第59話 黄金
昭和三十三年(一九五八年)十月 東京・有楽町 松木の新聞社の社長室
松木の新聞社の社長室に、三友電機の社長が、自ら足を運んできた。白髪を丁寧に撫でつけた、品のいい老人だった。
三友の本家の人間ではない。戦前に三友商事に入り、四十年かけて、電機の社長の椅子まで這いあがってきた男だという。受像機の売れ行き次第で、その椅子がいつでも本家に取りあげられることも、本人が一番よく知っていた。
老人は、信格の前で、深々と頭を下げた。
「世界王者の力王山さんに、お目にかかれて、光栄です」
信格は、ソファにふんぞり返ったまま、葉巻をくわえていた。世界王者になって、ひと月。こういう男たちが、毎日のように、頭を下げに来るようになっていた。
「来年の春から、金曜の夜八時に、枠を一つ、いただきました」
松木が、穏やかに言った。
「三友電機さんの、一社提供です。番組の名前は、『三友ゴールデン・アワー』」
「ゴールデン、ね」
信格は、紫煙を吐き出した。
「毎週、金曜の夜八時。日本じゅうの家庭が、夕飯を終えて、受像機の前に座る時間です。その時間を、あなたの試合で埋める」
三友の社長が、穏やかに微笑んだ。
「街頭のテレビの前に群がっていた方々が、今度は、ご自宅の茶の間で、あなたを見るのです。あなたを見るために、皆さん、受像機をお買いになる」
「つまり」
信格は、葉巻の灰を、わざと灰皿の外に落とした。灰は、老人の磨きあげられた革靴の爪先に、白く散った。
「俺は、あんたのところの受像機の看板ってわけだ」
社長室が、一瞬、静まり返った。
三友の社長は、自分の靴の上の灰を見下ろした。それから、少しも表情を変えずに、懐からハンカチを取り出した。腰をかがめ、自分の手で、靴の上の灰を、丁寧に拭った。
「看板などと、とんでもない」
老人は、身を起こして、穏やかに言った。
「日本の、宝です」
信格は、その姿を、葉巻をくわえたまま眺めていた。
四十年、頭を下げつづけて、ここまで這いあがってきた男。その男が、いま、俺の落とした灰を、自分のハンカチで拭いている。十七年前、障子の隙間から、封筒を受け取る親方を見ていた少年がいた。いま、その少年が、財閥の社長に、灰を拭かせている。
ふっ、と、信格の口元が、ゆっくりと緩んだ。
窓辺で、松木が、眼鏡の奥から、黙ってそれを見ていた。
昭和三十四年(一九五九年)四月 東京・目黒
金曜の夜八時。目黒の家の居間で、信格は、一人で、真新しい三友の受像機の前に座っていた。
画面の中で、自分が、外国人の大男に、空手チョップを叩きこんでいた。画面の端に、菱形を三つ組みあわせた商標が、何度も映しだされた。
『この番組は、三友電機の提供でお送りしました』
天道が持ってきた紙には、広告会社の調べが書かれていた。受像機のある家の六割が、その時間、この番組に合わせていたという。
金は、湯水のように流れこんできた。興行の上がり。テレビの放送料。三友からの、契約金。
赤坂に、二軒目のクラブを開いた。銀座に、三軒目を開いた。キャデラックを、もう一台買った。舶来の背広を、一度に二十着仕立てた。
その月の終わり、天道が、帳面を手に、事務所へ上がってきた。
「若い連中のギャラですが、今月は、全額払えます。三友の契約金が入りましたから」
「払うな」
信格は、仕立てあがったばかりの背広の袖に腕を通しながら言った。天道の手が、帳面の上で止まった。
「半分にしとけ。残りは、来月だ」
「……金は、あるんですよ、力王さん」
「わかってる」
信格は、鏡の前で、ネクタイを締め直した。
「払えねえんじゃねえ。払わねえんだ」
鏡の中で、新しい背広が、照明を浴びて艶やかに光った。
「腹いっぱい食わせた犬は、尻尾を振らなくなる。いつも少しだけ腹を空かせとけ。そうすりゃ、よく吠えるし、よく噛む。リングの上でもな」
天道は、何も言わずに、帳面に書きつけた。それから、一つだけ、付け加えた。
「宇都宮で、首を打たれた若いのがいたでしょう。あれ以来、片耳がよく聞こえないそうで。医者代を少し出してやってほしいと、沖田さんが」
「首が弱えのは、本人の稽古不足だ」
信格は、背広の襟を整えた。
