第68話 夜海
昭和三十五年(一九六〇年)八月 神奈川・葉山
港に、白いクルーザーが一艘、繋がれていた。真新しい船体に、金色の文字で、船の名前が書かれていた。
『RIKIOH』
信格が、アメリカから取り寄せた船だった。家が一軒建つほどの値段がしたという。
夕暮れの桟橋に、信格が、白い麻の背広を着て立っていた。後ろに、沢登と天道。銀座の店から連れてきた女が三人。そして、荷物持ちの金吾と熊木。二人は、酒の木箱と、氷の入った樽と、女たちの着替えの鞄とを、両肩に担いでいた。
「乗れ」
信格は、船の甲板に飛び乗り、振り返りもせずに言った。
船は、夕陽の沈む相模湾へ、白い航跡を引いて滑りだしていった。甲板の上で、女たちが歓声を上げた。沢登が、腋をパカン、パカンと鳴らして、女たちを笑わせた。天道は、舳先の近くに座り、黙って海を見ていた。
信格は、後部の広い座席に、ふんぞり返っていた。ブランデーの瓶を、ラッパ飲みしていた。
京都から帰って、ひと月が経っていた。あの日から、信格は、毎晩、浴びるように酒を飲んでいた。
長崎だ。自分の子に、そう言った。本物だぞ。硝子の石を、そう言って渡した。酒を、どれだけ飲んでも、その声が、耳の奥から消えなかった。
日が沈み、海は、黒くなった。船の灯りだけが、波の上に、ぼんやりと揺れていた。岸の灯りは、もう、遠くの水平線の上に、小さな点の連なりになって見えるだけだった。
信格は、甲板の隅を見た。熊木が、氷の樽の脇に、膝を抱えて座っていた。金吾と並んで、黙って、黒い海を見ていた。
信格は、ブランデーの瓶を置いた。
「おい、寛人」
熊木が、顔を上げた。
「こっちへ来い」
熊木は、立ちあがり、揺れる甲板を、信格の前まで歩いてきた。
信格は、座席に座ったまま、熊木を見上げた。長い顎。太い首。そして、あの目。
甲板の灯りの下で、熊木の目は、まっすぐに、信格を見下ろしていた。ブラジルの喫茶店で、初めて見たときと、同じ目だった。
入門の日から、四か月。毎日、殴られ、蹴られ、靴を磨かされ、鍋の底をこそげさせられた。それでも、この目は、少しも変わらなかった。飢えていた。何かに、飢えていた。二十年前の、雨の夜の稽古場の、自分の目と、同じだった。
「……何を、見てやがる」
信格の声が、低くなった。
熊木は、答えなかった。目を、逸らさなかった。
信格は、立ちあがった。揺れる甲板の上で、二人の大男が、向かいあった。信格の手が、熊木の胸倉を掴んだ。
「何を見てやがると、訊いてるんだ」
熊木は、それでも、答えなかった。ただ、まっすぐに、信格の目を見ていた。
その目の奥に、信格は、何かを見た気がした。
お前、何世だ。じいさんは、どこの血だ。母親は、本当に、日本の女か。
サンパウロの喫茶店で、この小僧に浴びせた問い。あのとき、この小僧は、何を考えていた。いま、この小僧は、何を見ている。この目は。俺の、何を。
信格の背筋を、冷たいものが這いのぼった。
信格は、熊木の胸倉を掴んだまま、船べりまで引きずった。女たちが、悲鳴を上げた。沢登が、腋を鳴らす手を止めた。天道が、舳先で、ゆっくりと振り返った。
「オヤジ!」
沢登が、慌てて立ちあがった。
信格は、熊木の体を、船べりの外へ突きだした。熊木の足が、甲板から浮いた。
その一瞬、熊木の目が、信格の目を、すぐ間近で、見つめていた。怯えていなかった。ただ、静かに、燃えていた。
信格は、手を離した。
熊木の体が、黒い海へ、落ちていった。水しぶきの音が、夜の海に、低く響いた。
甲板の上が、しんと静まり返った。女たちが、口を押さえて、震えていた。金吾が、船べりに駆け寄ろうとした。沢登が、その肩を、無言で掴んで止めた。
信格は、船べりから身を乗りだし、黒い水面を見下ろした。
波のあいだに、熊木の頭が、浮かびあがった。熊木は、立ち泳ぎをしながら、船を見上げていた。その顔が、船の灯りに、白く浮かんでいた。
「泳いで、帰ってこい」
信格は、低く言った。それから、操舵室に向かって、怒鳴った。
「出せ!」
エンジンが、唸りを上げた。船が、ゆっくりと、動きだした。
波のあいだの白い顔が、少しずつ遠ざかっていった。熊木は、一度も、助けてくれとは叫ばなかった。ただ、遠ざかっていく船を、じっと見上げていた。やがて、その顔も、黒い波の向こうに、見えなくなった。
信格は、後部の座席に、どさりと腰を下ろした。ブランデーの瓶を掴み、喉に流しこんだ。
誰も、口をきかなかった。女たちは、震えながら、船室の中へ逃げこんでいった。沢登は、船べりに座りこみ、黒い海を見つめていた。金吾は、甲板の隅で、膝を抱えて、うつむいていた。
