第58話 王座
昭和三十三年(一九五八年)八月 アメリカ・ロサンゼルス オリンピック・オーディトリアム
オリンピック・オーディトリアムの控室は、冷房がよく効いていた。信格は、鏡の前に座っていた。
五年前、この街で、ハリー武田の取り分を掠め取り、酒場の勘定を踏み倒した。テキサスでは、黒人の若者の足元に唾を吐き、メキシコ人の首を壊した。その国に、今夜は、世界王座の挑戦者として戻ってきていた。
鏡の脇に、一枚の紙が置いてあった。松木の事務所から届いた、今夜の筋書きだった。
六十一分、三本勝負。一本目は、ガースト。二本目は、力王山。三本目、四十分過ぎ、力王山の空手チョップの連打で、ガーストがリングの外へ落ち、リングアウト。新王者、力王山。
信格は、その最後の一行を、何度も目でなぞった。新王者。
去年の秋、後楽園の控室で、天道は言った。話は、もうついている、と。アメリカでの興行の分け前と引き換えに、と。
信格は、紙を裏返した。
控室の扉が、小さく叩かれた。入ってきたのは、ガーストだった。タイツの上にガウンを羽織り、穏やかな顔をしていた。
ガーストは、通訳も連れずに、信格の向かいに腰を下ろした。しばらく、何も言わなかった。それから、片言の日本語で、ゆっくりと言った。
「コンヤ、ワタシ、マケル」
信格は、黙っていた。
「カネノ、タメ」
ガーストは、肩をすくめた。悪びれる様子は、どこにもなかった。
「ワタシモ、カネ、ヒツヨウ。カゾク、イル」
それから、ガーストは、信格の目を、まっすぐに見た。
「デモ、オボエテオイテ」
ガーストは、自分の胸を、指で軽く叩いた。
「ベルトハ、ウツル。ツヨサハ、ウツラナイ」
信格の指が、膝の上で、ぎゅっと握りしめられた。
ガーストは、立ちあがり、信格の肩を、大きな手で一度だけ叩いた。それから、控室を出ていった。
同じ夜 オリンピック・オーディトリアム
客席は、一万人で埋まっていた。その三分の一は、日系人だった。日の丸の小旗が、あちこちで揺れていた。六年前、この国で、ジャップと罵られた男が、今夜、世界の王座に挑む。
リングサイドの最前列に、松木と大河原が、並んで座っていた。日本から呼んだ新聞記者とカメラマンが、その後ろに、ずらりと陣取っていた。
日本では、翌日の昼過ぎだった。
松木の局は、国際電話で刻々と届く速報を、ラジオで日本じゅうに流していた。試合のフィルムは、翌朝の飛行機で、東京へ運ばれることになっていた。三友電機の宣伝部長は、東京の本社で、ラジオの前に社員を集めていた。
台本どおりだった。一本目は、ガースト。二本目は、力王山。三本目に入って、四十分を過ぎた。
信格は、ガーストを、ロープ際へ押しこんだ。空手チョップを、胸板に叩きこむ。一発、二発、三発。ガーストが、大きくのけぞった。ロープにもたれ、ゆっくりと、リングの外へ転げ落ちていった。台本どおりの、見事な落ち方だった。
レフェリーが、カウントを取りはじめた。ガーストは、リングの下で、立ちあがろうとしなかった。立ちあがろうとする、ふりだけをしていた。
「……セブン、エイト、ナイン、テン!」
ゴングが、鳴り響いた。一万の観客が、総立ちになった。日系人の客席から、日の丸の波と、泣き声と、万歳の声とが湧きあがった。
「バンザイ! バンザイ! リキオーザン、バンザイ!」
レフェリーが、信格の腕を取り、高く掲げた。
主催者が、リングに上がってきた。両腕に、巨大なベルトを抱えていた。金色の台座に、宝石を散りばめた、まばゆいベルトだった。そのベルトが、信格の腰に、巻かれた。フラッシュが、狂ったように焚かれた。
信格は、リングの真ん中で、両腕を突きあげた。
リングサイドで、松木が、静かに拍手をしていた。大河原は、葉巻をくわえたまま、拍手もせずに、ただ、細い目で信格を見上げていた。
同じ夜 ロサンゼルス ホテルの部屋
日付が変わる頃、信格は、一人で、ホテルの部屋に戻った。
記者たちの取材を受け、主催者の祝宴に顔を出し、日系人会の年寄りたちに、涙ながらに手を握られた。すべてが終わって、ようやく一人になった。
ベッドの上に、ベルトを放り出した。ずしりと、重い音がした。
信格は、ベッドの端に腰を下ろし、そのベルトを、じっと見下ろしていた。