「医者代が欲しけりゃ、てめえで稼げと言っとけ」
同じ年の五月 東京・赤坂 クラブ・リキ二号店
『クラブ・リキ』の二号店の、開店祝いの夜だった。店の中は、政財界の名士と、映画会社の重役と、売れっ子の芸能人とで埋め尽くされていた。
一番奥の席で、信格の隣に、日東映画の二枚目、石黒健次郎が座っていた。日焼けした精悍な顔に、白い歯。スクリーンの中で若者たちが真似をする、いま一番の男だった。
「力王さん、乾杯だ!」
石黒が、ブランデーのグラスを掲げた。二人のグラスが、高い音を立ててぶつかった。石黒は、豪快に酒を呷り、豪快に笑い、女たちの肩を抱いて、また笑った。
信格は、石黒の横顔を、ちらりと見た。
この男は、生まれたときから、日本人だった。湘南の、裕福な家の次男坊だと聞いた。海で泳ぎ、ヨットに乗り、ふらりと映画の世界に入って、あっというまに、日本じゅうの娘たちの憧れになった。何も、隠さずに。何一つ、塗らずに。
信格は、グラスの酒を、一気に呷った。それから、懐から札束を取り出し、帯封を指で引きちぎった。一万円札が、ばらばらと、絨毯の上に散らばった。
「拾え」
ホステスたちが、一瞬、顔を見あわせた。
「拾った分は、くれてやる。ただし、手は使うな」
店の中が、しんと静まった。信格は、ソファにふんぞり返って、女たちを見下ろした。
「口で、拾え」
一人の若いホステスが、引きつった笑顔のまま、膝をついた。もう一人が、続いた。やがて、何人もの女たちが、ドレスの裾を絨毯に引きずりながら、四つん這いになって、床の札に顔を寄せていった。
信格は、それを見下ろして、腹を抱えて笑った。政財界の名士たちも、映画会社の重役たちも、つられて笑った。
石黒だけが、グラスを持ったまま、笑顔を少しだけ強張らせていた。
「さすが……世界一の男は、やることが違う」
その声は、さっきより、少しだけ小さかった。信格は、それに気づいていた。気づいて、もっと笑った。何も塗らずに生きてきたお前に、この景色は、わかるまい。
四つん這いで札をくわえる女たちの背中が、十九年前、空のちゃんこ鍋の底を見つめていた自分の背中と、重なって見えた。信格は、それを、見ないことにした。
「力王山はん」
背後から、柔和な声がした。振り返ると、岡田が、上品な着物姿で立っていた。床に這いつくばったホステスたちを、細い目で、ちらりと見下ろした。何も言わなかった。
その隣に、一人の娘がいた。
まだ、二十歳を少し過ぎたばかりだろうか。小柄で、丸い頬。大きな目が、くるくるとよく動いた。華やかな振袖を着ているのに、どこか、下町の路地で駆け回っていた頃の面影が、そのまま残っているような、人懐っこい顔をしていた。
娘は、床の上の女たちを見て、目を丸くしていた。店の中が、慌てて、取り繕うようにざわめいた。ホステスたちが、急いで立ちあがり、ドレスの裾を直した。
美園ゆり。十二歳で歌いはじめ、十代で日本じゅうを泣かせた、昭和の歌姫だった。
「紹介しまっせ。わしのところで、面倒見さしてもろとる子や」
岡田が、娘の背中を、そっと押した。娘は、少し戸惑った顔のまま、信格の前に進み出て、ぺこりと頭を下げた。
「美園ゆりです。力王山さんの試合、毎週、お母さんと一緒に見てます」
それから、気を取り直したように、ぱっと顔を上げて、にっこりと笑った。
「あたし、お兄ちゃんって、呼んでもいいですか」
信格は、一瞬で、顔を作り替えた。さっきまで女たちを這いつくばらせて笑っていた顔が、穏やかで、包みこむような、兄の顔になった。本郷に教わった、愛想のいい顔だった。
「おう。好きに呼べ」
「やった! お兄ちゃん!」
娘は、子供のように手を叩いた。店の中が、どっと沸いた。
信格は、店の隅に控えていた天道に、目で合図をした。天道は、黙って頷き、裏口から出ていった。五分後、裏口から、カメラを提げた男が入ってきた。松木の新聞社の、写真部の記者だった。
「お兄ちゃんと、写真、撮ろうか」
信格は、娘の肩に、大きな手を回した。フラッシュが、焚かれた。
翌週の週刊誌の表紙には、国民の兄妹、世界王者と歌の女王、と躍るはずだった。
