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第61話 密航

 昭和三十二年(一九五七年)十月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階


最初の手紙が届いたのは、その年の秋だった。


道場に届いた郵便物の束の中から、天道が、一通だけ抜き出して、信格の机の上に置いた。茶色く汚れた、粗末な封筒だった。差出人の欄には、こう書かれていた。長崎県大村市、大村入国者収容所。


信格の手が、封筒の上で止まった。長崎。書類の上の、自分の故郷だった。


封を切った。中から出てきたのは、鉛筆で書かれた、たどたどしい字の便箋だった。日本語では、なかった。朝鮮の文字だった。


〈力王山さま


わたしは、全羅南道の村から、漁船の底に隠れて、海を渡ってきました。


十七歳です。名前は、金泰一といいます。


村では、シルムをやっていました。秋の祭りで、大人を三人、続けて投げました。


村の食堂のラジオで、毎晩、力王山さまの試合を聴いていました。


村の大人たちが、こっそり言っていました。


力王山さまは、本当は、わたしたちと同じ国の人だと。


わたしは、それを聞いて、決めました。


海を渡って、力王山さまの弟子になろうと。


下関の浜に着いたところで、警官に捕まりました。


いまは、この収容所にいます。


どうか、助けてください。


同じ国の、兄さん〉


信格は、便箋を握りしめたまま、動けなかった。


秋の祭りで、大人を三人、続けて投げた。十三年前、新京の娼館の奥の部屋で、自分は秀貞に、まったく同じことを語った。


同じ国の人だと、村の大人たちが、こっそり言っていた。海の向こうの、見知らぬ漁村の食堂で。


信格の背中を、冷たい汗が這いのぼった。


この手紙を、収容所の役人は読んだのか。朝鮮語の読める役人が、あそこには何人もいるはずだ。同じ国の、兄さん。その一行が、どこかの帳面に、もう書き写されているのではないか。


信格は、天道の顔を見た。天道は、いつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。この男は、朝鮮の文字が、読めるのか。笑顔からは、何も読み取れなかった。


「……屑籠に、捨てとけ」


信格は、便箋を封筒に戻し、天道のほうへ放った。天道は、黙って頷き、封筒を拾いあげた。


その夜、天道が帰ったあとで、信格は、屑籠の中から、その封筒を拾いだした。葉巻の火を、便箋の端に近づけた。同じ国の、兄さん、という字が、最後に炎に呑まれた。


それからの二年


手紙は、ひと月に一度、届いた。同じ茶色い封筒。同じ、鉛筆のたどたどしい朝鮮の文字。信格は、そのすべてを、読んでから、燃やした。政木の航空便と、同じように。


〈兄さん、今日は、収容所の庭で、腕立てを千回やりました〉


〈兄さん、ここの飯は、薄い麦の粥です。でも、我慢します。いつか、兄さんの道場で、腹いっぱい食べられると信じています〉


〈兄さん、テレビで、兄さんが世界王者になったと、看守さんが教えてくれました。わたしは、収容所の便所の中で、一人で泣きました〉


燃やしても、燃やしても、また届いた。灰皿の上で、朝鮮の文字が、ひと月ごとに、黒い灰になって崩れていった。


昭和三十四年(一九五九年)十月


その月の手紙は、いつもと違っていた。便箋の字が、ひどく乱れていた。


〈兄さん


来月の初めに、送り返されることが決まりました。


向こうへ帰れば、密航した者は、牢に入れられると聞きました。


もう二度と、シルムも、できないかもしれません。


最後に、一度だけ、兄さんに会いたかった。


同じ国の、兄さんに。


それだけが、心残りです〉


信格は、その便箋を、長いあいだ見つめていた。今度は、燃やさなかった。


送り返されれば、この若造は、向こうで何を喋る。二年も手紙を書きつづけた。力王山は、一度も返事をくれなかった。力王山は、同じ国の人だ。牢の中で、取り調べの役人に。同じ牢の、ほかの男たちに。いつか、その噂が海を渡って、こちらへ戻ってくる。


