第63話 少年
昭和三十五年(一九六〇年)四月 東京・後楽園球場
外野席の一番上の段に、信格は、サングラスをかけて座っていた。帽子を目深にかぶり、葉巻もくわえていなかった。隣には、沢登が、大きな体を縮めて、売り子から買ったビールを舐めていた。
「オヤジ、なんでわざわざ、野球なんか」
「黙って見てろ」
グラウンドでは、東名の打者が、打席に立っていた。
二十歳。ひょろりと背が高く、日に焼けた細い顔。広島で生まれ育ち、大阪の並商に野球で引き抜かれ、去年、東名に入団して、一年目にいきなり新人王を獲った若者だった。
新聞でその名前を見たとき、信格は、手を止めた。張音勲夫。張音。朝鮮の苗字に、一字を足しただけの、通り名だった。
投手が、球を投げた。若者のバットが、鋭く振り抜かれた。乾いた音が、春の空に響いた。白い球が、右中間を、地を這うように抜けていった。
若者は、一塁を回り、二塁へ滑りこんだ。外野席が、どっと沸いた。
二塁ベースの上で、若者は、膝の土を払って立ちあがった。笑いもしなかった。両手を挙げもしなかった。ただ、静かに、次の打者のほうを見ていた。
信格は、サングラスの奥で、その姿を見つめていた。
誰も、勝ち負けを決めていない。誰も、台本を書いていない。あの若者が打った球は、あの若者の腕だけで、右中間を抜けていった。
同じ夜 東京・銀座 ステーキハウスの奥の個室
ステーキハウスの奥の個室に、若者が、緊張した顔で座っていた。六年前、黒幕たちが、巌流島の夜に血のしたたる肉を囲んだ、あの個室だった。
球団の広報を通じて、力王山が新人王に会いたがっている、と声をかけさせた。若者は、断らなかった。
信格は、若者の向かいに、どかりと腰を下ろした。
「張音勲夫、だな」
「……はい」
若者は、立ちあがって、深々と頭を下げた。
「広島で、六年前、力王山さんの試合を、街頭のテレビで見ていました」
信格は、葉巻に火をつけた。
「座れ」
給仕が、皿を運んできた。厚さ三寸はある、血のしたたる牛のステーキだった。若者の目が、皿の上で止まった。
「食え」
若者は、ナイフとフォークを手に取った。不慣れな手つきで、肉を切り、口に運んだ。
「もっと、でかく切れ。そんな食い方じゃ、肉に失礼だ」
若者は、言われるままに、肉を大きく切り、口に押しこんだ。一皿が、空になった。信格は、指を鳴らした。給仕が、もう一皿、同じ肉を運んできた。
「食え」
若者は、また、ナイフとフォークを取った。二皿目の半分を過ぎたところで、若者の手が、止まった。額に、汗が浮いていた。
「……もう、腹が」
「食え」
信格の声は、低かった。
「残すな。一切れも、残すな」
若者は、信格の顔を見た。信格は、葉巻をくわえたまま、若者の皿を睨んでいた。若者は、唇を噛み、また肉を口に押しこんだ。
三皿目が運ばれてきたとき、若者は、口元を押さえて、個室の外へ飛びだしていった。廊下の向こうの手洗いから、苦しげな声が聞こえてきた。
沢登が、困ったように頭を掻いた。
「オヤジ、ちょっと、やりすぎじゃ……」
「黙ってろ」
信格は、三皿目の肉を見下ろしていた。皿の上で、赤い肉汁が、白い陶器の縁へ、ゆっくりと広がっていった。
空っぽの、ちゃんこ鍋。底のゴミしか、残さねえ。雨の夜の、オモニの店の、三枚肉。
信格は、葉巻を、皿の脇の灰皿に押しつけた。
若者が戻ってきたとき、顔色は、青白かった。それでも、席に戻ると、黙って三皿目のナイフを取った。
信格は、その手首を、掴んだ。若者が、びくりと顔を上げた。
信格の目が、若者の右手の甲に、止まっていた。古い火傷の痕が、手の甲から指の付け根にかけて、引き攣れたように残っていた。
「……これは」
若者は、少しのあいだ、黙っていた。それから、静かに言った。
「五つのときです。あの朝、広島の空が、真っ白に光りました」
信格は、何も言わなかった。
「指が、くっついて、うまく開かなくなりました。医者には、バットは握れないだろうと言われました」
若者は、自分の右手を、ゆっくりと握ってみせた。指の付け根の皮膚が、引き攣れて、白く光った。