世界王者。日本人で、初めての。いや、朝鮮人で、初めての。そのことを知っているのは、この世界で、ほんの一握りの人間だけだった。
信格は、ベルトを手に取った。金色の台座の真ん中に、ひときわ大きな赤い石が嵌めこまれていた。照明の光にかざすと、石の奥で、光が鈍く濁った。
信格は、親指の爪で、その石の縁を、そっとこすってみた。爪の先に、かすかに、粉のようなものがついた。塗料だった。
信格は、しばらく、自分の爪の先を見つめていた。それから、ほかの石も、一つずつ、照明にかざしてみた。どれも、同じように、奥で光が濁っていた。
硝子だった。
金色の台座も、指で弾くと、軽い音がした。真鍮に、金の鍍金を施しただけのものだった。
ベルトハ、ウツル。ツヨサハ、ウツラナイ。
控室で聞いたガーストの声が、耳の奥で響いた。
信格は、ベルトをベッドの上に投げだし、部屋の隅の棚から、ウイスキーの瓶を掴み取った。栓を、歯で引き抜いた。グラスも使わずに、瓶ごと、喉に流しこんだ。喉が、焼けた。もう一口。さらに、もう一口。瓶の半分が、あっというまに空になった。
アナタ、ホンモノ、ジャナイ。
去年の秋の、後楽園の囁きが、酔いの中で、何度も何度も繰り返された。コンヤ、ワタシ、マケル。カネノ、タメ。
信格は、空になりかけた瓶を、壁に叩きつけた。瓶が砕け、琥珀色の飛沫が、白い壁紙に飛び散った。窓辺のスタンドを、拳で薙ぎ倒した。電球が割れ、部屋の半分が、暗くなった。小さな丸テーブルを持ちあげ、床に叩きつけた。脚が一本、折れて転がった。
鏡台の前に立った。鏡の中に、肩で息をする、汗まみれの大男が映っていた。信格は、拳を振りあげた。
「オヤジっ!」
扉が、乱暴に開け放たれた。沢登の大きな体が、転がりこんできた。その後ろに、天道が続いた。隣の部屋で、物音を聞きつけたのだった。
沢登は、振りあげた信格の腕に、両手でしがみついた。
「オヤジ、オヤジ! 鏡はまずいっすよ、鏡は! 割ったら、七年、縁起が悪いって言いますから!」
信格は、腕を振りほどこうとした。沢登は、離さなかった。百キロを超える怪力の体が、全身で、信格の腕にぶら下がっていた。
「離せ、沢登」
「離しません! 今日は、オヤジが世界一になった日じゃないっすか!」
沢登は、腕にしがみついたまま、顔を真っ赤にして叫んだ。
「世界一の男が、ホテルの鏡なんか殴って、手ぇ怪我したら、日本じゅうが泣きますよ!」
信格の腕から、少しずつ、力が抜けていった。
沢登は、ようやく腕を離すと、床の上に散らばったガラスの破片を見回して、困ったように頭を掻いた。それから、両腕を広げて、腋をパカン、パカンと鳴らした。
「いやあ、派手にやりましたねえ、オヤジ」
その間の抜けた音が、荒れ果てた部屋の中に、妙に響いた。信格は、肩で息をしたまま、沢登を見下ろしていた。
天道は、部屋の入口に立ったまま、黙って中を見回していた。砕けた瓶。折れたテーブルの脚。倒れたスタンド。そして、ベッドの上に放りだされた、金色のベルト。
天道の目が、そのベルトの上で、一瞬だけ止まった。真ん中の赤い石の縁に、爪でこすった跡が、かすかに白く残っていた。
天道は、何も言わなかった。いつもの人懐っこい笑みを浮かべて、部屋の中へ入ってきた。
「力王さん、ホテルのほうには、わたしから話をつけておきます」
天道は、床に散らばったガラスの破片を、靴の先で脇へ寄せながら言った。
「祝いの酒が過ぎて、つい、と。壊れた物の代金は、倍で払っておきますよ。新聞屋に漏れないように、支配人にも、少し握らせておきます」
「……ああ」
「明日の朝は、日系人会の朝食会です。九時に、お迎えにあがります」
天道は、そう言って、軽く一礼した。扉の手前で、天道は、一度だけ振り返った。ベッドの上のベルトを、もう一度だけ、ちらりと見た。それから、にっこりと笑って、扉を閉めた。廊下を遠ざかっていく足音が、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
沢登は、まだ部屋に残っていた。折れたテーブルの脚を拾いあげ、しげしげと眺めていた。
「オヤジ、これ、俺がくっつけときますよ。相撲の頃、部屋の卓袱台、よく直してたんで」
信格は、ベッドの端に、どさりと腰を下ろした。
