴れ着の女たちとで隙間なく塗りこめられ、天井から吊られた照明の熱と人いきれとで、十月の末だというのに汗ばむほどだった。リングの真上には三友電機の巨大な看板が掲げられ、その脇には松木の局のテレビカメラが三台、黒い首をもたげて、リングを睨んでいる。


二階の正面には、硝子張りの貴賓席がしつらえてあった。大河原が中央に座り、その右に松木、左には岸本と佐々川が並んでいる。後ろの列には、神戸から上京した岡田が美園ゆりを連れて座り、ゆりは身を乗りだすようにして、まだ誰もいないリングを見下ろしていた。


「満員ですな」と、松木が眼鏡を拭きながら言った。


「満員だな」と、大河原は応じ、膝の上で指を組んだ。「力王は、自分の城を建てたつもりでおる」


松木は眼鏡をかけ直し、リングの上の三友の看板を見上げた。


「郷馬が戻らんのは、かえって好都合でした。あれは、もっと大きくしてから使います。急いで力王の前座に並べて、小さく見せることもない」


大河原は、何も言わずに頷いた。後ろの列の岡田は、その会話を聞くともなしに聞いていたが、やがて隣のゆりに目を移し、黙って彼女の肩に手を置いた。


ゴングが鳴ったのは、八時ちょうどだった。三友ゴールデン・アワーの放送開始と、寸分たがわぬ時刻である。


相手は、アメリカから呼んだ赤毛の大男だった。序盤は台本どおりに信格が攻めこまれ、場外に落とされ、パイプ椅子で背中を打たれて、額から血を流してみせる。客席から悲鳴が上がり、ゆりが両手で口を覆った。


リングサイドで、熊木は、タオルと水の桶を抱えてしゃがみこんでいた。場外で這いつくばる信格の背中が、すぐ目の前にある。その背中が、客の悲鳴が高まるのを待つように、ほんの一呼吸だけ、じっと動かずにいるのが、熊木にはわかった。


それから信格は、ゆっくりと立ちあがった。


紅潮した顔を客席に向け、両腕を広げて、リングへ戻っていく。客席が地鳴りのようにどよめき、そこからは、空手チョップの嵐だった。赤毛の大男の胸板に、首筋に、額に、信格の手刀が叩きこまれるたびに、乾いた音がホールの天井まで跳ね返り、客たちは総立ちになって、拳を突きあげた。


最後の一撃で大男がマットに沈み、レフェリーの沖田がカウントを三つ数え終えると、ホールは、割れんばかりの歓声に包まれた。


リングの真ん中で、信格は、血に濡れた顔のまま、両手を高々と掲げた。貴賓席の硝子越しに大河原と松木が拍手を送り、ゆりが立ちあがって手を振っている。白い歯を見せて笑う信格の顔を、三台のテレビカメラが、日本じゅうの受像機へ送り届けていた。


熊木は、リングの下から、その顔を見上げていた。ひと月前、雨の夜のバックミラーに映っていた、あの怯えた肉の塊と同じ顔だとは、とても思えなかった。


同じ夜更け 力王パレス地下 蒸し風呂「力王トルコ」


興行が跳ね、貴賓席の客たちが銀座の料亭へ流れていったあとも、信格はひとり、地下へ降りていった。


湯気の立ちこめる浴室には、白い上っ張りを着た若い女たちが三人、壁際に並んで待っていた。どの女も、信格の姿が湯気の向こうに現れると、申しあわせたように笑顔をつくって頭を下げる。信格は額の傷にまだ血をこびりつかせたまま、大理石の寝台にうつぶせに横たわり、一番若い女を、顎で呼んだ。


女は、石鹸を泡立てた布で、信格の広い背中を洗いはじめた。


「お前、どこの生まれだ」


不意に訊かれて、女の手が、一瞬止まった。


「……青森です」


「青森か。雪が、深いんだろうな」


信格は目を閉じたまま、珍しく穏やかな声で言った。


「俺の生まれたところも、冬は寒くてな。川が、端から端まで凍るんだ。子供の頃は、その上を走って、向こう岸まで渡ったもんだ」


女は、何も答えなかった。答え方が、わからなかったのだ。この人の生まれは長崎だと、新聞にも雑誌にも、そう書いてある。長崎の川が凍るという話は、聞いたことがなかった。


信格は、それきり黙った。背中を流す布の感触だけが、湯気の中で続いていた。やがて信格は寝台の上で身を起こすと、脱衣籠の上着から札入れを取り出し、厚い札束を一つ抜いて、女の白い上っ張りの胸元に押しこんだ。


「取っとけ」


女は、札束を胸元に挟んだまま、深々と頭を下げた。


信格が浴室を出ていき、階段を上る足音が遠ざかってしまうと、女たちはそろって控室に引きあげた。一番若い女は、胸元の札束を引き抜いて鏡台の上に放りだし、蛇口をいっぱいにひねって、両手を何度も何度も洗いはじめた。


「金持った、不潔な化け物」


年かさの女が、煙草に火をつけながら吐き捨てる。「あの汗の匂い、三日は取れないよ」


「川が凍る、だってさ」と、若い女が、泡だらけの手を擦りあわせながら言った。「長崎の川が凍るわけないじゃない。酔っ払って、何言ってんだか」


女たちの乾いた笑い声が、控室の薄い扉越しに、廊下へ漏れていた。


その廊下の暗がりで、熊木は、モップを握ったまま立ち止まっていた。浴室の床を拭いておけと言いつけられ、湯気の名残りが白く漂う廊下を、ひとりで磨いていたところだった。


長崎の川は、凍らない。それは、熊木にもわかる。けれど、あの男が凍った川の上を走って渡った子供だったということも、なぜか、嘘だとは思えなかった。


熊木は、モップを握り直し、黙って床を拭きつづけた。控室の笑い声は、まだ止まなかった。


同じ夜更け 力王パレス屋上


屋上では、ネオン管が、ようやく灯されていた。


赤と青の光で「力王パレス」の文字が夜空に浮かびあがり、道玄坂を行き交う酔客たちが、ときおり足を止めて見上げていく。その光の真下、給水塔の陰に、信格はひとり立っていた。


紋付の胸元から、二つに折った古い写真を取り出しかけて、やめた。代わりに葉巻をくわえ、ネオンの明滅を顔に受けながら、眼下に広がる渋谷の灯りを見下ろした。


この城は、俺が建てた。客は、満員だった。大河原も松木も手を叩き、ゆりは立ちあがって手を振っていた。日本じゅうの受像機が、俺の顔を映していた。


それなのに、この九階建ての建物の、どの部屋にも、自分の居場所がないような気がした。


「ふっ」


信格は笑って、夜風に煙を吐いた。ネオンの光は、彼の頭の上で規則正しく明滅を繰り返し、赤く染まったかと思うと青く冷え、また赤く燃えあがっていた。



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