第64話 父子
昭和三十五年(一九六〇年)七月 東京・目黒
その手紙は、京都の巡業の三日前に届いた。白い和紙の封筒に、細く、震えのない字で、宛名が書かれていた。
差出人の名前を見て、信格の手が止まった。千鶴。七年前、目黒の家の卓袱台の上に、離縁状と一緒に置き手紙を残していった女だった。
『前略
京都で、興行があると、新聞で拝見しました。
光一が、十になりました。
学校で、父親のいない子と、からかわれております。
あなたのことは、何も話しておりません。
けれど、あの子は、どこかで知ったようです。テレビの力王山が、自分の父親だと。
一度だけ、会わせてやってはいただけませんか。
一日だけで、結構です。
それ以上は、何も望みません。
千鶴』
信格は、手紙を、長いあいだ見つめていた。
知ったようです。誰が、教えた。京都の料亭の一族には、毎月、大河原の筋を通して、口止めの金を送りつづけていた。それでも、漏れたのか。十の子供の口から、学校で、町で、何が喋られるかわからない。
信格は、手紙を四つに折った。燃やそうとして、葉巻の火を近づけた。近づけたまま、手が止まった。
光一が、十になりました。
最後に抱きあげたのは、アメリカへ発つ前の晩だった。三つだった。重くなったな、と言った気がする。
信格は、葉巻を灰皿に置いた。手紙を、背広の内ポケットにしまった。二つに折ったオープンカーの写真の、隣に。
三日後 京都府立体育館 控室
控室の扉が叩かれたのは、試合の二時間前だった。天道が、顔を覗かせた。
「力王さん。表に、お客さんです。和服のご婦人と、男の子が」
信格は、鏡の前に座ったまま、振り返らなかった。
「……通せ」
扉が、開いた。
千鶴は、入ってこなかった。廊下に立ったまま、深く一礼しただけだった。七年前と同じ、色の白い、細面の顔だった。少しだけ、目尻に皺が増えていた。
その前に、一人の少年が立っていた。
十歳。年の割に、背が高い。肩幅が広く、手足が太い。白い開襟シャツに、半ズボン。坊主頭の下の顔は、緊張でこわばっていた。太い眉。張った顎。
信格は、鏡の中で、その顔を見た。七年前、上野の六畳間で、色褪せた写真の中の娘の顔を見たときと、同じものが、胸の奥を突きあげた。毎朝、鏡で見ている顔だった。
「夕方の五時に、迎えに参ります」
千鶴は、廊下から、静かに言った。それだけ言って、もう一度一礼し、背を向けて去っていった。一度も、信格の顔を見なかった。
少年は、控室の入口に、ぽつんと立っていた。若い衆たちが、珍しそうに、その少年を見ていた。沢登が、腋をパカンと鳴らして、少年の頭を撫でようとした。
「おう、坊主。どこの子だ」
信格は、立ちあがった。
「付け人の、見習いだ」
控室が、一瞬、静まり返った。少年の肩が、びくりと震えた。
「今日一日、俺の鞄を持たせる。おい、坊主。名前は」
少年は、唇を噛んだ。それから、震える声で言った。
「……対馬、光一です」
対馬。信格の、書類の上の名前だった。若い衆たちが、顔を見あわせた。天道が、帳面を開く音がした。信格は、それに気づかないふりをした。
「光一か。鞄を持て。落としたら、ぶっ飛ばすぞ」
信格は、革の鞄を、少年の足元に放り投げた。少年は、それを、両腕で抱えあげた。重かった。少年の細い腕が、震えた。それでも、少年は、鞄を胸に抱きしめて、まっすぐに信格を見上げた。
その日の午後
少年は、一日じゅう、信格のあとをついて回った。
控室から、リングの下の通路へ。通路から、記者たちの囲み取材の場へ。記者の一人が、その坊やは、と訊いた。
「付け人の見習いだ。田舎の親戚に頼まれてな」
信格は、少年のほうを見もせずに言った。少年は、鞄を抱えたまま、うつむいていた。
試合が、始まった。少年は、リングの下の、エプロンの陰に座らされた。頭の上で、外国人の巨漢の体がマットに叩きつけられる音がした。客席の歓声が、地鳴りのように降ってきた。
