第62話 安堵
昭和三十五年(一九六〇年)一月 深夜 東京・銀座から目黒へ
キャデラックの後部座席で、信格は、ぐったりと背もたれに沈みこんでいた。銀座の店を三軒回った帰りだった。ブランデーを何本空けたのか、もう覚えていなかった。
ハンドルを握っているのは、天道だった。天道は、どの店でも、酒にはほとんど口をつけなかった。勧められれば、グラスを唇に当てるだけで、いつも最後まで、素面のままでいた。
助手席では、沢登が、大きな体を窮屈そうに丸めて、いびきをかいていた。銀座の店で、信格の横に座って、ブランデーを二本ラッパ飲みした末だった。
後部座席の、信格の隣に、金吾が座っていた。膝の上に、信格の革の鞄を、両腕で抱えていた。
入門して、ふた月。鞄持ちとして、どこへ行くにも連れて歩かされていた。店の中には入れてもらえず、裏口の寒い路地で、何時間も鞄を抱えて立っていた。指先が、まだ赤くかじかんでいた。
夜更けの道に、ほかの車の影はなかった。街灯の光が、一定の間隔で、車の中を白く撫でては、過ぎていった。
信格は、窓の外の暗い街並みを眺めていた。酒が、頭の芯まで回っていた。口が、勝手に動いた。
〈……おい〉
朝鮮の言葉だった。
隣の金吾の肩が、びくりと跳ねあがった。膝の上の鞄が、ずり落ちかけた。金吾は、信じられないものを見るような目で、信格の横顔を見た。
信格自身も、自分の口から出た言葉に、少し驚いていた。
二十年。人のいるところで、この言葉を口にしたことは、一度もなかった。秀貞の部屋と、ふた月前の、あの物置の暗がりを除いては。
信格は、運転席の背中を、ちらりと見た。天道は、黙って前を見て、ハンドルを握っていた。助手席の沢登は、口を開けて眠りこけていた。
天道は、山形の田舎の生まれだ。朝鮮の言葉など、わかるはずがない。
信格は、窓の外を見たまま、続けた。
〈鞄を、落とすな〉
金吾は、答えなかった。唇が、かすかに震えていた。答えようとして、口を開きかけ、また閉じた。
物置の暗がりで、頬を張られた音が、耳の奥で鳴っていた。俺と、二人きりのとき以外は、その言葉を使うな。人のいるところで、一言でも口にしてみろ。殺す。
いまは、二人きりではなかった。運転席には天道がいて、助手席には沢登がいる。
これは、試されているのか。いま、この言葉で答えたら、掟を破ったと、殴られるのか。日本語で答えたら、それはそれで、殴られるのか。
金吾は、鞄を抱きしめたまま、凍りついたように動けなかった。やがて、絞り出すように、日本語で言った。
「……は、はい」
信格は、ゆっくりと首を回して、金吾を見た。金吾の肩が、またびくりと跳ねた。殴られる、と思った。
信格の手は、動かなかった。
〈日本語で、答えるな〉
低い、朝鮮の言葉だった。
〈掟に、一つ足しておく。俺がこの言葉を使ったときは、誰がそばにいようと、お前も、この言葉で答えろ〉
信格の目が、暗い車の中で、鈍く光っていた。
〈それ以外は、前に言ったとおりだ〉
金吾は、ごくりと唾を飲みこんだ。運転席の背中を、怯えたように見た。それから、長いあいだ、黙っていた。
二年間、収容所の便所の中で、一人で泣きながら、心の中で呼びつづけた言葉があった。金吾は、震える声で、それを口にした。
〈……はい、兄さん〉
信格は、何も言わなかった。兄さん、と呼ばれたことを、咎めもしなかった。
運転席で、天道は、何も言わなかった。ハンドルを握る手は、少しも揺れなかった。車は、暗い道を、ゆっくりと走りつづけた。
信格は、背もたれに頭を預けたまま、低い声で訊いた。
〈二年、収容所にいたんだな〉
〈はい〉
〈あそこで、俺の話をしていた奴はいたか〉
金吾は、少しのあいだ、黙っていた。
〈……いました。何人も〉
信格の指が、膝の上で、ぴくりと動いた。
〈何と、言っていた〉
