第65話 投手
――時は、八か月ほど、さかのぼる。
昭和三十四年(一九五九年)十一月 東京・多摩川
河川敷の練習場に、冬の木枯らしが吹き抜けていた。ブルペンの隅で、一人の大男が、黙ってボールを握っていた。
二メートルを超える背丈。手も、足も、首も、何もかもが、人並み外れて長く、大きかった。その大きな手の中では、硬式の白球が、ピンポン玉のように小さく見えた。
郷馬公平。二十一歳。新潟の青果商の家に生まれ、高校を中退して、東京の名門球団、東都に入った投手だった。入団から五年。巨体から投げ下ろす速球で、一度は、一軍の先発を任されたこともあった。けれど、ここ二年は、球が思うように走らなくなっていた。
ブルペンの捕手が、郷馬の投げた球を受けて、首を横に振った。郷馬は、何も言わなかった。もう一球、投げた。捕手は、また、首を振った。
練習場の金網の外に、黒塗りの車が止まった。降りてきたのは、眼鏡をかけた、穏やかな顔の男だった。球団の編成部長が、慌てて駆け寄り、深々と頭を下げた。
「オーナー。わざわざ、お越しいただいて」
松木だった。新聞社の総帥にして、テレビ局の主。そして、東都球団の、オーナーでもあった。
松木は、金網越しに、ブルペンの大男を、しばらく黙って見つめていた。
「あれが、郷馬公平ですか」
「はい。体は日本一なんですが、もう、球が来ません。来季の契約は、どうしたものかと」
「切りなさい」
松木は、穏やかに言った。編成部長が、顔を上げた。
「今月で、首にしてください」
「は、はあ。ですが、まだ二十一です。どこかで化けるかもしれませんし、ほかの球団が拾うかも……」
「心配はいりません」
松木は、眼鏡の位置を、指で直した。
「あの青年の面倒は、うちで見ます」
「……うち、と申しますと」
松木は、それには答えなかった。
金網の向こうで、大男が、また一球を投げた。捕手が、首を振った。大男は、表情一つ変えずに、次の球を握った。
「あの体は、テレビに映えますね」
松木は、独り言のように呟いた。
「二メートルの日本人が、外国人の大男を、真正面から見下ろす。それだけで、画になります」
松木は、編成部長のほうを振り返りもせずに、黒塗りの車へ戻っていった。
昭和三十四年(一九五九年)十二月 東京・銀座 大河原の事務所
大河原の事務所の応接間で、映写機が、カタカタと音を立てていた。白い幕の上に、ブルペンで投げる大男の姿が、白黒で映しだされていた。松木の新聞社の写真部が、多摩川で撮ってきたフィルムだった。
大河原は、葉巻をくわえたまま、幕の上の大男を、黙って見ていた。
「新潟の、青果商の倅です」
松木が、手帳を開きながら言った。
「父親は、地元の町会で世話役をしている、堅い男だそうです。本人も真面目で、酒も女も、ほとんどやらない。球団の寮でも、門限を破ったことは、一度もないと」
「それで」
「頭も、いい。寮の部屋には、本が積んであるそうです。洋書まで」
大河原の葉巻の先が、わずかに赤く光った。
「何より」
松木は、手帳を閉じた。
「生まれも、育ちも、新潟です。親も、祖父母も、そのまた上も。どこを掘っても、何も出てこない」
大河原は、幕の上の大男を、しばらく見つめていた。大男は、黙々と、ボールを投げつづけていた。捕手が首を振っても、表情一つ変えずに。
「……言うことを、聞く男か」
「聞くでしょう。ああいう男は、一度引き受けた仕事を、最後までやり通します。文句も言わずに」
大河原は、葉巻を灰皿に置いた。
「狂犬を処分する日が来たら、その翌日から、テレビの前に立たせる英雄が要る、と言ったな」
「ええ」
「あれか」
松木は、静かに頷いた。
