第70話 留守
昭和三十六年(一九六一年)三月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
郷馬がいなくなった道場は、妙に広く見えた。二メートルの大男がいつも黙って縄跳びをしていた隅の一角が、ぽっかりと空いていた。その空いた場所に、熊木が立たされていた。
「スクワット、千回だ」
信格は、リングの縁に腰かけて、葉巻をくわえていた。
「数は、自分で数えろ。一回でも誤魔化したら、最初からだ」
熊木は、黙って腰を落としはじめた。
「いち」
「に」
道場の古い床板が、熊木の足の下で、きしんだ。
三百を超えた頃、熊木の太腿が、小刻みに震えはじめた。五百を超えた頃、足元の床に、汗の水たまりができた。七百を超えた頃、熊木の声は、もう、かすれていた。
「なな、ひゃく……じゅう……」
信格は、新聞を広げていた。松木の新聞の、運動面だった。
「おい、寛人」
信格は、新聞から目を上げずに言った。
「郷馬の写真が、ホノルルの新聞に載ったそうだ。向こうの稽古場で、もう評判になってるとよ」
熊木の数が、一瞬、途切れた。
「止まったな」
信格は、新聞を畳んだ。
「最初からだ」
熊木は、何も言わなかった。床の水たまりの上で、膝を震わせながら、もう一度、腰を落とした。
「……いち」
道場の隅で、天道が、壁にもたれて煙草を吸っていた。熊木の声が「いち」に戻るのを聞いて、口の端で、小さく笑った。沢登は、リングの反対側で、若い衆の受身を見ていた。見ていないふりをしていた。
昭和三十六年(一九六一年)四月から六月 同じ道場
郷馬がハワイで勝つたびに、熊木の一日は、長くなった。
「郷馬が、初戦で勝った。お前は、腕立て五百だ」
「郷馬が、四連勝だ。お前は、便所を、舌で舐めるくらい綺麗にしろ」
「郷馬が、向こうの新聞に載った。ロサンゼルスからも、声がかかったそうだ。お前は、俺の靴を、全部磨け」
信格の靴は、三十足あった。
熊木は、目黒の屋敷の玄関の土間に新聞紙を広げ、一足ずつ磨いた。夜中の二時を過ぎても、終わらなかった。磨き終えた靴を、信格は、朝、一足ずつ手に取って眺めた。そのうちの一足を、土間に投げつけた。
「曇ってる」
熊木は、その靴を拾って、もう一度、磨いた。信格は、熊木の頭の上で、言った。
「郷馬は、こんなことは、一度もしなかったぞ」
熊木は、靴を磨く手を、止めなかった。郷馬が、こんなことをさせられたことは、一度もなかった。そのことを、熊木も、信格も、知っていた。
リングの上では、熊木は、毎日、誰かに潰された。
「寛人、上がれ」
信格は、その日いちばん機嫌の悪い先輩を選んで、熊木の相手にさせた。
「腕を取れ。参ったと言うまで、離すな」
先輩が、熊木の長い腕を抱えこんだ。肘を、逆に反らせた。普通の男なら、とうに悲鳴を上げている角度だった。熊木の腕は、そこから、まだ曲がった。ぐにゃりと、骨が無いかのように、さらに反った。熊木は、マットに顔を押しつけたまま、声も出さなかった。
「……おい、どうなってんだ、こいつ」
先輩が、腕を抱えたまま、気味悪そうに呟いた。
肩を極めても、同じだった。手首を捻っても、同じだった。足首を取っても、膝を極めても、熊木の関節は、まるで飴細工のように、どこまでも柔らかく逃げていった。誰も、熊木から、参った、を取れなかった。
信格は、リングの縁で、葉巻を噛んでいた。
「もういい」
信格は、吐き捨てるように言った。
「極まらねえなら、叩きつけろ」
それからは、投げだった。先輩たちが、代わる代わる、熊木の体を担ぎあげ、マットに叩きつけた。背中から。腰から。頭から。受身を取っても、取っても、次が来た。
熊木は、そのたびに起きあがった。長い顎を突きだして、黙って、次を待った。
信格は、その姿を、じっと見ていた。気味の悪い体だ、と思った。曲げても、曲げても、折れない。まるで、こちらの力が、どこかへ吸いこまれていくようだった。
そして、あの目。夜の海から上がってきたときの、あの目だった。濡れた砂の上に這いあがり、何も言わずに、こちらを見上げた、あの目。
信格は、その目を見るたびに、葉巻を噛んだ。噛んで、もっと叩きつけろ、と言った。叩きつければ叩きつけるほど、あの目は、静かに、深くなっていった。
同じ頃 道場の裏の物干し場
夜更けだった。熊木は、物干し場の隅で、自分の練習着を、盥で洗っていた。腕が、うまく上がらなかった。何十回と叩きつけられた背中が、熱を持って、腫れあがっていた。
「よう」
暗がりから、沢登が、ふらりと現れた。手に、紙袋を提げていた。
「腹、減ってんだろ」
紙袋の中には、握り飯が二つと、たくあんが入っていた。熊木は、盥から手を上げて、沢登を見た。
「……いいんですか」
「何がだ」
「沢登さんが、俺に、こんなことして」
沢登は、物干し竿にもたれて、煙草に火をつけた。
「俺はな、競艇で、朝から晩まで、負け舟ばっかり買ってきた男だ」
煙を、夜空に吐いた。
「負けてる舟のほうが、見てて面白えんだよ。いつか、まくるんじゃねえかってな」