信格は、便箋を、四つに折った。


「天道」


「はい」


「この小僧を、出してやれ。出して、俺の道場に入れろ」


天道の眉が、わずかに上がった。


「二年、放っておかれたのに、ですか」


信格は、葉巻に火をつけた。


「目の届かねえところで、何を喋られるかわからねえ奴は、目の届くところに置いておくのが一番だ」


同じ月 東京・麻布 岸本の屋敷


岸本の屋敷の座敷で、信格は、畳に両手をついていた。床の間の前に、細面の顔が、静かに座っていた。岸本は、この二年で、国の舵を握る座にまで上りつめていた。


「密航者を、一人、出してほしい、と」


岸本は、信格が差し出した書類を、眼鏡越しに眺めていた。


「全羅南道の、十九の小僧です。レスラーになりたくて、海を渡ってきたそうで。体は、いい」


「それだけか」


岸本の声は、穏やかだった。信格は、畳に手をついたまま、顔を上げなかった。


「……それだけです」


座敷に、長い沈黙が落ちた。庭の鹿威しが、乾いた音を立てた。やがて、岸本は、書類を脇に置いた。


「法務のほうに、一言、言っておこう」


「ありがとうございます」


「力王山くん」


岸本は、静かに言った。


「君は、日本の英雄だ。日本の英雄が、朝鮮の密航者を、わざわざ身元を引き受けてまで救いだす。それが世間に知れたら、どう書かれるかね」


信格の背中が、ぴくりと動いた。


「美談と書かれるか。それとも、別のことを書かれるか」


岸本は、湯呑みを口に運んだ。


「くれぐれも、気をつけたまえ」


信格は、畳に額をこすりつけた。


座敷を出るとき、廊下の暗がりに、大河原が立っていた。葉巻をくわえ、細い目で、信格の背中を見送っていた。信格は、それに気づかなかった。


大河原は、座敷の中の岸本と、黙って目を見交わした。首輪が、また一つ、増えた。その目が、そう言っていた。


昭和三十四年(一九五九年)十一月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場


道場の門の前に、一人の若者が立っていた。


痩せて、日に焼けた、浅黒い顔。身の丈は、信格とほとんど変わらない。肩幅ばかりが広く、肉はまるで足りていなかった。収容所の支給品らしい、だぶだぶの灰色の作業服を着ていた。


若者は、二階の窓から見下ろす信格の姿を見つけると、目を輝かせた。その場に、膝をついた。両手を、地面についた。そして、大きな声で叫んだ。


〈兄さん! ありがとうございます、兄さん!〉


朝鮮の言葉だった。道場の前を通りかかった近所の主婦が、怪訝な顔で足を止めた。稽古場の中で、若い衆たちが、手を止めて門のほうを見た。


信格は、階段を駆け下りた。門の前で、まだ地面に手をついている若者の襟首を、片手で掴んで、引きずり起こした。そのまま、道場の中へ引きずりこんだ。稽古場を突っ切り、奥の物置小屋の中へ放りこんだ。扉を、閉めた。


暗い物置の中で、若者は、何が起きたのかわからないという顔で、信格を見上げていた。信格は、若者の胸倉を掴んで、壁に叩きつけた。


「いいか」


低い声だった。日本語だった。


「門の前で、何を叫んだ。近所の女が見てた。若い連中も、見てた」


若者の目が、見開かれた。


〈……兄さん?〉


信格は、殴らなかった。物置の扉は、閉まっていた。外に、人の気配はなかった。


若者は、涙をこらえて、信格を見上げた。


〈兄さんも、昔は、シルムを……〉


信格の平手が、その言葉を断ち切った。乾いた音が、物置の中に響いた。二発目、三発目、四発目と、信格は、若者の頬を張りつづけた。


言葉のせいではなかった。自分の少年時代を、この若造の口から言い当てられることが、何よりも、怖かった。


若者が、壁に沿って崩れ落ちると、信格は、その顔を、間近で覗きこんだ。それから、低く、言った。


〈……よく聞け〉


朝鮮の言葉だった。


若者の体が、びくりと震えた。濡れた目が、信じられないものを見るように、信格の顔を見上げた。海を渡ってから、二十年。秀貞のほかに、信格がこの言葉を誰かに向けたのは、初めてだった。


〈俺と、二人きりのとき以外は、その言葉を使うな〉


信格の声は、ひどく静かだった。


〈道場でも、巡業先でも、寝言でもだ。人のいるところで、一言でも口にしてみろ〉


信格は、若者の胸倉を、もう一度、強く掴んだ。


〈殺す〉


物置の中が、しんと静まり返った。若者の目から、涙がこぼれた。けれど、その涙は、さっきまでの涙とは、どこか違っていた。


信格は、胸倉から手を離し、日本語に戻った。


「お前の名前は、今日から、大島金吾だ」


「……オオ、シマ」


「出身は、九州の、長崎だ。親は、漁師だ。誰に訊かれても、そう答えろ」


長崎。自分と同じ、書類の上の故郷を、信格は、この若者にも与えていた。自分でも、気づかないうちに。


「わかったか。人前の返事の稽古だ。日本語で、言ってみろ」


「……はい」


たどたどしい、ひどく訛った日本語だった。語尾が、ほんの少しだけ跳ねた。


十九年前、雨の夜の稽古場に、同じ訛りの少年がいた。信格は、それを、思い出さなかった。


それからの日々


大島金吾の稽古は、ほかの若い衆の倍だった。


朝は、誰よりも早く起こされ、道場の床を雑巾で拭かされた。昼は、信格の手刀を、誰よりも多く浴びせられた。夜は、信格の付け人として、銀座や赤坂の店の裏口で、明け方まで立たされた。


