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第72話 捨牌

 昭和三十六年(一九六一年)九月 東京・浜町 信格のマンション


雀卓の上に低く垂れこめた煙草の煙が、窓の隙間から入る湿った風に、ときおり揺れている。外では秋の雨が隅田川の川面を叩き、対岸の倉庫の灯りを滲ませていた。


東に信格、南に天道、西に沢登、そして北に芳村が座っている。


芳村は、三所の山部屋で信格の弟弟子だった男である。十両の土俵を何場所か踏んだところで髷を切り、しばらくは名古屋の自動車会社で事務方の勤め人をしていたが、信格のあとを追うようにリングへ上がってきた。旗揚げから数年が過ぎた頃のことで、いまでは中堅として、地方巡業の前座から中盤までを黙々と支えている。誰とも揉めず、誰の顔も潰さないから、若い衆からも先輩からも悪く言われたためしがない。そのくせ巡業の帳尻だけは誰よりも早く正確に合わせる男で、興行先の旅館でほかの者が酔い潰れている夜にも、一人だけ帳面と算盤を広げているのが常だった。


卓の脇の小机には、松木の新聞が畳まれもせずに置いてある。運動面を飾っているのは、また郷馬の写真だった。『郷馬、ロサンゼルスに上陸 本土の大男たちを総なめ』という見出しが、雀卓の灯りの端にかかっている。


信格は牌を一つ引くと、ろくに見もせずに河へ捨てた。


「ロン」と天道が手牌を倒し、「すみませんね、オヤジ。安いですよ、千点」と、悪びれもせずに笑う。


信格が放った点棒は天道の手元まで届かず、卓の縁から床へ転がっていったが、天道は文句一つ言わずに身をかがめ、それを拾いあげた。


半荘が三つ過ぎても、信格の点棒は減っていく一方だった。見かねた沢登が信格の手元をちらりとうかがい、自分の手牌から一枚を選んで河に捨てる。信格の待ち牌だと、沢登にはわかっていた。ところが信格は、それを見逃してしまった。目が卓ではなく、小机の新聞に吸い寄せられていたからだ。写真の中の郷馬は、ロサンゼルスのリングの真ん中に静かに立ち、両手を挙げるでもなく、口元だけをわずかに緩めている。


「オヤジ、それ、当たりじゃないんすか」


沢登の声に、信格はゆっくりと卓へ目を戻し、沢登の捨て牌と自分の手牌とを見比べた。だが、もう遅い。次の順番の芳村が牌を引き、何も知らずに捨ててしまったあとだった。


信格の顔から一度すっと血の気が引き、それから見る間に赤黒く染まっていった。


次の瞬間、ガラスの灰皿が宙を飛んでいた。


吸い殻と灰を雨のように雀卓へ撒き散らしながら、重い灰皿はまっすぐ芳村の額へ向かい、骨に当たる鈍い音を部屋に響かせた。芳村は身をかわそうともしなかった。かわせば灰皿は背後の窓ガラスを割り、そうなればこの人はもっと荒れる。そのことを、弟弟子だった頃からの長い付きあいで、芳村は骨身に染みて知っていたのである。額で跳ね返った灰皿は床に落ち、割れもせずに鈍く転がっていった。


裂けた額から溢れた血は、眉を伝い、頬を流れて、伏せた牌の上にぽたりと落ちる。白い牌が赤く濡れていくのを、芳村は背筋を伸ばしたまま、ただ黙って見下ろしていた。


「なんで捨てた」と、信格は低い声で言った。「なんで、あの牌を捨てた」


「すみません、先生。自分が、悪うございました」


見逃したのが信格のほうだということは、天道も沢登も、芳村自身も、そして当の信格も、みな承知している。承知していながら、誰一人それを口にする者はいなかった。


沢登が黙って台所へ立ち、手拭いを持って戻ってきても、芳村は受け取ろうとしない。信格の許しが出るまでは、そうするつもりなのだ。


「……拭け」


吐き捨てるような信格の一言を待って、芳村はようやく手拭いを受け取り、沢登に小さく礼を言ってから額に押し当てた。白い布は、みるみるうちに赤く染まっていく。


そのあいだ、天道は卓に散った灰と吸い殻を指先で静かに払い、血のついた牌を一枚ずつハンカチで拭っていた。ただ、その目だけは、信格の手元から離れない。葉巻を挟んだ信格の太い指が、細かく震えているのを、天道は見逃さなかった。


