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第67話 入門

 昭和三十五年(一九六〇年)四月十一日 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場


道場の前に、新聞社の車が三台、並んでいた。フラッシュの閃光が、春の朝の路地に、何度も白く弾けた。


道場の玄関の前に、二人の大男が、並んで立っていた。


一人は、二メートルを超える背丈。新しく仕立てた紺の背広を着て、長い首を、少しだけ前に傾けている。右の腕の袖口から、まだ白い包帯が覗いていた。


もう一人は、一メートル九十。ブラジルから着てきた、継ぎの当たった作業着のまま。長い顎を突き出し、太い首を、まっすぐに立てていた。


その真ん中に、信格が、紋付袴で立っていた。


「郷馬公平くんは、元東都の投手。熊木寛人くんは、ブラジル帰りの、陸上の怪物です」


天道が、記者たちに向かって、愛想よく説明していた。


「同じ日に、力王山の門を叩きました。将来の、日本のプロレスを背負う二人です」


フラッシュが、また焚かれた。


信格は、郷馬の肩に、大きな手を回した。カメラに向かって、白い歯を見せて笑った。熊木の肩には、手を回さなかった。


笑顔のまま、信格は、腹の中で、二人を値踏みしていた。


郷馬は、テレビの看板だ。二メートルの日本人が、外人どもを真上から見下ろす。それだけで、三友の受像機が、また売れる。傷一つつけずに、大事に磨いておけばいい。熊木は、俺の靴を磨く雑用係だ。殴っても、蹴っても、誰からも文句は来ない。


信格は、フラッシュの光の中で、口元を緩めた。いい買い物を、した。


翌日の新聞の写真には、肩を組んで笑う力王山と郷馬が、真ん中に大きく写り、その端に、作業着の熊木が、半分だけ写っていた。


同じ日 合宿所


合宿所の二階の、一番奥の部屋は、南向きの六畳間だった。


畳は、新しく張り替えられていた。窓には、真新しいカーテンが掛かっていた。押し入れには、郷馬の体に合わせて特別に仕立てた、長い布団が入っていた。


「お前の部屋だ」


信格は、郷馬の背中を、軽く押した。郷馬は、部屋の入口で、少しのあいだ立ち止まった。それから、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


「足りねえものがあったら、天道に言え。本でも何でも、取り寄せてやる」


信格は、満足そうに頷いて、背を向けた。階段を下りながら、後ろについてくる熊木を、振り返りもせずに言った。


「お前は、下だ」


一階の大部屋だった。若い衆たちが雑魚寝している、すきま風の吹きこむ板張りの部屋。その一番隅の、窓際の、湿った布団が一枚。


隣の布団に、大島金吾が座っていた。金吾は、黙って、熊木に頭を下げた。熊木も、黙って、頭を下げ返した。


信格は、大部屋の入口で、熊木を見下ろした。


「付け人は、布団で寝るもんじゃねえ。俺が帰るまで、玄関で待ってろ。帰ったら、靴を磨け。それから寝ろ」


熊木は、何も言わずに頷いた。


それからの日々


稽古は、毎朝、六時に始まった。


郷馬の稽古は、沖田がつけた。受身の取り方。ロープの使い方。巨体の生かし方。沖田は、一つ一つ、丁寧に教えた。郷馬は、一つ一つ、黙って覚えた。右の腕の傷が疼く日は、沖田が、黙って稽古を切りあげさせた。


信格は、郷馬に、一度も手を上げなかった。


ほかの若い衆たちが受身をしくじれば、首筋を打った。郷馬がしくじっても、腕を大事にしろ、とだけ言って、肩を叩いた。昼飯の鍋は、郷馬が一番最初に箸をつけた。夜は、郷馬を銀座の店に連れていき、隣に座らせて、ステーキを食わせた。新しい背広を、三着、仕立ててやった。


熊木の稽古は、信格が、自分でつけた。


稽古場の真ん中で、熊木を立たせる。手刀を、胸に、肩に、背中に、叩きこむ。十発、二十発、三十発。熊木は、倒れた。立った。また、倒された。また、立った。


熊木は、一度も、声を上げなかった。ただ、立ちあがるたびに、長い顎を突き出して、まっすぐに信格の目を見た。その目が、信格には、たまらなく癇に障った。


「何を、睨んでやがる」


手刀が、熊木の顔を張り飛ばした。


「ブラジルの、猿が」


熊木は、マットの上に転がった。口の端から、血が垂れた。それでも、熊木は、また立ちあがった。


信格は、手刀を振りあげた。熊木の首を、見た。太い筋が、束になって覆っている、異常に太い首。


手刀は、首には、落ちなかった。肩に、落ちた。信格は、自分でも、なぜそうしたのか、わからなかった。


昼飯の鍋は、熊木が、いつも最後に回された。いや、最後から二番目だった。最後は、金吾だった。


二人が鍋の前に座る頃には、肉も、野菜も、ほとんど何も残っていなかった。


ある日、熊木は、鍋の底にわずかに残った汁を、黙って金吾の椀に注いだ。金吾が、驚いたように顔を上げた。熊木は、何も言わずに、空になった鍋の底を、自分の指でこそげ取って口に運んだ。