〈兄さんのことを、自慢していました。同じ国の人が、日本で一番強い男になったと。看守に聞こえないように、夜、こっそり〉
〈……誰が、俺の生まれを言いふらしていた〉
〈言いふらしていたんじゃありません〉
金吾は、慌てたように首を振った。
〈みんな、誇りにしていたんです。兄さんのことを〉
信格は、答えなかった。窓の外を、街灯が一つ、また一つと、過ぎていった。
〈一人、変わったおじさんがいました〉
金吾が、鞄を抱え直しながら、ぽつりと言った。
〈戦争のとき、日本の兵隊にとられて、南の島へ行ったそうです。戦争が終わっても国に帰れずに、こっちで日雇いをしていて、何かの罪で捕まって、収容所に入っていました。足が一本、なかった〉
信格は、黙って聞いていた。
〈そのおじさんが、言ってたんです。南の島の部隊に、相撲取りがいた、と〉
信格の指が、膝の上で止まった。
〈東京の相撲部屋にいた、朝鮮の男だったそうです。痩せていて、いつも腹を空かせていて、でも、気の優しい男だったと〉
街灯の光が、車の中を白く撫でて、過ぎていった。
〈四股名は、たしか……〉
金吾は、少しだけ考えこんだ。
〈白鷺山、と言っていました〉
車の中が、しんと静まり返った。助手席の沢登のいびきと、エンジンの音だけが、低く続いていた。
信格は、窓の外を見たまま、動かなかった。
井戸端。痩せた肩。すがるように見上げてくる、目。約束する。
〈……そいつは〉
信格の声は、掠れていた。
〈どうなった〉
金吾は、隣の信格の顔を、そっと窺った。暗くて、表情は、よく見えなかった。
〈死んだそうです〉
金吾は、静かに言った。
〈昭和二十年の春に、島の密林の中で。熱病で、何日も苦しんで。食べ物もなくて、最後は、骨と皮だけになって〉
信格は、何も言わなかった。
〈そのおじさんが、最後まで、看取ったそうです。死ぬ前の晩に、その相撲取りが、うわごとみたいに言ってたって〉
金吾は、膝の上の鞄を、ぎゅっと抱きしめた。
〈俺の兄貴は、東京で関取になった。いまに、朝鮮人みんなの希望になる。だから、俺は、ここで死んでも、恨まねえ、って〉
信格は、窓ガラスに額をつけた。冷たかった。
恨まねえ。井戸端で、約束を踏みにじった男を。国技館の廊下で、日本語で、知らねえな、と切り捨てた男を。二階の窓から、雪の中を出征していく背中を、一度も追わなかった男を。最後まで、兄貴と呼んで。
〈兄さん?〉
金吾が、心配そうに、信格の顔を覗きこんだ。信格は、答えなかった。窓ガラスに額をつけたまま、目を閉じていた。
胸の奥から、何かが、ゆっくりと湧きあがってきた。悲しみでは、なかった。信格は、それに気づいて、ぞっとした。
悲しみではなかった。悔恨でも、なかった。それは、もっと静かで、もっと軽く、もっと温かいものだった。
もう、いない。あの井戸端の約束を、知っている者は。あの千秋楽の、軽い立ち合いが何だったのかを、知っている者は。十六年のあいだ、どこかの戦地で生きているかもしれないと、心の底で怯えつづけてきた男は。もう、この世のどこにも、いない。しかも、恨まないと言って、死んでいった。
信格の肩から、十六年分の重さが、すっと抜けていった。
信格は、窓ガラスに額をつけたまま、目を開けた。窓に映る自分の顔を、見た。口元が、緩んでいた。
ふっ、と、誰にも聞こえない声で、笑っていた。
運転席のバックミラーの中で、天道の目が、一瞬だけ、後部座席に向けられた。すぐに、また前を向いた。
〈……兄さん〉
金吾の声が、震えていた。
〈その相撲取りのこと、知ってるんですか〉
信格は、額を窓から離した。背もたれに、深く沈みこんだ。
〈知らねえな〉
朝鮮の言葉で、そう言った。十六年前、国技館の廊下で、永哲に言ったのと、同じ言葉だった。今度は、故郷の言葉で。
金吾は、隣の信格の顔を、黙って見つめていた。窓ガラスに映っていた、緩んだ口元を、金吾は、見てしまっていた。
