第60話 健診
昭和三十四年(一九五九年)十一月 東京・赤坂 病院
白い壁。白い天井。消毒液の匂い。
磨きあげられた廊下を、信格は、葉巻をくわえたまま歩いていた。後ろに、天道と沢登。その後ろに、院長と、医師が三人、看護婦が四人。白衣の行列が、ぞろぞろと付き従っていた。
廊下の両脇の長椅子に座った患者たちが、慌てて立ちあがり、頭を下げていく。
「力王山だ」
「本物だよ、テレビの」
囁き声が、白い廊下に、さざ波のように広がった。
「院内は、禁煙となっておりますが……」
若い医師の一人が、恐る恐る口を開いた。院長が、振り返りもせずに、その医師の足を、靴の踵で軽く踏んだ。若い医師は、口をつぐんだ。
信格は、廊下の真ん中で、紫煙を天井に吐きあげた。
毎年、秋の終わりに、この病院で体を診てもらうことになっていた。最初に言いだしたのは、大河原だった。世界王者の体は、日本の宝だ。万一のことがあってはならない。赤坂に、腕の確かな病院がある。院長とは、古い付きあいだ、と。
十年前、肺の虫を見つけてもらった病院だった。信格は、そのことを、もう何とも思っていなかった。
同じ日 院長室
健診の前に、院長室に通された。
白髪の院長が、革張りのソファを勧め、自ら、舶来の葉巻の箱を開けて差し出した。
「キューバから、取り寄せたものです。力王山さんのお口に合えば」
信格は、箱の中から一本を抜き取り、においを嗅いだ。それから、自分の吸っていた葉巻を、院長の机の上の、患者の病歴が綴じられた分厚い帳面の表紙に、ぐりぐりと押しつけて消した。帳面の表紙に、黒い焦げ跡が、丸く残った。
院長は、それを見ても、眉一つ動かさなかった。
「……結構なお品で」
「だろう」
信格は、新しい葉巻に、院長に火をつけさせた。院長が、マッチを擦る指先を、わずかに震わせながら、信格の葉巻の先に火を近づけた。
信格は、その皺だらけの指を、面白そうに眺めていた。この病院の、一番偉い男だ。その男が、俺の葉巻に、火をつけている。
同じ日 診察室
診察室の扉を開けると、白衣の医師が、机の前で待っていた。
銀縁の眼鏡。白髪の混じった髪。十年前、この同じ部屋で、レントゲンの写真を光にかざしながら、相撲はもう無理です、と言った男だった。
信格は、診察台に、どさりと腰を下ろした。
「よう、先生。久しぶりだな」
医師は、眼鏡の位置を、指で直した。
「ご無沙汰しております、力王山さん」
「十年前、あんたは、俺に何と言ったか、覚えてるか」
医師の手が、カルテの上で、一瞬だけ止まった。
「……肺ジストマ、と」
「相撲は、もう無理だ。命が惜しけりゃ、廃業しろ、とな」
信格は、葉巻の煙を、医師の顔に吹きかけた。医師は、咳きこみもせず、顔を背けもしなかった。
「ハワイの医者は、三か月で治ると言った。本当に、三か月で治った」
信格は、にやりと笑った。
「あんたは、藪だ」
診察室が、静まり返った。看護婦たちが、息を詰めていた。
医師は、しばらく黙っていた。それから、穏やかに言った。
「アメリカの薬は、よく効きますので」
信格は、腹を抱えて笑った。
「藪のくせに、口だけは達者だ」
笑いながら、医師の背中を、平手で強く叩いた。医師は、前のめりによろめき、眼鏡がずれた。それを直しながら、医師は、また、穏やかに頭を下げた。
「恐れ入ります」
胸に聴診器が当てられ、血圧が測られた。医師は、血圧計の目盛りを読み、カルテに数字を書きつけた。ペンの先が、一瞬だけ、止まった。
「……少し、高めですね」
「そうか」
「肝臓の数字も、去年より、だいぶ悪くなっています。お酒の量を、控えていただかないと」
「控えてるさ」
信格は、背広の内ポケットから、銀のスキットルを取り出した。蓋を開け、診察台の上で、ウイスキーを喉に流しこんだ。
「一日、瓶で三本にな」