受身を一つしくじると、首筋を打たれた。日本語の受け答えが一つ訛ると、頬を張られた。大部屋の寝床で、寝言に故郷の言葉が漏れた夜は、布団から引きずりだされて、朝まで道場の柱を打たされた。


入門して、ひと月が経った日のことだった。


稽古場の真ん中で、信格の手刀を十発、二十発と浴びつづけ、金吾は、ロープ際まで追いつめられていた。三十発目が振り下ろされた瞬間、金吾の体が、勝手に動いた。腰を沈め、首を前に突き出し、額から、信格の胸板へ飛びこんだ。


鈍い音がした。信格の巨体が、一歩、後ろによろめいた。稽古場が、凍りついた。若い衆たちが、息を呑んで、二人を見ていた。


信格は、自分の胸を見下ろした。額の形に、赤く、跡がついていた。


シルムの、頭突きだった。二十年前、故郷の村の祭りで大人たちを投げ飛ばした少年の体にも、同じ技が染みついていた。


信格は、ゆっくりと顔を上げた。金吾は、自分が何をしたのかに気づいて、真っ青になっていた。


信格の拳が、金吾の顔に叩きこまれた。金吾は、マットの上に崩れ落ちた。


「二度と、やるな」


信格は、倒れた金吾を見下ろして、低く言った。


「それは、朝鮮の喧嘩の癖だ。日本のプロレスに、そんなものは要らねえ」


その夜、事務所に戻ると、天道が、帳面を手に待っていた。


「力王さん。今日の、大島の頭突きですが」


「なんだ」


「若い連中が、目を丸くしてましたよ。先生がよろめいたのを、初めて見たって」


天道は、にっこりと笑った。


「あれ、リングで使わせたら、客が沸きますよ。石頭の大島。九州の漁師の倅が、荒波で鍛えた鉄の額」


信格は、葉巻をくわえたまま、黙っていた。


故郷の祭りの、土の匂い。秋の陽射し。大人たちの喝采。その技を、九州の漁師の倅の、日本の技として売りだす。


信格は、紫煙を吐き出した。


「……名前は、お前が考えろ」


「承知しました」


天道は、帳面に書きつけた。


「それと、天道」


「はい」


「頭突きは、リングの上だけだ。稽古場で俺にやったら、首を折ると言っとけ」


ちゃんこの時間になると、金吾は、いつも最後に回された。鍋の前に座る頃には、肉も、野菜も、何も残っていなかった。底に、焦げついた汁と、得体の知れない滓とが、こびりついているだけだった。


ある夜、金吾が、空の鍋の前で、じっと座りこんでいるのを、信格は見た。


「食え」


信格は、鍋の底を、顎でしゃくった。金吾は、震える手で鍋を抱え、底の滓を、指でこそげ取って口に運んだ。


その姿を、信格は、黙って見下ろしていた。


雨の夜。空っぽのちゃんこ鍋。おい崔、朝鮮人に食わせる肉はねえぞ、土の塊でも食ってろ。その声が、どこか遠くで、聞こえた気がした。


信格は、首を振った。気のせいだ。俺は、長崎の、対馬光夫だ。


同じ年の十二月 深夜 大和プロレス道場


真夜中に、信格は、道場の前を通りかかった。銀座の店からの帰りだった。道場の窓から、かすかな灯りが漏れていた。


覗きこむと、稽古場の隅の柱の前に、金吾が一人、座りこんでいた。柱に額をつけて、何かを呟いていた。信格は、耳を澄ませた。朝鮮の言葉だった。


〈……オモニ。オモニ。元気でいますか〉


小さな、震える声だった。


〈兄さんは、本当に、兄さんなのかな。わからなくなった〉


信格は、窓の外の暗がりに立ちつくしていた。扉を開けて、何か言いに入ろうとした。足が、動かなかった。


柱の前で膝を抱えて肩を震わせている若者の姿が、窓ガラスの向こうで、ぼやけて見えた。いや、ぼやけていたのは、窓ガラスではなかった。


信格は、窓に背を向けた。葉巻に火をつけようとして、うまく、つかなかった。三本目のマッチで、ようやく火がついた。


信格は、紫煙を夜空に吐き出しながら、暗い路地を、一人で歩いていった。


その夜は、何も言わなかった。



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