第71話 三杯
昭和三十六年(一九六一年)八月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
夜の十時を過ぎていた。道場には、もう、熊木しかいなかった。
先輩たちは、とうに浜町や人形町の飲み屋へ散っていた。沢登は、競艇の予想紙を小脇に抱えて、夕方のうちに消えていた。天道は、昼過ぎから、信格について出かけたきりだった。
裸電球が一つだけ、リングの上を照らしていた。熊木は、マットの上で、首だけで体を支えていた。両足の裏と、頭のてっぺんだけを床につけ、背中を弓のように反らせていた。ブリッジだった。
叩きつけられて腫れた背中が、軋んだ。それでも、熊木は、崩れなかった。汗が、額から、マットに落ちた。
誰に言われた稽古でもなかった。誰も見ていなかった。それでも、熊木は、毎晩、これをやった。
首を鍛えろ。首が太ければ、誰にも折られん。ブラジルの農園で、祖父が、そう言っていた。本物はな、首が違うんだ、と。
そのとき、二階の事務所で、電話が鳴った。熊木は、ブリッジを崩して、階段を駆けあがった。受話器を取った。
「はい、大和プロレスでございます」
「寛人か」
受話器の向こうから、信格の声がした。聞いたことのない声だった。酔っていた。けれど、それだけではなかった。弾んでいた。受話器の向こうで、何人かの男の笑い声が、重なって聞こえていた。
「誰か、残ってるか」
「……自分だけです」
「そうか」
信格は、少しだけ、黙った。それから、言った。
「いまから、上がってこい。浜町の部屋だ」
「いまから、ですか」
「いまからだ。すぐ来い」
電話が、切れた。熊木は、受話器を握ったまま、しばらく立っていた。
浜町の部屋。隅田川沿いに、この春建ったばかりのマンションだった。熊木は、その部屋の玄関までは、何度も行ったことがあった。鞄を届けに。靴を届けに。扉の内側に足を踏み入れたことは、一度もなかった。
熊木は、汗まみれの練習着を脱ぎ捨て、洗い晒しのシャツに、一張羅の背広を引っかけた。道場の電気を消した。夜の通りへ、飛びだした。
人形町の路地を抜け、明治座の脇を過ぎ、浜町の公園の暗い木立の横を、走った。長い手足で、夜を蹴るようにして、走った。隅田川から、生ぬるい風が吹いていた。
同じ夜 東京・浜町 信格のマンション
扉を開けたのは、天道だった。天道は、息を切らした熊木を、上から下まで眺めて、口の端で笑った。
「早かったな。走ってきたのか」
熊木は、黙って頭を下げた。
「靴は、揃えて脱げよ。オヤジの客は、そういうところを見る」
天道は、それだけ言って、奥へ戻っていった。
居間は、煙草と、酒の匂いで満ちていた。大きな窓の向こうに、隅田川の黒い川面が見えた。対岸の灯りが、水の上で揺れていた。
革張りの長椅子に、信格が、紋付ではなく、白い麻の背広で座っていた。その向かいに、二人の男が座っていた。
一人は、鼠色の背広の、大きな男だった。もう一人は、浴衣姿の、恰幅のいい初老の男だった。頭は、きれいに剃りあげてあった。その後ろの壁際に、髷を結った若い関取が一人、正座して控えていた。
卓の上に、黒いラベルのウイスキーの瓶が、二本並んでいた。一本は、もう、空だった。
熊木は、敷居の手前で、足を止めた。鼠色の背広の男の顔を、知っていた。
ブラジルの日本人会の集会所の、埃をかぶった本棚。そこに一冊だけあった、古い相撲雑誌の表紙。綱を締め、まっすぐ前を向いて立つ、大きな男。横綱というのはな、こういう顔をしとるもんだ。死んだ祖父が、節くれだった指で、その表紙を指さしていた。
熊木は、その場で、床に膝をついた。両手を、ついた。
「熊木寛人です」
「おう、来たか」
信格が、グラスを掲げた。顔が、赤かった。
「欣ちゃん、親方。こいつだ。ブラジル帰りの、猿だ」
浴衣の男が、熊木を眺めて、腹を揺すって笑った。
「ほう。こりゃ、でかい猿だ」
高佐古親方だった。かつて大関を張り、いまは両国に部屋を構える、角界の重鎮だった。桜富士は、何も言わずに、熊木を見ていた。
信格は、空のグラスを一つ取り、黒いラベルの瓶の封を切った。なみなみと注いだ。氷も、水も、入れなかった。
「駆けつけ三杯だ。飲め」
熊木は、膝でにじり寄り、グラスを両手で受け取った。琥珀色の酒が、グラスの縁で揺れていた。
熊木は、一杯目を、一息に飲み干した。喉が、焼けた。胃の腑に、火の玉が落ちていった。
「おお」
高佐古親方が、手を叩いた。信格が、すぐに二杯目を注いだ。熊木は、それも、飲み干した。目の奥が、熱くなった。壁際の若い関取が、目を丸くしていた。
三杯目が、注がれた。熊木は、グラスを見つめた。琥珀色の酒の中で、道場の裸電球ではない、白い明かりが、揺れていた。