沢登が、診察室の隅で、ぶはっと吹き出した。天道は、壁際で、黙って帳面をつけていた。
医師は、何も言わなかった。カルテに、何かを書き足した。それから、カルテを閉じて、机の引き出しの、一番奥にしまった。
「お体は、至って健康です。世界王者に、ふさわしい」
「当たり前だ」
信格は、診察台から立ちあがり、スキットルを懐に戻した。
同じ日 薬局の前
診察を終えて廊下へ出ると、薬局の小窓の前で、若い看護婦が、棚の薬瓶の数を帳面に書き写していた。二十歳そこそこの、色白で、首筋の細い娘だった。
信格は、足を止めた。看護婦の背後に立ち、その手首を、大きな手で掴んだ。看護婦が、びくりと肩を震わせて振り返った。
「名前は」
「あ、あの……」
「名前だよ」
「……三上、です」
信格は、懐から札束を一つ取り出し、看護婦の白衣の胸のポケットに、無造作にねじこんだ。
「今夜、赤坂の『クラブ・リキ』に来い。俺の名前を出せば、通してやる」
看護婦の顔から、血の気が引いた。
「わ、わたし、今夜は、夜勤で……」
「夜勤なんざ、院長に言って、替わらせろ」
信格は、看護婦の手首を、ぎりぎりと握りしめた。看護婦の目に、涙が浮かんだ。
廊下の向こうで、院長が、こちらを見ていた。見ていて、何も言わなかった。看護婦は、信格の手を振りほどくこともできずに、ただ、うつむいていた。
「オヤジ、オヤジ」
沢登が、大きな体を割りこませてきた。
「次の予定、詰まってますよ。テレビ局の打ちあわせが」
信格は、舌打ちをして、看護婦の手首を離した。
「来なかったら、院長に言って、辞めさせてやる」
信格は、葉巻をくわえ直し、白い廊下を、肩で風を切って歩き去っていった。白衣の行列が、またぞろぞろと、その後ろに付き従っていった。
薬局の小窓の前で、看護婦は、胸のポケットにねじこまれた札束を、震える指で抜き出した。そのまま、廊下の床に、落とした。
奥の薬局から、年嵩の看護婦が、顔を出した。
「三上さん。大丈夫?」
「……はい」
三上は、手首を押さえたまま、棚の薬瓶のほうに向き直った。帳面に、また、数字を書き写しはじめた。指が、まだ震えていた。
「お金は、あんなに有り余ってる人がいるのに」
三上は、帳面を見下ろしたまま、小さく呟いた。
「ここって、いつも、何かが足りないのよね」
「え?」
三上は、帳面の上の、いくつかの空いた欄を、指でなぞった。何度、上に書類を上げても、埋まらない欄だった。
「……なんでも、ないです」
「そういうことは、言わないほうがいいわよ」
年嵩の看護婦が、廊下の左右を、ちらりと見回した。
「院長先生が、ちゃんとお考えなんだから」
三上は、黙って頷いた。
床に落ちた札束を、年嵩の看護婦が拾いあげ、黙って、院長室のほうへ持っていった。
同じ日 夕刻 院長室
院長は、机の前で、電話の受話器を耳に当てていた。
机の上には、信格のカルテが広げられていた。十年前、銀縁眼鏡の医師が、肺の写真を挟みこんだカルテだった。今日、その医師が、血圧と肝臓の数字を書き足したカルテだった。表紙の隅に、葉巻を押しつけられた黒い焦げ跡が、丸く残っていた。
「……はい。至って、お元気そのものでございます」
院長は、受話器に向かって、穏やかに言った。
「ただ、お酒が、だいぶ。血圧も、肝臓も、年々。ええ、医者の言うことなど、まるでお聞きになりません。今日も、診察台の上で、ウイスキーを」
受話器の向こうで、低い笑い声がした。
「ええ。承知しております。カルテは、すべて、こちらで大切に保管しております」
院長は、受話器を耳に当てたまま、カルテを閉じた。
「では、また。先生も、どうぞ、お体を大切に」
受話器を置いた。
院長は、しばらく、閉じたカルテの表紙の焦げ跡を見下ろしていた。それから、カルテを、机の引き出しの一番奥にしまい、鍵をかけた。
窓の外で、赤坂の街に、夜の灯りがともりはじめていた。