娘は、その夜、信格の隣に座って、オレンジジュースを飲みながら、いろいろな話をした。横浜の魚屋の生まれだということ。子供の頃、焼け跡で歌っていたら、大人たちがお金を投げてくれたこと。初めて舞台に立ったとき、膝が震えて止まらなかったこと。
「お兄ちゃんは、リングに上がるとき、怖くないの?」
娘が、無邪気に訊いた。信格は、答えなかった。
娘は、首をかしげて、それから、くすっと笑った。
「あたしは、いまでも、怖いよ。毎回、毎回。でもね、客席のみんなの顔を見たら、ああ、この人たちのために歌おうって、思えるの」
娘は、ジュースのグラスを、両手で包みこんだ。
「みんな、あたしの歌を、本気で待っててくれるから」
信格は、娘の横顔を見ていた。丸い頬。くるくると動く目。
この娘の歌には、台本がない。誰も、勝ち負けを決めていない。それなのに、日本じゅうが、この娘を愛している。本気で。
信格の胸の奥で、何かが、じりじりと焦げた。桜富士の笑顔を見たときと、同じものだった。政木の背筋を見たときと、同じものだった。本物を見たときにだけ、胸の奥で焦げる、あの黒いものだった。
こいつは、本物だ。だったら、使ってやる。日本じゅうが本気で愛しているこの小娘を、俺の看板の、飾りにしてやる。お兄ちゃん、と呼ばせて、俺の隣で笑わせて、その写真を、日本じゅうにばら撒いてやる。本物の愛を、偽物の英雄の、鍍金に使ってやる。
「お兄ちゃん?」
娘が、信格の顔を覗きこんだ。
「……お前は、偉いな」
信格は、娘の頭を、大きな手で撫でた。
「えへへ」
娘は、照れくさそうに笑った。その笑顔に、嘘は一つもなかった。信格は、それが、たまらなく憎かった。
同じ夜 クラブの裏口
客が引けたあとの裏口で、岡田が、番傘を手にして立っていた。信格が、葉巻をくわえて、その隣に並んだ。
「ええ子やろ」
岡田が、夜の赤坂の通りを眺めながら言った。
「わしの、宝や」
「……ずいぶん、可愛がってるんだな」
「せや」
岡田は、細い目を、珍しく柔らかく緩めた。
「わしは、損得で動く男や。せやけど、あの子だけは、別や。あの子が泣くようなことは、誰にもさせへん」
それから、ちらりと、信格の横顔を見た。
「写真屋を呼んだん、あんたやな」
信格は、黙って紫煙を吐き出した。
「ええよ。あの子の名前で、あんたの客が増えるなら、それも商売や。わしにも、割りは回ってくる」
岡田は、番傘を開いた。それから、細い目で、もう一度だけ、信格の顔を見た。
「せやけどな、力王山はん。さっきの店の床みたいな真似を、あの子の前で、二度とせんといてや」
柔和な声だった。少しも、笑っていなかった。
「あの子の、お兄ちゃんとしてな」
そう言って、岡田は、夜の通りへ歩きだした。
その背中を見送りながら、信格は、葉巻の吸い口を、ぎりぎりと噛みしめていた。あの子の、お兄ちゃんとして。それは、頼みのようでいて、首輪のようにも聞こえた。
同じ夜 東京・上野 秀貞の部屋
信格が赤坂のクラブで札束を撒いていた頃、上野の六畳一間の部屋で、秀貞は、灯りの下で帳面をつけていた。
信格が、毎月、天道を通じて届けさせる金だった。世界王者になってから、その額は、倍になっていた。信格自身は、もう半年、この部屋に顔を出していなかった。金さえ送っておけば、文句はないだろう。天道に封筒を渡すとき、信格は、そう言っていたという。
秀貞は、その金を、一銭も自分のためには使わなかった。料理屋の仕事は、いまも続けていた。部屋の畳も、障子も、九年前に越してきたときのままだった。
帳面の数字を書き終えると、秀貞は、封筒に金を詰めた。宛先は、北の、故郷の村だった。
いまは、国が変わり、手紙一つ届けるのにも、いくつもの人の手を経なければならなかった。在日の団体の事務所に頼み、そこから、海の向こうへ。本当に、村まで届いているのか。娘の手に、渡っているのか。秀貞には、確かめる術がなかった。それでも、毎月、送りつづけた。
封筒の隅に、いつものように、小さな字で書き添えた。
〈元気でいますか。オモニは、元気です〉
窓の外で、上野の夜の汽笛が鳴った。
同じ夜、その封筒の行き先を、銀座の事務所の帳面に、誰かが書き写していることを、秀貞は知らなかった。