車が、目黒の家の前に止まった。天道が、運転席から降りて、後部座席の扉を開けた。
「力王さん、着きました」
信格は、車を降りかけて、足を止めた。鞄を抱えて降りようとした金吾の胸倉を、片手で引き寄せた。酒の匂いのする息が、金吾の顔にかかった。
〈いいか〉
低い、朝鮮の言葉だった。天道は、扉の脇で、いつもの人懐っこい笑みを浮かべたまま、夜空を見上げていた。
〈今夜、この車の中で話したことを、外で一言でも漏らしてみろ。白鷺山のことも、俺がこの言葉を喋ったことも〉
金吾の喉が、ごくりと鳴った。
〈大村へ、送り返してやる〉
信格は、金吾の胸倉を、さらに引き寄せた。
〈いや。その前に、俺が殺す〉
金吾は、鞄を抱きしめたまま、震えながら頷いた。
〈……命を助けていただきました。死んでも、言いません、兄さん〉
信格は、胸倉から手を離した。金吾の腕から鞄をひったくり、何も言わずに、玄関の戸を開けて、暗い家の中へ入っていった。戸が、閉まった。
金吾は、その戸を、しばらく見つめていた。
「乗りなさい、大島くん。道場まで送るよ」
天道が、穏やかに声をかけた。
金吾は、後部座席に戻った。膝の上に、もう鞄はなかった。空になった両腕を、どこに置けばいいのかわからずに、膝の上で、固く握りしめた。
キャデラックは、まず、沢登の下宿のある裏通りに寄った。天道に肩を揺すられて、沢登は、ようやく目を覚ました。
「ん……もう、着いたんすか」
「着いたよ。足元に気をつけて」
沢登は、大きな体を助手席から引きずりだすと、千鳥足で、路地の奥へ消えていった。腋をパカン、パカンと鳴らす音が、夜の路地に、間の抜けた調子で響いていた。
車の中は、天道と金吾の、二人きりになった。
天道は、黙ってハンドルを握っていた。しばらくして、前を向いたまま、穏やかに言った。
「大島くん。さっき、力王さん、何かおっしゃってたかい。わたしには、さっぱりでね」
金吾の口が、反射のように開きかけた。故郷の言葉が、喉までせりあがってきた。金吾は、慌てて唇を噛んだ。いまは、兄さんが使っていない。
「……わかりません。酔っていらしたので」
日本語だった。語尾が、ほんの少しだけ、跳ねた。
「そうか」
天道は、にっこりと頷いた。バックミラーの中で、その目だけが、金吾の顔を、じっと見ていた。
同じ夜 東京・目黒
信格は、誰もいない家の居間を通り抜け、寝室の布団の上に、背広のまま倒れこんだ。天井を見上げた。暗い天井の木目が、ぼんやりと浮かんでいた。
井戸端の顔が、一瞬だけ、浮かびかけた。信格は、目を閉じた。
その夜、信格は、何年かぶりに、夢を見なかった。
政木の握力も、大峰の囁きも、羽田の滑走路も、空っぽのちゃんこ鍋も。何も、出てこなかった。朝まで一度も目を覚まさずに、ぐっすりと眠った。
同じ夜 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
道場の前で、キャデラックが止まった。金吾は、天道に頭を下げて、裏手の合宿所へ駆けていった。
若い衆たちが雑魚寝している大部屋の、一番隅の、すきま風の吹きこむ布団に、作業服のまま潜りこんだ。目を閉じても、眠れなかった。窓ガラスに映っていた、緩んだ口元が、瞼の裏から消えなかった。
道場の二階の事務所に、灯りがともった。
天道は、机の前に座り、帳面を開いた。いつもの、人懐っこい笑みは、消えていた。鉛筆を取り、今日の日付の下に、短く書きつけた。
『帰路。車中にて、力王山、大島と朝鮮語にて会話。
白鷺山の名、出る。
南方にて戦死との由。
力王山、笑う』
天道は、鉛筆を置いた。帳面を閉じ、背広の内ポケットにしまった。それから、事務所の灯りを消した。
暗闇の中で、天道は、しばらく、窓の外の夜の路地を見下ろしていた。階下の合宿所の、一番隅の布団の中で、まだ眠れずにいる若者のことを、考えていた。




