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第69話 出荷

 昭和三十六年(一九六一年)二月 東京・羽田


滑走路の脇の待合室に、新聞記者とカメラマンが、黒山の人だかりを作っていた。フラッシュの閃光の中に、二人の大男が立っていた。一人は、紋付袴の信格。もう一人は、二メートルを超える背丈に、濃紺の背広を着た郷馬だった。


銀座の仕立て屋に、三度も足を運ばせて作らせた背広だった。肩幅も、袖の長さも、ズボンの丈も、すべてが郷馬の体にあわせて誂えてあった。胸のポケットには、白い絹のハンカチが、三角に折って差してあった。右の腕の傷は、もう、すっかり癒えていた。


「郷馬公平くんは、本日、ハワイへ修行に発ちます」


天道が、記者たちに、愛想よく説明していた。


「ホノルルの興行師のもとで、一年。向こうのリングで、アメリカの大男たちと戦ってきます」


信格は、郷馬の肩に、大きな手を回した。カメラに向かって、白い歯を見せて笑った。


「こいつは、俺の最高の一番弟子だ」


フラッシュが、一斉に焚かれた。


「アメリカで、一回りも二回りも大きくなって、帰ってくるぞ」


記者たちの鉛筆が、走った。郷馬は、信格に肩を抱かれたまま、穏やかな顔で、カメラを見ていた。少し眠たげな、静かな目だった。


信格は、笑顔のまま、腹の中で、数を数えていた。


一年。ハワイで、アメリカ人の客を沸かせて、名前を売る。向こうの新聞に載る。それを、松木の新聞に、そのまま載せさせる。アメリカで認められた、二メートルの日本人。そうやって、逆輸入の怪物として、帰ってくる。


その頃には、渋谷のビルが、できあがっている。こけら落としの興行に、この大男を、メインに立たせる。客は、溢れる。三友の受像機も、また売れる。大河原の顔も、松木の顔も、立つ。


俺のビルは、この大男が、建てるんだ。


信格は、郷馬の肩を、もう一度、強く叩いた。


待合室の一番後ろの、柱の陰に、熊木が立っていた。両腕に、信格の重い革の鞄を、二つ抱えていた。記者たちの頭越しに、フラッシュの中の、二つの大きな背中を見ていた。


仕立ての背広。白い絹のハンカチ。一年前、自分は、サンパウロからの飛行機の、荷物置き場の床に座らされていた。窓もない暗がりで、この男の鞄を、膝に抱いて。


熊木は、鞄を抱く腕に、力をこめた。爪が、鞄の革に食いこんだ。


搭乗の時刻になった。郷馬は、信格に、深々と頭を下げた。それから、記者たちにも、一礼した。


タラップへ向かう途中で、郷馬は、ふと足を止めた。待合室の一番後ろの、柱の陰を、振り返った。鞄を抱えた熊木と、目が合った。


郷馬は、何も言わなかった。ただ、小さく、一度だけ、頷いてみせた。熊木も、何も言わなかった。頷き返しも、しなかった。


郷馬は、背を向けて、タラップを上っていった。一等の座席の、窓際の席だった。


同じ日 羽田から都心へ向かうキャデラック


沢登が運転席に乗りこみ、天道が助手席の扉を開けた。信格は、後部座席の真ん中に、どかりと腰を下ろした。


熊木は、鞄を二つ抱えたまま、後部座席の反対側の扉を開け、身をかがめて乗りこもうとした。片方の尻が、座席の端に触れた。


その瞬間、信格の平手が、熊木の頬に飛んだ。乾いた音が、車の中に響いた。熊木の頭が、窓ガラスにぶつかった。


「誰が、座っていいと言った」


信格は、熊木を見もせずに言った。それから、自分の足元の床を、靴の先で叩いた。


「お前は、下だ」


熊木は、頬を押さえもせずに、黙って座席から尻を下ろした。信格の足元の、狭い床の上に、一メートル九十の体を折りたたむようにして、座りこんだ。膝の上に、鞄を二つ抱えて。


そのとき、助手席の座席が、がたん、と音を立てて、後ろへ滑ってきた。前の座席の背もたれが、熊木の背中を、ぐいと押しつけた。ただでさえ狭い床が、さらに狭くなった。熊木の膝が、胸につくほど折れ曲がった。


「おー」


助手席から、天道の、のんびりとした声がした。


「悪い悪い。長旅で、腰が凝っちまってね」


天道は、振り返りもせずに、座席の背もたれに、ゆったりと身を預けた。座席は、元の位置には、戻らなかった。熊木は、背もたれと信格の足とのあいだに挟まれたまま、何も言わなかった。


「天道さん」


運転席から、沢登の、間延びした声がした。


「その座席、もうちょい前に戻してもらえませんかね。背もたれが邪魔で、左の斜め後ろが、ちっとも見えねえんすよ。この車、オヤジの宝物なんで、ぶつけたら、俺、殺されちまう」