天道だけが、舳先で、いつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。その笑みが、船の灯りの中で、少しも笑っていないことに、誰も気づかなかった。
信格は、瓶を握ったまま、遠ざかっていく岸の灯りを見ていた。
岸まで、何海里あるのか。夜の海で、泳ぎ切れるのか。死んだら、どうする。
知ったことか。ブラジルの野良犬が、一匹、海で溺れただけだ。
信格は、もう一口、ブランデーを呷った。手が、かすかに震えていた。夜風のせいだと、思うことにした。
同じ夜 相模湾
海は、冷たかった。真夏だというのに、夜の海の水は、骨の芯まで凍らせるほどに冷たかった。
熊木は、波のあいだで、遠くの岸の灯りを見つめていた。小さな点の連なり。手を伸ばしても、届かないほど、遠かった。
熊木は、泳ぎはじめた。長い腕で、黒い水をかいた。長い脚で、黒い水を蹴った。波が、顔を打った。塩水が、鼻と口に流れこんだ。熊木は、それを吐きだし、また水をかいた。
三年前、移民船の上で、祖父が倒れた。船医は、首を横に振った。祖父の体は、白い布に包まれて、船べりから、南の海へ、静かに沈められていった。熊木は、そのとき、甲板の上で、ただ立ちつくしていた。何も、できなかった。
祖父の最後の言葉は、何だったか。本物になれ。背筋を、まっすぐに伸ばせ。
熊木は、水をかいた。この海の底に、祖父が沈んでいるわけではない。けれど、同じ海だ。
熊木は、作業着の胸のポケットに、そっと手を当てた。祖父が最後に握りしめていた、政木の写真。三年のあいだ、肌身離さず、持ち歩いてきた。海水が、ポケットの中まで、染みこんでいた。熊木は、それでも、泳いだ。
腕が、重くなった。脚が、痺れてきた。何度も、波に呑まれかけた。そのたびに、あの男の顔が、瞼の裏に浮かんだ。泳いで、帰ってこい。
熊木は、歯を食いしばった。
帰ってやる。泳いで、帰ってやる。そして、明日の朝、何事もなかったように、お前の靴を磨いてやる。お前が、一番、見たくない顔で。
翌朝 葉山の浜
夜明けの浜に、一人の若者が、這いあがってきた。長い手足が、砂の上を、ずるずると引きずっていた。
作業着は、ぼろぼろに裂けていた。爪が、何枚も剥がれていた。唇は、紫色に腫れあがっていた。
若者は、波打ち際に、仰向けに倒れこんだ。朝焼けの空を、見上げた。しばらく、動けなかった。
やがて、震える手で、胸のポケットから、一枚の紙切れを取り出した。政木の写真だった。海水に浸かって、ぐしゃぐしゃに崩れていた。黒いタイツの男の姿は、もう、ほとんど見えなかった。背筋を伸ばして歩く、その輪郭だけが、かすかに残っていた。
熊木は、その紙切れを、朝日にかざした。長いあいだ、見つめていた。それから、紙切れを、また胸のポケットに、大切にしまった。
ゆっくりと、立ちあがった。背筋を、まっすぐに伸ばした。長い顎を突きだし、朝日に向かって、歩きだした。
同じ朝 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
信格は、二日酔いの頭を抱えて、道場の玄関の戸を開けた。一睡も、していなかった。
葉山の港に船を戻したのは、夜中の二時だった。それから、目黒の家に戻り、酒を飲みつづけた。眠ろうとするたびに、黒い波のあいだの、白い顔が浮かんだ。
玄関の、上がり框の前だった。一人の若者が、背中を丸めて、座っていた。信格の靴を、磨いていた。
ぼろぼろに裂けた作業着。剥がれた爪。紫色に腫れた唇。
若者は、靴を磨く手を止めて、顔を上げた。熊木だった。
「……おはようございます」
熊木は、静かに言った。それから、磨きあげた靴を、信格の足元に、揃えて置いた。
信格は、その場に、立ちつくしていた。熊木の目が、まっすぐに、自分を見上げていた。昨夜、船べりの外へ突きだしたときと、同じ目だった。少しも、変わっていなかった。
いや。昨夜よりも、もっと深く、燃えていた。
信格は、何も言えなかった。磨きあげられた靴に、足を入れることすら、できなかった。
熊木は、また頭を下げ、道具を片づけて、合宿所のほうへ歩いていった。その背筋は、まっすぐに、伸びていた。
信格は、玄関の土間に、一人で立っていた。足元に、磨きあげられた靴が、朝の光を受けて、黒く光っていた。信格は、それを、長いあいだ見下ろしていた。背中を、冷たい汗が、伝っていった。
政木の目。大峰の目。そして、いま、この小僧の目。
自分を、本当に殺しに来るのは。もしかしたら、この、糸のついていない野良犬かもしれない。
信格は、震える手で、葉巻に火をつけようとした。マッチが、なかなか擦れなかった。四本目で、ようやく火がついた。