映写機のフィルムが、からからと音を立てて、終わった。白い幕だけが、薄暗い応接間に、ぼんやりと光っていた。
「ただ、一つ、気になることが」
松木が、手帳を開き直した。
「東都を首になっても、まだ野球に未練があるようで。こちらの話には、まだ首を縦に振りません。年明けに、湘南の球団が、テスト生として、あの青年をキャンプに呼ぶそうです」
大河原は、しばらく黙っていた。
「野球に戻る道が残ってるうちは、あいつは、こっちには来ねえな」
大河原は、葉巻を、指のあいだで転がした。それ以上は、何も言わなかった。やがて、新しい葉巻に火をつけた。
「それと、いきなり、こっちから送りこむんじゃねえ。力王山に、拾わせろ」
松木の眉が、わずかに上がった。
「あいつは、自分で拾ったものしか信じねえ。天道のときと、同じだ。あいつのほうから、欲しがるように仕向けろ」
昭和三十五年(一九六〇年)一月 静岡・伊東
湘南の球団のキャンプ地の、古い温泉旅館だった。練習を終えたテスト生たちが、湯気の立ちこめる大浴場に、どやどやと入っていく。郷馬は、最後に入った。大きな体で、ほかの者の邪魔にならないように、いつも、皆が上がったあとに湯を使うことにしていた。
脱衣所の床は、濡れていた。誰かがこぼしたのか、石鹸の泡が、タイルの上に、白く薄く広がっていた。郷馬は、それに、気づかなかった。
一歩、踏みだした。足が、滑った。二メートルの巨体が、宙に浮いた。
とっさに、右の腕を伸ばした。その先に、浴場へ続く、硝子の引き戸があった。
硝子が砕ける音が、旅館じゅうに響き渡った。投げるための右の腕が、肘の上まで、硝子の中に突っこんでいた。真っ赤な血が、濡れたタイルの上に、どくどくと広がっていった。
駆けつけた旅館の番頭が、悲鳴を上げた。郷馬は、硝子の破片の中に座りこんだまま、自分の腕を見下ろしていた。声も、出なかった。
脱衣所の隅の暗がりで、誰かが、そっと引き戸を閉めて、出ていく足音がした。誰も、それには気づかなかった。
キャンプは、その日のうちに、打ち切りになった。右の腕の傷は、四十針を縫った。医者は、首を横に振った。もう、野球の球を、まともに投げることはできないだろう、と。
昭和三十五年(一九六〇年)一月下旬 東京・有楽町 松木の新聞社の社長室
松木の社長室で、信格は、テーブルの上に広げられた写真を見下ろしていた。ブルペンで投げる、二メートルの大男。
「東都を、首になった投手です」
松木は、穏やかに言った。
「先日、よその球団のテストを受けている最中に、宿の風呂場で腕を怪我したそうで。もう、球は投げられない。けれど、あの体です。私は、レスラーにしたら面白いと思ったのですが」
松木は、写真を、ゆっくりと引き戻した。
「まあ、力王山さんがお気に召さないなら、ほかの団体にでも紹介しましょうか。新しく旗を揚げようとしている連中が、いくつかありますから」
信格の手が、写真の端を押さえた。
「……待て」
松木は、手を止めた。
信格は、写真の中の大男を、睨むように見つめていた。二メートルの日本人。この体が、よその団体の看板になったら。テレビで、外国人の大男を、真上から見下ろしたら。客は、どっちを見る。
「こいつは、俺が拾う」
信格は、写真を、自分のほうへ引き寄せた。
「よそには、渡すな」
松木は、穏やかに微笑んだ。
「では、お任せします」
昭和三十五年(一九六〇年)二月 東京・赤坂 ホテルの喫茶室
ホテルの喫茶室の、一番奥の席だった。向かいの椅子に、大男が、窮屈そうに腰を下ろしていた。ホテルの椅子は、どれも、この男には小さすぎた。膝が、テーブルの縁につかえていた。