「だから、握り方を、自分で考えました。毎日、河原で、手の皮がむけるまで、振りました」
若者は、顔を上げた。その目が、まっすぐに、信格を見ていた。
「誰にも、教わっていません」
信格は、若者の手首を、離した。
誰にも、教わっていません。八年前、ホノルルの埠頭で、記者たちに向かって、自分は同じ言葉を吐いた。沖田の握り飯を受け取らずに。同じ言葉なのに、この若者の口から出ると、まるで違うものに聞こえた。
「……もう、食わなくていい」
信格は、低く言った。
「沢登。車を回せ」
同じ夜 東京・三河島
焼肉の煙とにんにくの匂いとで白く霞んだ路地の奥に、看板も出していない、小さな店があった。十一年前、秀貞と二人で、ケジャンを食べた店だった。
腰の曲がった店のオモニは、もう七十を過ぎているように見えた。けれど、信格の大きな体が暖簾をくぐると、皺の奥の目を細めて、ぶっきらぼうに言った。
〈久しぶりだね、大きいの〉
信格は、何も答えずに、一番奥の小上がりに腰を下ろした。沢登は、店の表で待たせた。若者が、向かいに、戸惑ったように座った。
〈クッパを、二つ〉
信格は、朝鮮の言葉で言った。若者の肩が、跳ねあがった。
〈三枚肉も、焼いて入れてくれ〉
店のオモニは、黙って頷き、奥へ引っこんでいった。
若者は、信格の顔を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
六年前、広島の闇市の外れで、背伸びをして見上げた画面。飯屋の隅で、大人たちが声を潜めて話していた噂。あの力王山、本当は、こっちの生まれらしいぞ。
〈……力王山さん〉
若者は、震える声で、朝鮮の言葉で言った。
〈やっぱり、本当だったんですね〉
信格は、答えなかった。
金吾には、掟を言い渡した。二人きりのとき以外は使うな、俺が使ったときは答えろ、と。この若者には、何も言い渡さなかった。言い渡す気に、ならなかった。
運ばれてきたクッパは、湯気を立てていた。唐辛子の赤い汁の中に、焼いた三枚肉が沈んでいた。
若者は、匙を取り、一口すすった。それから、目を閉じた。
〈……オモニの、味だ〉
若者は、小さく呟いた。
〈広島の、うちの店の。大阪の寮にいたときも、毎晩、これが食べたくて〉
信格も、匙を取った。一口、すすった。熱かった。唐辛子の痛みが、喉を焼いた。
二十年前、雨の夜、トタン屋根の下で、同じものを食べた。目頭から込みあげてくる熱いものを、擦り切れた袖で、乱暴に拭い去った夜だった。
信格は、匙を置いた。
〈お前、球場で、日本の名前で呼ばれて、どんな気がする〉
若者は、少しのあいだ、考えこんだ。
〈……どうも、しません〉
〈どうも、しないのか〉
〈名前は、名前です〉
若者は、右手の匙を、ゆっくりと握りしめた。火傷の痕が、店の薄暗い灯りの中で、白く光った。
〈打った球は、名前じゃなくて、この手が打ったものですから〉
信格は、若者の顔を、長いあいだ見つめていた。それから、ふっ、と笑った。いつもの、乾いた笑いではなかった。
〈……そうか〉
信格は、もう一度、匙を取った。
〈食え。今度は、残してもいい〉
若者は、目を丸くした。それから、照れくさそうに笑って、クッパをすすりはじめた。
店を出るとき、信格は、若者の肩に、大きな手を置いた。
〈勲夫〉
若者が、顔を上げた。
〈腹が減ったら、いつでも、ここへ来い。俺の名前を出せば、オモニが食わせてくれる〉
〈……はい、兄さん〉
若者は、迷わずに、そう呼んだ。信格は、それを、咎めなかった。
店のオモニが、暖簾の陰から、二人の背中を見送っていた。皺の奥の目が、少しだけ、濡れていた。
同じ夜 路地の出口
キャデラックの運転席で、沢登が、ハンドルにもたれて待っていた。今夜は、一滴も飲んでいなかった。
路地の奥から、二人の大男が、肩を並べて歩いてくるのが見えた。オヤジが、笑っていた。あんな顔で笑うオヤジを、沢登は、初めて見た。
沢登は、何も訊かなかった。ただ、少しだけ首をかしげて、それから、腋をパカン、と一度だけ鳴らした。
その夜、沢登は、公衆電話のボックスには、寄らなかった。