金吾は、その横顔を、しばらく見つめていた。それから、小さく頭を下げた。


昭和三十五年(一九六〇年)五月 合宿所の二階


ある夜、郷馬は、自分の部屋の窓辺で、本を読んでいた。洋書だった。天道に頼んで、取り寄せてもらったものだった。


階下から、鈍い音が聞こえてきた。人の体が、板の間に叩きつけられる音だった。


郷馬は、本を閉じて、窓から下を見下ろした。合宿所の裏の、物置小屋の前だった。裸電球の下で、信格が、熊木の胸倉を掴んでいた。靴の磨き方が悪かったのだという。信格の平手が、熊木の頬を、何度も張っていた。


熊木は、一度も、手を上げなかった。ただ、殴られるたびに、まっすぐに信格の目を見返していた。


郷馬は、窓辺に立ったまま、それを見下ろしていた。止めには、行かなかった。


自分が行けば、何が変わるのか。あの男は、自分にだけは手を上げない。それは、自分が、あの男にとって使い道のある商品だからだ。熊木が殴られているのは、熊木が、あの男にとって、何か別のものだからだ。


郷馬は、窓のカーテンを、静かに閉めた。机の上の手帳を開き、鉛筆を、今度は右手で握った。傷は、少しずつ、癒えはじめていた。


『熊木、今夜も殴られる。理由は、靴。


あの男は、熊木を、怖がっている。


なぜかは、わからない』


郷馬は、手帳を閉じた。それから、もう一度、本を開いた。


同じ月 東京・銀座 大河原の事務所


大河原の事務所の窓辺で、天道が、帳面を開いていた。


「郷馬は、大事にされています。部屋も、背広も、ステーキも。力王さんは、一度も手を上げていません」


大河原は、葉巻をくゆらせながら、黙って聞いていた。


「熊木のほうは、毎晩です。稽古場でも、合宿所の裏でも」


「熊木」


大河原は、紫煙を吐き出した。


「ブラジルの小僧か」


「ええ」


天道は、帳面を閉じた。それから、少しだけ、声の調子を変えた。


「先生。熊木だけは、うちの筋じゃありません」


大河原の葉巻の先が、わずかに止まった。


「郷馬は、松木さんが球団に首を切らせて、先生が拾わせた。大島は、岸本さんのお力で出してもらった。沢登は、佐々川さんが借金を肩代わりした。わたしも、先生の配役です」


天道は、窓の外の銀座の灯りを見つめた。


「でも、熊木だけは、力王さんが、自分の目で見つけて、自分の手で連れてきた。誰の糸も、ついていません」


長い沈黙が、事務所に落ちた。やがて、大河原は、葉巻を灰皿の縁に置いた。


「……糸のついてねえ犬が、一番厄介だ」


大河原の細い目が、窓ガラスに映る自分の顔を見ていた。


「どっちを向いて噛みつくか、誰にもわからねえ。拾ってきた本人にもな」


昭和三十五年(一九六〇年)六月 深夜 合宿所の大部屋


熊木は、眠れなかった。大部屋の、一番隅の、湿った布団の上で、天井を見上げていた。頬が、まだ熱を持っていた。


隣の布団から、かすかな声が聞こえてきた。金吾だった。布団を頭までかぶって、何かを呟いていた。


熊木は、耳を澄ませた。日本の言葉では、なかった。聞いたことのない、ごつごつとした響きの言葉だった。けれど、その中に、一つだけ、何度も繰り返される言葉があった。


〈オモニ……〉


熊木は、天井を見上げたまま、動かなかった。


この男は、長崎の漁師の倅だと、言っていた。九州の荒波で鍛えた額の、石頭の大島。天道さんが、記者たちに、そう紹介していた。けれど、長崎の漁師の倅が、夜中に布団をかぶって、こんな言葉で母親を呼ぶだろうか。


熊木の脳裏に、サンパウロの喫茶店の光景が浮かんだ。葉巻の煙を吹きかけながら、身を乗り出してきた男の顔。お前、何世だ。じいさんは、どこの血だ。母親は、本当に、日本の女か。


あの男は、なぜ、あんなに必死だったのか。


熊木は、隣の布団の、小さく震える背中を、暗がりの中で見つめていた。それから、そっと、目を閉じた。


胸の奥で引っかかっていたものが、少しだけ、形を持ちはじめていた。


昭和三十五年(一九六〇年)七月 大和プロレス道場


梅雨が明ける頃、信格は、京都の巡業へ出かけた。


帰ってきた夜、信格は、ひどく酒に酔っていた。玄関で靴を磨く熊木を、何も言わずに見下ろしていた。殴りもしなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、背広の内ポケットに手を入れたまま、長いあいだ、黙って立っていた。


やがて、信格は、低い声で言った。


「……来月、海へ行く」


熊木が、顔を上げた。


「船を、買った。お前も、来い」


信格は、それだけ言って、二階の事務所へ上がっていった。階段を上る足音が、いつもより、ずっと重かった。



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