郷馬は、背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いていた。信格は、葉巻をくわえたまま、その顔をじろじろと眺め回した。
長い顔。大きな顎。穏やかな、少し眠たげな目。怯えていなかった。かといって、媚びてもいなかった。
「野球を、首になったそうだな」
「はい」
郷馬の声は、低く、静かだった。郷馬の右の腕には、袖口から、白い包帯が覗いていた。
「その腕は」
「先月、キャンプの宿の風呂場で、転びました。硝子戸に、腕を」
郷馬は、包帯の上から、そっと腕に触れた。
「四十針、縫いました。もう、投げられないそうです」
「悔しいか」
郷馬は、少しのあいだ、考えるように黙った。
「……悔しいです。でも、球が投げられないのは、事実ですから」
信格は、紫煙を吐き出した。
「プロレスを、やってみる気はあるか」
「力王山さんの、下で、ですか」
「ああ」
郷馬は、信格の顔を、まっすぐに見た。眠たげな目の奥で、何かが、静かに値踏みをしていた。信格は、それに気づかなかった。
「俺のところに来れば、野球の何倍も稼がせてやる。お前の体なら、二年で、外人どもを見下ろすメインに立たせてやる」
「……ありがとうございます」
郷馬は、深々と頭を下げた。長い首が、ゆっくりと、テーブルの上に折れ曲がった。
「よろしく、お願いします」
信格は、その頭を見下ろしていた。
こいつは、俺を怖がらない。だが、逆らいもしない。政木のような、底の見えない静けさでもない。大峰のような、燃える怒りもない。ただ、大人しく、頭を下げている。
信格は、ふっ、と口元を緩めた。これは、扱いやすい。
「四月から、道場に来い。合宿所の一番いい部屋を、空けといてやる」
「合宿所の、ですか」
「お前は、特別だ」
信格は、伝票を掴んで、立ちあがった。
「ほかの小僧どもとは、違う扱いをしてやる」
同じ日 夕刻 ホテルの喫茶室
信格が去ったあと、郷馬は、喫茶室の椅子に、しばらく座っていた。
テーブルの上には、信格の吸い残した葉巻の灰が、灰皿の外に、白く散っていた。給仕の娘が、それを、困ったように布巾で拭っていた。
「……すみません」
郷馬は、大きな体を屈めて、娘に頭を下げた。
「いえ、お客様が謝られることでは」
娘は、慌てて首を振った。
郷馬は、灰の散ったテーブルを、黙って見下ろしていた。
さっきの男は、一度も、給仕に礼を言わなかった。注文のときも、灰を落としたときも、席を立つときも。葉巻の煙を、隣の席の老夫婦のほうへ、平気で吹きかけていた。腕は、本物だと聞いた。誰よりも強いと。だが。
郷馬は、ポケットから、小さな手帳を取り出した。寮の部屋で、毎晩、日記をつけている手帳だった。
包帯を巻いた右手では、鉛筆がうまく握れなかった。左手に持ち替えて、ぎこちなく書きつけた。
『力王山氏と面談。四月入門と決まる。
技術は学ぶべし。
人としては、見習うべきところなし』
郷馬は、手帳を閉じ、ポケットにしまった。それから、窮屈な椅子から、ゆっくりと立ちあがった。天井の低い廊下を、背を丸めて、歩いていった。
同じ夜 東京・銀座 大河原の事務所
大河原の事務所の窓辺で、松木が、静かに報告していた。
「力王山さんのほうから、欲しがりました。よその団体に渡すな、と」
大河原は、窓の外の銀座の灯りを見下ろしたまま、葉巻をくゆらせていた。
「そうか」
「四月から、合宿所の一番いい部屋を、空けておくそうです」
大河原は、くつくつと、喉の奥で笑った。
「自分の後釜に、自分で一番いい部屋をくれてやるか」
大河原は、葉巻の灰を、灰皿の縁で静かに落とした。
「次の英雄の椅子は、これで、埋まったな」