熊木は、黙って、握り飯を一つ取った。口に押しこんだ。米の味が、口の中に広がった。
「しかしよ」
沢登は、熊木の腕を、ちらりと見た。
「お前のその腕、どうなってんだ。今日、あいつ、本気で折りにいってたぞ」
熊木は、握り飯を噛みながら、少しだけ考えた。
「……昔から、こうなんです。ブラジルで、じいちゃんに、蛸みたいだって、笑われました」
沢登は、煙草をくわえたまま、喉の奥で笑った。
「蛸か。そりゃいい。蛸は、捕まえても、捕まえても、逃げるからな」
沢登は、それだけ言って、背中を冷やしとけよ、と手を振り、また暗がりへ消えていった。
熊木は、二つ目の握り飯を、ゆっくりと食べた。道場の二階の事務所の窓に、まだ明かりが灯っていた。明かりの中で、人影が、机に向かって、何かを書いているのが見えた。
昭和三十六年(一九六一年)七月 東京・赤坂 料亭「千とせ」
岡田の宴席だった。美園ゆりの、歌手生活十五周年の内祝いだった。神戸から上京してきた岡田が、赤坂の料亭の大広間を、まるごと借り切っていた。
床の間には、ゆりへの祝いの胡蝶蘭が、ずらりと並んでいた。映画会社の重役、レコード会社の社長、銀幕のスター、新聞社の文化部長。その中に、紋付袴の信格もいた。
料亭の玄関まで、熊木が、信格の鞄を抱えてついてきていた。信格は、上がり框で鞄を受け取ると、熊木を見もせずに言った。
「お前は、帰れ。道場で、受身五百だ」
熊木は、深く頭を下げて、夜の通りへ戻っていった。ちょうど車寄せに着いたばかりの岡田が、すれ違うその大きな背中を、ちらりと振り返った。
信格の後ろには、天道だけが控えていた。
「お兄ちゃん」
ゆりが、信格の膝元に、ちょこんと座った。
「来てくれたんだね」
「ふっ。ゆりちゃんの祝いだ。来ねえわけがねえ」
信格は、白い歯を見せて笑った。ゆりは、嬉しそうに、信格の盃に酒を注いだ。上座から、岡田が、目を細めてそれを眺めていた。
そのとき、大広間の入口の襖が開いた。大きな影が、ゆっくりと、敷居をまたいだ。座敷のざわめきが、一瞬、静まった。
桜富士だった。
地味な鼠色の背広を着ていた。髷はもう無く、短く刈った髪に、白いものが混じりはじめていた。けれど、その立ち姿は、土俵の上にいた頃と、少しも変わっていなかった。
「横綱」
岡田が、上座から立ちあがった。
「よう来てくれはった。ゆりが、どうしても、横綱に来てほしい言うてな」
「親分。お招き、恐縮です」
桜富士は、岡田に深く頭を下げた。それから、ゆりにも、穏やかに頭を下げた。そして、ゆりの隣の、紋付袴の男を見た。
信格の盃を持つ手が、止まった。
五年ぶりだった。浅草の、あの縄暖簾の店。二人が初めて並んで飲んだ奥の席で、達者でな、力王、と言い残し、大きな背中が、暖簾を揺らして夜の路地へ消えていった、あの夜以来だった。
「よう、力王」
桜富士は、それだけ言った。声は、あの夜と同じだった。
信格の手が、無意識に、紋付の胸元に触れた。その下の内ポケットに、二つに折った写真が入っていた。あの夜から、一度も、取り出したことはなかった。一度も、捨てたことも、なかった。
信格の喉が、詰まった。何か言わなければと思った。大和の英雄の顔で、白い歯を見せて、何か気の利いたことを。
口から出てきたのは、それとは違う言葉だった。
「……欣ちゃん」
あの夜、暖簾の手前で振り返った背中に向かって、それしか言えなかった言葉だった。
桜富士は、少しだけ、目を細めた。それから、信格の隣に、どかりと腰を下ろした。
宴が、進んでいった。ゆりが、三味線にあわせて、一曲歌った。座敷が、拍手に包まれた。
信格と桜富士は、並んで座ったまま、ほとんど口をきかなかった。
桜富士が、徳利を取り、信格の盃に、酒を注いだ。両手で、丁寧に。浅草のあの夜と、同じように。信格も、黙って、桜富士の盃に注ぎ返した。それで、足りていた。
神輿のことも、佐々川のことも、辞表のことも、口にしなかった。桜富士も、何も訊かなかった。相撲の話だけをした。いまの大関の立ち合いが甘いだとか、あの若いのは化けるだとか、そういう話だけを。解説者になった桜富士の言葉は、土俵の上にいた頃より、少しだけ、多くなっていた。
宴が果てる頃、桜富士が、ぽつりと言った。
「力王、今度、飲みに行くか」
浅草のあの店で、場所が終わるたびに交わした言葉だった。
信格は、しばらく、桜富士の顔を見ていた。それから、白い歯を見せた。大和の英雄の顔ではなかった。
「ああ。今度は、うちで飲もう、欣ちゃん。浜町に、いい部屋があるんだ」
「そうか。なら、高佐古の親方も連れていこう。お前に会いたがってた」
桜富士は、それだけ言って、立ちあがった。
大広間を出ていく大きな背中を、信格は、長いあいだ見送っていた。今度は、暖簾の向こうに消えていく背中ではなかった。
上座の窓から、岡田が、車寄せを見下ろしていた。桜富士の車が出ていき、そのあとに、信格のキャデラックが続いた。
「カバン持ちの小僧、ええ顔しとるの」
岡田は、誰に言うでもなく呟いた。
「力王は、気づいとるんかいな」