「続けるぞ。次は、俺の親だ」


牌がかき混ぜられ、じゃらじゃらと乾いた音が部屋に満ちる。それからの半荘は、信格が勝ちつづけた。沢登が振りこみ、天道が振りこみ、額に手拭いを巻いた芳村までもが振りこんでくる。どれもが見え透いた振りこみで、信格はそれに気づいていながら、気づかないふりをして点棒を受け取った。勝つたびに点棒を卓へ叩きつけるように並べ、そのたびに三人が黙って頭を下げる。


信格は、少しも楽しくなかった。


同じ夜 浜町のマンション 寝室の脇の小部屋


客が帰ってしまうと、信格は寝室の脇の小部屋に入り、机に向かった。机の上には、昼間に天道が持ってきた銀行の封筒が置いたままになっている。ホノルルの興行師ジョージ青木から届いた、郷馬の半年分のギャラだった。


封筒から為替を抜き出して指先で数えてみると、郷馬が一度も手にしたことのない額になる。信格はそれを封筒ごと机の引き出しにしまいこみ、鍵をかけた。郷馬には月に一度、決まった額の小遣いを送らせているのだから、それで十分だろう。あいつは俺の飯を食い、俺の金でハワイへ行かせてもらっている身だ。あいつの名前を売ってやったのは、この俺なのだ。


そう思ったし、そう思おうともした。


引き出しの鍵を背広のポケットに落としこんだとき、同じポケットの内側で、二つに折った古い写真の角が指先に触れ、信格は思わず手を引っこめていた。


金ならある。渋谷のビルも、もうすぐ建つ。世界の王者も呼んだし、大河原も松木も、俺の前では笑っている。それなのに、なぜこれほど苛立つのか。


机の上の葉巻を取って火をつけようとしたが、マッチは二度続けて折れ、三本目でようやく火がついた。窓の外では、雨がまだ降りつづいていた。


同じ夜更け 浜町から目黒へ向かうキャデラック


「今日から、お前が運転しろ」


その日の昼、信格はそう言って、キャデラックの鍵を熊木に投げてよこしていた。沢登は競艇場通いが過ぎて、もう車を任せられない、というのが表向きの言い分だったが、本当の理由を訊こうとする者は誰もいなかった。


雨の夜道を、キャデラックが走っている。熊木は長い脚を運転席に窮屈そうに折り曲げ、両手でハンドルを握りしめていた。後部座席には信格が一人きりで座り、麻雀のあとにさらに空けたウイスキーの匂いを、狭い車内に漂わせている。窓ガラスを雨粒が絶えず流れ落ち、ワイパーが規則正しく、きい、きい、と鳴いていた。


人形町の交差点を曲がった角で、車体がほんのわずかに揺れた、その瞬間だった。


後頭部に拳が落ち、鈍い衝撃に熊木の頭が前へ揺れる。ハンドルを握る手に思わず力がこもったが、車は少しもぶれなかった。


「揺らすな」


後ろから飛んできた声に、熊木は何も答えなかった。次の角ではできる限りゆっくりとハンドルを切り、車体はほとんど揺れもしなかったが、それでも拳は落ちてきた。


「遅え。曲がるのが遅えんだよ」


ごつん、と鈍い音が、ワイパーの音に重なる。


「ブラジルの猿が、俺の車を転がしてんじゃねえ」


ごつん、ごつん、ごつん。


もはや理由などなかった。拳は熊木の後頭部へ、雨垂れのように規則正しく落ちつづける。後頭部が痺れ、雨に濡れた道がときおり白く霞んだが、熊木はまっすぐ前を見たままハンドルを握り、車をぶれさせなかった。


ひと月前の、隅田川の見える部屋。三杯の黒いラベル。だろう、欣ちゃん、と笑った声。あの夜、高々とグラスを掲げていたのと、いま自分の頭を殴りつづけているのは、同じ男の同じ手なのだった。


ふと、熊木はバックミラーに目をやった。


薄暗い後部座席に映っていたのは、王者の顔でも、大和の英雄の顔でもなかった。焦点の合わない目に半開きの口、酒と汗で濡れそぼった顔で、何かに怯えるように肩をすぼめている。拳を振りあげるたびにその顔がくしゃりと歪み、まるで泣いているようにさえ見えた。


見てはいけないものを見てしまった気がして、熊木はすぐにバックミラーから目を逸らした。


ごつん、とまた拳が落ちる。歯を食いしばりながら、目黒の坂まであとどれくらいあるのかと、熊木はただそれだけを考えていた。雨は、フロントガラスを叩きつづけていた。



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