熊木は、三杯目を、飲み干した。むせなかった。グラスを、静かに卓の端に置いた。両手を、また、床についた。
「たいしたもんだ」
高佐古親方が、愉快そうに膝を叩いた。
「うちの若いのに、見習わせたいわ。なあ」
壁際の関取が、恐縮して、頭を下げた。
桜富士は、まだ、熊木を見ていた。太い首。長い顎。長い手足。そして、あの目。叩きつけられても、叩きつけられても、静かに深くなっていく、あの目。
桜富士は、グラスを置いた。それから、隣の信格に、言った。
「この小僧、いい顔してるな」
低く、短い声だった。
信格は、熊木を見た。それから、桜富士を見た。白い歯を見せて、笑った。心の底から、嬉しそうに。
「だろう、欣ちゃん」
信格は、自分のグラスを、高々と掲げた。
「だろう」
高佐古親方が、目を丸くした。
「なんだ、力王。お前が弟子を褒めるのを、わしは初めて聞いたぞ」
「褒めちゃいねえよ、親方」
信格は、照れくさそうに、手を振った。
「欣ちゃんが褒めたんだ。欣ちゃんの目は、確かだからな」
信格は、グラスを空けた。上機嫌に、笑いつづけていた。
熊木は、床に両手をついたまま、動かなかった。動けなかった。
だろう、と、言った。この男が。俺の顔を、いい顔だと言われて。だろう、と。笑って。嬉しそうに。
熊木の胸の奥で、何かが、ぐらりと揺れた。
サンパウロからの飛行機の、荷物置き場の暗がり。夜の海の、冷たい水。千回のスクワット。三十足の靴。叩きつけられた背中。それが、全部、一度に、胸の奥から押し寄せてきた。押し寄せてきて、そして、どこかへ、ほどけていった。
ブラジルの農園で、死ぬ前の祖父が自分の頭を撫でたときの、あの手の重さに、少しだけ似ていた。
熊木は、唇を噛んだ。噛んで、こらえた。こらえなければ、何かが、溢れだしてしまいそうだった。三杯の酒のせいにしようと、思った。目の奥が熱いのは、ジョニ黒のせいだと。
「おい、寛人。もう一杯いけ」
信格が、上機嫌に、瓶を傾けた。熊木は、グラスを差しだした。手が、少しだけ、震えていた。
同じ夜更け 浜町のマンション
客が帰ったのは、夜中の二時を過ぎた頃だった。高佐古親方は、若い関取に肩を借りて、上機嫌に歌いながら、先に出ていった。
桜富士は、最後まで残っていた。玄関で靴を履きながら、見送りに出た熊木を振り返った。しばらく、黙って、熊木の顔を見ていた。
「力王を、頼むぞ」
それだけ言って、出ていった。熊木は、閉まった扉に向かって、深く頭を下げた。
居間に戻ると、信格は、長椅子の上で、眠っていた。白い麻の背広の胸元が、はだけていた。その内ポケットから、二つに折った古い写真の角が、少しだけ覗いていた。熊木は、それを見ないようにした。
寝室から毛布を一枚持ってきて、信格の体に掛けた。大きな体だった。眠っている顔は、思っていたより、ずっと、老けて見えた。
窓の外で、隅田川の川面が、白みはじめていた。
天道は、窓際の椅子に座って、膝の上の帳面に、鉛筆を走らせていた。
『八月某日。浜町の別宅。桜富士、高佐古親方、同部屋の関取一名。
力王山、終始上機嫌。桜富士を「欣ちゃん」と呼ぶ。
深夜、道場に一人残っていた熊木を電話で呼び出す。駆けつけ三杯。
桜富士、熊木を「いい顔」と褒める。
力王山、「だろう」と、笑って答える』
天道は、鉛筆を止めた。長椅子の上の、毛布にくるまった大きな体を、しばらく眺めていた。
あの男は、あの人の前でだけ、人間だ。天道は、そう思った。けれど、それは、帳面には書かなかった。
天道は、帳面を閉じた。長椅子の脇で毛布の端を直している熊木の背中を、黙って見ていた。
昭和三十六年(一九六一年)八月 目黒の屋敷 玄関の土間
あの夜のことを、信格は、二度と口にしなかった。次の朝には、もう、いつもの信格だった。
「靴が、曇ってる」
「最初からだ」
「ブラジルの、猿が」
道場では、相変わらず、熊木が叩きつけられていた。
夜中の二時だった。熊木は、新聞紙の上に三十足の靴を並べて、一足ずつ磨いていた。背中の腫れは、まだ引いていなかった。
熊木は、靴墨を布に取り、信格の黒い革靴を、ゆっくりと磨いた。磨きながら、小さく呟いた。
「……いい顔、か」
誰も、聞いていなかった。熊木は、磨き終えた靴を、土間に揃えた。次の一足を、手に取った。
いつか、ぶっ殺す。その気持ちは、少しも変わっていなかった。変わっていないはずだった。
けれど、あの夜の、だろう、の一言だけは、どうしても、胸の奥から消えなかった。消そうとすればするほど、そこに、残った。あの一言で、それまでの全部が、救われた気がした。
熊木は、それを、生涯、誰にも言わなかった。
玄関の外で、夏の終わりの虫が、鳴いていた。




