第66話 南米
昭和三十五年(一九六〇年)二月 ブラジル・サンパウロ 日系人会館
南半球の二月は、真夏だった。赤土の埃が舞う通りに、照りつける陽射しが、白く跳ね返っていた。
日系人街の、古い会館の講堂に、即席のリングが組まれていた。大和プロレスの、初めての南米巡業だった。客席は、日系の移民たちで、ぎっしりと埋まっていた。日の丸の小旗が、あちこちで揺れていた。
信格は、リングの上で、外国人の巨漢に空手チョップを叩きこんだ。歓声が、上がった。けれど、その歓声は、東京の後楽園や蔵前のそれとは、どこか違っていた。熱が、足りなかった。
試合のあと、会館の奥の座敷で、日系人会の歓迎の宴が開かれた。年寄りたちが、ずらりと並んで、信格に酒を注いだ。
「よう来てくださった、力王山さん」
「日本の英雄に、ブラジルまで来ていただけるとは」
信格は、上座にふんぞり返って、注がれる酒を次々に呷った。
宴が進むうちに、一人の白髪の老人が、懐かしそうに目を細めて言った。
「この会館にはな、三年前、政木先生も来てくださったんじゃ」
座敷の空気が、すっと冷えた。信格の盃が、唇の手前で止まった。
「あの畳の上で、若い者たちに、柔道を見せてくださった。地味な技じゃったが、ありがたいものでした。本物の、日本の男じゃった」
老人は、気づかずに、続けた。
「九年前には、この街で、柔術の名門の当主の腕を、へし折りなすった。ブラジルじゅうが、震えたもんです」
周りの年寄りたちが、一斉に頷いた。
「ほんに、あれは、本物じゃった」
「鬼の、政木」
信格は、盃を、膳の上に叩きつけるように置いた。酒が、飛び散った。年寄りたちが、はっと口をつぐんだ。
信格は、白い歯を見せて、笑ってみせた。本郷に教わった、愛想のいい顔だった。
「その本物を、蔵前でぶちのめしたのは、俺だ」
座敷が、しんと静まり返った。年寄りたちは、何も言わなかった。ただ、互いに目を伏せて、黙って盃を口に運んだ。誰一人、笑わなかった。
信格は、注がれた酒を、一気に呷った。喉が、焼けた。
この国では、俺は、本物を倒した英雄ではない。本物を、騙し討ちにした男だ。ここの年寄りたちは、それを、知っている。口に出さないだけで。
同じ夜 会館の廊下
宴が引けたあと、日系人会の世話役の男が、廊下で信格を呼び止めた。四十がらみの、日焼けした小柄な男だった。
「力王山さん。お耳に入れたい話がありまして」
「なんだ」
「とんでもない体の、日本の子がいるんです」
男は、声を潜めた。
「郊外のコーヒー農園で働いてる、十七の小僧です。背は、もう一メートル九十近くある。去年の、全伯の日系人陸上大会で、砲丸投げで優勝、円盤投げで二位でした。手足が、こう、異様に長くて」
男は、両腕を、大きく広げてみせた。
「農園の大人たちも、あの子だけは、敵わないと言ってます」
信格は、葉巻に火をつけた。
「連れてこい」
三日後 サンパウロの喫茶店
日系人街の外れの、古い喫茶店だった。天井の扇風機が、生ぬるい空気を、ゆっくりとかき回していた。奥の席に、信格は、天道と沢登を従えて座っていた。
扉が開き、世話役の男が、一人の少年を連れて入ってきた。少年は、扉の上の鴨居に頭をぶつけそうになって、身をかがめた。
背が、高かった。
十七歳。日に焼けて、頬のこけた、細い顔。その顔の下半分を、長く突き出した顎が占めていた。鋭く尖った、しゃくれた顎だった。継ぎの当たった作業着から、異様に長い手足が、にょっきりと突き出していた。肩幅は広いのに、肉は、まるでついていない。コーヒー農園の重労働で、骨と筋だけになった体だった。
その分、首だけが、異常に太かった。痩せた体の上に、まるで別の男から借りてきたような太い首が、どっしりと据わっていた。
そして、目だった。
少年は、店の入口に立ったまま、まっすぐに、奥の席の信格を見ていた。その目に、信格は、一瞬、息を呑んだ。
飢えていた。腹が減っているのではない。もっと深いところで、何かに、飢えていた。二十年前、雨の夜の稽古場で、血の滲む掌で柱を打ちつづけていた少年の目と、同じだった。
「熊木寛人、です」
少年は、低い声で名乗った。頭は、下げなかった。
信格は、立ちあがった。少年の前に立ち、その体を、上から下まで、じろじろと眺め回した。長い手足。長い顎。そして、首。
信格の目が、その首の上で、止まった。
耳の下の、脈の通るところ。そこを、太い筋が、何本も束になって覆っていた。六年前、蔵前のリングで、手刀を振り下ろした、あの場所。この首なら、手刀一つで、折れはしない。
信格の背筋を、ほんの一瞬だけ、冷たいものが走った。
信格は、それを振り払うように、少年の肩を掴んだ。骨が、掌の下で、ごつごつと鳴った。腕を掴んだ。細いが、鋼の針金を束ねたように、硬かった。胸板を、拳で軽く叩いた。少年は、身じろぎもしなかった。
「靴を、脱げ」
少年の目が、わずかに細められた。それから、黙って、すり切れた革靴を脱いだ。
信格は、床に屈みこみ、少年の裸足を、両手で掴んだ。大きかった。掌を並べても、まだ、指が余った。
信格の脳裏に、二十年前の光景が、ふと浮かんだ。三所の山部屋の、親方の座敷。長崎から来たという日焼けした農夫と、見知らぬ男たちが、十五歳の自分の体を、牛や馬のように眺め回し、腕を掴み、口を開けさせ、歯を数えた。