「力王山! 力王山!」
少年は、鞄を抱えたまま、首を伸ばして、リングの上を見上げた。黒いタイツの大男が、両腕を突きあげていた。テレビの中でしか見たことのない男が、すぐそこにいた。
少年の目が、輝いた。鞄を抱く腕に、ぎゅっと力がこもった。
夕方 控室
試合が終わると、控室には、信格と少年の二人だけが残った。若い衆たちは、天道が、何か用事をつけて外へ出していた。
信格は、汗を拭いながら、椅子に座りこんでいた。少年は、まだ、鞄を抱えて立っていた。
「もう、いい。下ろせ」
少年は、鞄を、そっと床に置いた。両腕が、赤く腫れていた。
しばらく、二人とも黙っていた。控室の外から、片づけをする若い衆たちの声が、遠く聞こえていた。
やがて、少年が、小さな声で言った。
「……あの」
信格は、顔を上げなかった。
「お父ちゃんの、ふるさとは、どこですか」
控室が、しんと静まり返った。信格の、汗を拭う手が、止まった。十歳の子供の、まっすぐな目が、信格を見ていた。
北の、海の近くの村だ。喉の奥まで、その言葉がせりあがってきた。秋の祭りで、大人を三人投げた。茹でた芋を三つ、手拭いに包んで、海を渡った。お前の、本当の、じいさんとばあさんが、そこにいた。
信格は、奥歯を噛みしめた。
「……長崎だ」
少年は、黙って、信格の顔を見ていた。
「長崎の、対馬家の倅だ。お前のじいさんとばあさんは、長崎の百姓だ」
「ながさき」
少年は、その言葉を、口の中で繰り返した。
「いつか、行ってみたいです」
信格は、何も答えなかった。答えられなかった。自分の、血を分けた子に。自分の本当の故郷を、嘘で塗りつぶして、渡したのだ。
扉が、小さく叩かれた。五時だった。
信格は、立ちあがった。鞄の中から、何かを取り出した。床の間に飾っている、あの世界王者のベルトから、先月、留め金が緩んで外れてしまった、赤い石だった。真鍮の台座から外れた、親指の先ほどの、硝子の石。
信格は、それを、少年の掌の上に、ぽとりと落とした。
「持ってけ」
少年は、掌の上の石を、じっと見つめた。控室の電球の光を受けて、石の奥で、赤い光が、きらきらと揺れていた。
「世界一のベルトの、宝石だ」
信格は、低く言った。
「本物だぞ」
少年の顔が、ぱっと輝いた。
「……本物の、宝石」
少年は、石を両手で包みこみ、胸に押し当てた。
「大事にします。一生、大事にします」
信格は、背を向けた。葉巻に火をつけようとして、うまく、つかなかった。
扉の向こうに、千鶴が立っていた。少年は、石を握りしめたまま、母親のほうへ駆けていった。
廊下の角を曲がるとき、少年は、一度だけ振り返った。控室の扉の向こうで、大きな背中が、こちらに背を向けたまま、立っていた。
少年は、その背中に向かって、深く、頭を下げた。父親の背中は、一度も、振り返らなかった。
同じ夜 京都から東京へ向かう夜行列車
寝台の暗がりで、信格は、天井を見上げていた。
本物だぞ。自分の口から出た言葉が、耳の奥で、何度も繰り返されていた。
硝子の石を、本物の宝石だと言って、渡した。本当の故郷を、嘘の故郷にすり替えて、渡した。自分の名前ですら、書類の上の、偽りの名前しか、渡せなかった。あの子が、生涯、大事にすると言ったものは、全部、偽物だった。
信格は、背広の内ポケットに、手を入れた。指先に、二つに折った写真と、千鶴の手紙とが触れた。
信格は、暗がりの中で、目を閉じた。列車の車輪の音が、どこまでも続いていた。
同じ夜 京都・祇園
料亭の奥の、小さな部屋で、少年は、布団の中にいた。枕元に、赤い硝子の石が、置いてあった。障子越しの月の光が、その石の奥で、かすかに揺れていた。
少年は、それを、いつまでも見つめていた。
お父ちゃんが、くれた。世界一の、本物の宝石。いつか、長崎に行こう。お父ちゃんの、ふるさとに。
少年は、石を握りしめたまま、眠りに落ちた。