天道は、少しのあいだ、黙っていた。それから、肩をすくめて、座席を元の位置に戻した。熊木の膝と胸とのあいだに、わずかな隙間が戻った。


沢登は、何事もなかったように、前を向いてハンドルを握っていた。バックミラーの中で、一瞬だけ、熊木と目が合った。沢登は、片目をつぶってみせた。


車が、動きだした。


「わかったか、寛人」


信格は、足元の熊木を見下ろした。


「あいつの切符は、一等だ。一年前、お前が荷物置き場の床に座って帰ってきた、あれと同じような飛行機の、一番前の、窓際の席だ。それに、あの仕立ての背広だ」


熊木は、黙って前を向いていた。


「お前には、一生、縁のねえもんだ」


信格は、葉巻の灰を、熊木の頭の上に落とした。白い灰が、熊木の坊主頭の上に、ぱらぱらと散った。


「ブラジルの猿が、ハワイに行けると思うなよ。お前は、俺の靴を磨いて、俺の鞄を抱いて、一生、地べたを這ってりゃいいんだ」


熊木は、頭の上の灰を、払わなかった。ただ、前を向いたまま、長い顎を、少しだけ突きだしていた。窓ガラスにぶつけた額に、赤い痕が浮かんでいた。


助手席の天道は、窓の外の景色を眺めながら、膝の上の帳面に、何かを書きつけていた。


昭和三十六年(一九六一年)四月 ハワイ・ホノルル シビック・オーディトリアム


ホノルルの、シビック・オーディトリアムの控室だった。九年前、力王山がハワイで初めて試合をした、同じ会場だった。


郷馬は、鏡の前に座っていた。向かいの椅子に、日系二世の興行師が、葉巻をくわえて座っていた。ジョージ青木。ホノルルのリングを、戦前から仕切ってきた、小柄な老人だった。


「コーヘイ」


青木は、片言の日本語で言った。郷馬の下の名前の公平を、アメリカ風に伸ばして呼んでいた。


「アンタ、ジャパンデ、リキオーザンノ、デシ?」


「はい」


「デモ、ココデハ、リキオーザンノナマエ、ダレモ、シラナイ」


青木は、にやりと笑った。


「九年前、リキ、ココデ、ヒトリデ、ハジメタ。イマ、ジャパンデ、エライ。デモ、ココノ客ハ、ワスレタ」


青木は、郷馬の体を、上から下まで眺め回した。


「アンタノ体、アメリカジュウデ、ウレル。リキノデシジャナクテ、アンタノナマエデ」


郷馬は、鏡の中の自分の顔を、しばらく見つめていた。それから、静かに頷いた。


その夜、郷馬は、リングに上がった。客席から、どよめきが起きた。二メートルを超える日本人など、ハワイの客は、誰も見たことがなかった。


相手は、ハワイで売りだし中の、白人の大男だった。けれど、郷馬の前に立つと、その大男が、子供のように小さく見えた。


ゴングが、鳴った。郷馬は、長い脚を、高々と振りあげた。野球で鍛えた、しなやかな足腰だった。巨体が、宙に浮いた。両足の裏が、大男の顔面を、まっすぐに捉えた。大男が、リングの端まで吹き飛んだ。


客席が、総立ちになった。


「Bigfoot!」


「Bigfoot Goma!」


客たちは、大男の顔面に叩きつけられた、あの巨大な足の裏を見て、誰に教えられたわけでもなく、そう叫びはじめていた。


郷馬は、リングの真ん中に立っていた。両手を挙げもしなかった。ただ、静かに、総立ちの客席を見回していた。口元が、わずかに、緩んでいた。


同じ夜 ホノルルの安宿


固い寝台の上で、郷馬は、手帳を開いていた。右手で、鉛筆を握っていた。


『ホノルル初戦。勝つ。


客が、名前を呼ぶ。力王山の弟子、とは誰も呼ばない。


ここでは、あの男の名前は、誰も知らない。


九年前、あの男も、ここで一人で始めたと聞く。


あの男が、ここで覚えたものを、自分も覚える。


覚えたら、もう、あの男は、要らない』


郷馬は、手帳を閉じた。窓の外で、ハワイの夜風が、椰子の葉を揺らしていた。


昭和三十六年(一九六一年)六月 東京・目黒


居間の机の上に、松木の新聞が広げられていた。その一面の真ん中に、大きな写真が載っていた。ホノルルのリングの上で、白人の大男を見下ろす、二メートルの日本人。


『郷馬、ハワイで大爆発 「ビッグフット郷馬」の名、全米へ』


記事によれば、郷馬は、ハワイで十戦十勝。その噂は、もうアメリカ本土にまで届き、サンフランシスコやロサンゼルスの興行師たちが、こぞって呼び寄せようとしているという。


信格は、その写真を見下ろしていた。口元が、緩んでいた。


計算どおりだ。秋の、渋谷のこけら落としには、間にあう。あの大男が、俺のビルを、満員にする。


信格は、葉巻をくわえて、写真を、もう一度、眺めた。


写真の中の郷馬は、リングの真ん中で、静かに立っていた。両手を挙げてはいなかった。けれど、その口元が、わずかに緩んでいた。眠たげな目が、写真のこちら側を、まっすぐに見ていた。


信格の葉巻の先が、すっと止まった。


あの大男は、置物のはずだった。俺のビルを建てるための、看板のはずだった。大人しく頭を下げて、言われたとおりに動くはずの。それなのに。


写真の中の郷馬は、笑っていた。冷めた目で。誰かに見せるためではなく、自分のためだけに。


信格は、その写真を、長いあいだ見つめていた。羽田で肩を抱いたとき、あの男は、こんな顔をしていただろうか。赤坂のホテルの喫茶室で、深々と頭を下げたときは。思い出せなかった。あの男が、本当はどんな顔をしているのか。一度も、ちゃんと見ていなかった。


信格は、新聞を、ゆっくりと畳んだ。それから、四つに折り、机の引き出しの奥に押しこんだ。


窓の外で、梅雨の雨が、降りはじめていた。



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