信格は、少年の足を離して、立ちあがった。
「足のでかい奴は、まだ伸びる」
信格は、少年を見下ろした。
「お前は、もっと、でかくなるぞ」
少年は、何も答えなかった。
信格は、席に戻った。少年を、向かいの椅子に座らせた。葉巻に、火をつけた。紫煙を、少年の顔に吹きかけた。少年は、咳きこみもせず、顔を背けもしなかった。
信格は、太い首を、もう一度だけ、ちらりと見た。それから、身を乗り出した。
「……お前」
低い声だった。扇風機の羽根の音だけが、店の中に響いていた。
「何世だ」
少年は、少しのあいだ、黙っていた。
「……一世です」
少年は、静かに答えた。
「横浜で生まれて、十四のときに、移民船で来ました」
「横浜の、どこだ」
「港の見える坂の上の、商店街の近くです」
「親は」
「父は、五つのときに、死にました。母と、兄たちと、祖父と、ここへ来ました」
「親の、生まれは」
「父も母も、横浜です」
信格は、さらに身を乗り出した。
「じいさんは。ばあさんは。そのまた上は。どこの血だ」
少年の目が、じっと、信格の目を見返していた。
「嘘をつくなよ。戸籍は、どうなってる。日本の戸籍は、ちゃんとあるのか。こっちで生まれた弟や妹は、いるのか。母親は、本当に日本の女か」
天道が、帳面を手にしたまま、ちらりと信格の横顔を見た。沢登が、居心地悪そうに、腋をパカンと鳴らしかけて、やめた。
少年は、一つずつ、答えた。祖父は、横浜の、生糸を扱う商家の出だった。祖母も、横浜の生まれ。曾祖父は、静岡から出てきた。戸籍は、横浜の区役所に、ちゃんとある。弟も妹も、日本で生まれた。
信格は、それを、一つ一つ確かめるように、頷きながら聞いていた。
少年の目が、その信格の顔を、じっと見ていた。
なぜ、この男は。日本の英雄が。俺の体の強さよりも、俺の血筋のほうを、こんなにも必死に聞いてくるのか。戸籍は、どうなっている。母親は、本当に日本の女か。まるで、何かに、怯えているように。
少年の胸の奥で、何かが、小さく引っかかった。けれど、それが何なのかは、まだ、わからなかった。
「……よし」
信格は、ようやく、背もたれに身を沈めた。葉巻の煙を、天井に吹きあげた。
「合格だ」
少年は、黙っていた。
「日本へ、連れて帰ってやる」
信格は、口元を緩めた。
「横浜生まれの、生粋の日本の男が、ブラジルのコーヒー農園で地獄を見て、這いあがってきた。新聞が、喜んで書くだろうよ」
信格は、少年の肩を、大きな手で叩いた。
「世界一の男に、してやるぞ」
少年は、その手の重さを、肩で受け止めていた。それから、初めて、ゆっくりと頭を下げた。
「……よろしく、お願いします」
その声は、ひどく静かだった。
同じ夜 郊外のコーヒー農園
赤土の上に建てられた、板張りの粗末な小屋だった。少年は、窓辺に座って、南十字星の浮かぶ夜空を見上げていた。隣の部屋から、母と兄たちの寝息が聞こえていた。
少年は、作業着の胸の内ポケットから、一枚の紙切れを取り出した。三年前、移民船の上で、祖父が最後に握りしめていたものだった。横浜の電器屋の店先で、祖父が切り抜いた、古い新聞の写真だった。
黒いタイツの、首の太い男が、花道を、背筋を伸ばして歩いている。政木。本物の、日本の男。
あの夜、祖父は、少年の肩を強く掴んで、この男を見ろと言った。そして、その画面の中で、この男は、騙し討ちにされた。今日、喫茶店で、葉巻の煙を吹きかけてきた、あの男に。
三年前、サンパウロの会館で、政木本人に、肩に手を置かれた。背筋だけは、まっすぐに伸ばしておけ。祖父と、同じことを言った。その翌月、祖父は、移民船の上で倒れて、海に葬られた。
少年は、紙切れを、胸に押し当てた。
あの男の手を、握る。あの男の下で、地べたを這う。殴られても、蹴られても、黙って耐える。この農園で、一生、コーヒーの実を摘んで死ぬよりは、ましだ。
そして、いつか。
少年は、窓の外の夜空を見上げた。南十字星が、冷たく、瞬いていた。
いつか、あの男の首を、この手で。
少年の長い指が、紙切れの上で、ゆっくりと握りしめられた。背筋は、まっすぐに、伸びていた。
昭和三十五年(一九六〇年)三月 サンパウロからの帰りの飛行機
プロペラ機の客室は、狭かった。
信格は、一番前の、広い座席に座っていた。隣には、天道。その後ろに、沢登と、若い衆たち。寛人の席は、なかった。
「お前は、そこだ」
信格は、客室の一番後ろの、荷物置き場の床を、顎でしゃくった。
「付け人に、座席なんぞ要らねえ。俺の鞄を、膝に抱いてろ」
寛人は、何も言わずに、荷物置き場の床に座りこんだ。一メートル九十の体を、狭い床の上に、折りたたむようにして。膝の上に、信格の重い革の鞄を抱えて。
飛行機が、ブラジルの赤い大地を離れていった。床の上で、エンジンの振動が、寛人の背骨に、じかに響いていた。窓は、なかった。外の空も、遠ざかっていく大地も、何一つ見えなかった。
寛人は、暗い床の上で、膝の鞄を抱いたまま、目を閉じていた。前の席で、信格の高笑いが、聞こえていた。
寛人は、その声を、一つ残らず、耳に刻んでいた。