沢登は、テーブルの脚を元の場所にあてがいながら、鼻歌を歌っていた。何も、訊かなかった。なぜ暴れたのかも。なぜ、世界一になった夜に、一人で酒を浴びていたのかも。
信格は、その大きな背中を、黙って見ていた。
「沢登」
「はい、オヤジ」
「もう、いい。部屋に戻れ」
沢登は、テーブルの脚を壁に立てかけると、にかっと笑った。
「おやすみなさい、世界一のオヤジ」
扉が、閉まった。部屋の中が、しんと静まり返った。
信格は、ベッドの端に座ったまま、膝の上のベルトを見下ろしていた。硝子の赤い石が、薄暗い部屋の中で、鈍く光っていた。真鍮の台座に、割れた電球の残りの灯りが、安っぽく映りこんでいた。
信格は、その石を、指でなぞった。
書類の上の、長崎の対馬光夫。作り物の、大和魂。台本の上の、空手チョップ。騙し討ちで取った、日本一。金で買った、世界一。どれも、上っ面だけ金色に塗った、中身のない真鍮だった。
「……俺には」
信格は、低く呟いた。
「鍍金が、お似合いか」
ふっ、と、乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。笑ったはずだった。けれど、その笑いは、途中で、ひどく歪んだ。
信格は、ベルトを両手で掴んだ。
「……クソッ」
ベルトを、床に叩きつけた。真鍮の台座が、絨毯の上で、軽い、虚しい音を立てて跳ねた。本物の金なら、こんな音はしない。その音が、また、信格の胸を抉った。
「クソッ……クソォッ……!」
信格は、ベッドの上に、拳を振り下ろした。一発、二発、三発。柔らかいマットレスが、拳を、何の手応えもなく呑みこんでいった。殴っても、殴っても、何も壊れなかった。
信格は、ベッドの端に両手をついたまま、肩で荒い息をついていた。床の上で、硝子の赤い石が、薄暗い灯りの中で、じっとこちらを見上げていた。
やがて、信格は、ゆっくりと立ちあがった。床のベルトを拾いあげた。肩に担ぎ、ひびの入っていない鏡の前に立った。
鏡の中に、世界王者が映っていた。
信格は、鏡の中の男に向かって、白い歯を見せて笑ってみせた。本郷に教わった、愛想のいい顔だった。明日の朝、日系人会の年寄りたちに見せる顔。明後日、羽田で群衆に見せる顔。
鏡の中の男も、同じように笑った。その目だけが、赤く濡れていた。
昭和三十三年(一九五八年)九月 東京・羽田
タラップの上に、肩にベルトを担いだ大男が現れた瞬間、滑走路が揺れた。
五年前の凱旋のときの、倍の人だかりだった。日の丸の小旗が、波のように揺れていた。ブラスバンドが、行進曲を鳴らしていた。滑走路の脇の金網には、人々がしがみつき、名前を叫んでいた。
「世界一! 世界一の力王山!」
信格は、タラップの途中で足を止め、ベルトを両手で高々と掲げた。真鍮の台座が、九月の陽射しを浴びて、まばゆく光った。硝子の石が、本物の宝石のように、きらきらと輝いた。
群衆が、地鳴りのような歓声を上げた。
「日本人の誇りだ!」
「大和魂が、世界を制した!」
信格は、ベルトを掲げたまま、笑顔で手を振りつづけた。サングラスの奥の目は、群衆の頭の上の、どこか遠くを見ていた。
翌日の新聞の一面には、こう躍っていた。
『力王山、世界王者に 日本人の手で、ついに世界の頂点へ』
記事の中で、力王山は、記者の問いに、こう答えていた。
『誰の力でもない。この拳一つで、取ったベルトだ。死にもの狂いの稽古と、日本人の魂が、世界の壁を打ち破ったのだ』
信格は、その記事を、目黒の家の居間で読んだ。何度も、読み返した。読み返すうちに、それが本当のことのように思えてきた。誰の力でもない。この拳一つで、取った。
控室の紙のことも、ガーストの言葉のことも、爪の先についた塗料のことも、ホテルの夜のことも、少しずつ、遠くなっていった。
信格は、新聞を畳み、ベルトを居間の床の間に飾った。掛け軸の前に、硝子の宝石が、静かに光っていた。
その夜、郵便受けに、航空便が届いていた。ブラジルの消印だった。太い、まっすぐな字の宛名。信格は、それを手に取った。封を切った。いつもと同じ、三行だった。
『世界王者になったそうだな。おめでとう。
帰ったら、もう一度やらせろ。
逃げるな。政木』
信格は、便箋を、長いあいだ見つめていた。それから、葉巻の火を、その端に近づけた。
床の間のベルトの硝子の石に、燃える紙の炎が、赤く映っていた。




