第57話 看破
昭和三十二年(一九五七年)十月 東京・羽田
タラップを降りてきたのは、背の高い、金髪の男だった。
体の大きさだけなら、これまで呼んできた外国人の巨漢たちのほうが、ずっと上だった。けれど、この男は、どこか違っていた。仕立てのいい灰色の背広を着こなし、群がる記者たちのフラッシュにも眉一つ動かさず、ゆっくりと、滑走路の上を歩いてくる。
フランク・ガースト。アメリカで、何年も世界の王座を守りつづけてきた男だった。
タラップの下で、信格は、腕を組んで待っていた。カメラマンが、睨みあいの写真を欲しがった。信格は、いつものように眉間に皺を寄せ、ガーストを見上げてみせた。
ガーストは、睨み返さなかった。ただ、静かに手を差し出しただけだった。
信格は、その手を握った。
硬くはなかった。政木の手のように、指の骨が軋むような力もなかった。むしろ、柔らかかった。けれど、握り返した瞬間、信格は、自分の手の重さを、すべて量られたような気がした。
ガーストは、信格の目を、少しのあいだ見ていた。それから、何も言わずに手を離し、記者たちのほうへ歩いていった。
その背中を見送りながら、信格は、天道の言葉を思い出していた。
政木さんと、メキシコで、三十分以上やりあって、決着がつかなかった男ですよ。
昭和三十二年(一九五七年)十月 東京・後楽園球場
野球場のグラウンドの真ん中に、リングが組まれていた。
内野の客席も、外野の客席も、三万を超える人で埋まっていた。夜空に向かって、照明塔の白い光が、何本も突き立っている。松木の局のカメラが、リングを取り囲んでいた。日本じゅうの茶の間で、受像機の前に、家族が集まっているはずだった。
台本は、六十一分、三本勝負。一本目は、ガースト。二本目は、力王山。三本目は、六十一分を戦い抜いて、時間切れの引き分け。来年の、本当の決着につなげるための、引き分けだった。
ゴングが、鳴った。
信格は、いつものように前に出て、ガーストの胸板に空手チョップを叩きこんだ。乾いた音が、球場の夜空に響いた。三万の観客が、どっと沸いた。
ガーストは、それを受けた。顔をしかめ、大きくのけぞってみせた。
けれど、次に組みあったとき、信格は、自分の体が、思うように動かなくなっているのに気づいた。
ガーストの腕が、信格の首と腕に、するりと絡みついていた。力をこめているようには見えなかった。それなのに、どこへ逃げようとしても、ガーストの体が、先にそこにあった。
政木に襟を取られた、あの道場の三秒間に、似ていた。いや、違う。政木は、自分を投げられると、目で言っていた。この男は、何も言っていなかった。ただ、ずっと、信格の体を、自分の掌の上で転がしていた。客の目には、互角の攻防にしか見えないように。
十分が過ぎ、二十分が過ぎた。信格の額から、汗が滝のように流れ落ちていた。ガーストは、ほとんど息も乱していなかった。
三十分を過ぎた頃、二人は、リングの中央で、もう一度、組みあった。
ガーストの顔が、信格の耳元に寄った。客席からは、王者が挑戦者の首を締めあげているように見えただろう。
ガーストは、静かに、片言の日本語で、囁いた。
「アナタ、ホンモノ、ジャナイ」
信格の全身が、凍りついた。
ガーストは、それ以上、何も言わなかった。何事もなかったように、信格の首から腕をほどき、リングの中央に戻って、構えを取った。
信格は、その場に立ちつくしていた。三万の観客の歓声が、急に、ひどく遠くなった。
誰に聞いた。誰が、こいつに教えた。
メキシコの格闘場で、三十分以上、台本なしで組みあった男の顔が、脳裏に浮かんだ。太い首。きれいな耳。静かな水のような目。
逃げるな。
信格は、我に返った。ガーストが、目の前で、何事もなかったように手招きしていた。
それから三十分、信格は、台本どおりに戦った。台本どおりに一本を取られ、台本どおりに一本を取り返し、台本どおりに、最後の三十分を、組みあったまま過ごした。
六十一分、時間切れ。引き分け。
レフェリーの沖田が、二人の腕を、同時に高く掲げた。三万の観客が、総立ちで拍手を送った。日本の英雄が、世界の王者と、一歩も引かずに戦い抜いた。翌朝の新聞は、そう書くはずだった。
ガーストは、腕を掲げられたまま、信格の顔を見なかった。ただ、客席に向かって、静かに一礼しただけだった。
同じ夜 後楽園球場の控室
控室のベンチに、信格は、タオルを頭からかぶったまま、座りこんでいた。汗が、まだ止まらなかった。膝の上の手が、かすかに震えていた。
扉が開き、天道が、帳面を手に入ってきた。
「お疲れさまでした、力王さん。名勝負でしたよ。三友の宣伝部長も、上機嫌でした」
信格は、答えなかった。
天道は、扉を閉め、声を落とした。
「来年の夏、ロサンゼルスで、もう一度やります。そのときは、ベルトが動きます」
信格は、タオルの下から、ゆっくりと顔を上げた。
「話は、もうついています。アメリカでの興行の分け前と引き換えに。松木さんと大河原さんが、向こうのプロモーターと、手を打ちました」
「……あいつは、承知してるのか」
信格の声は、掠れていた。
「ガーストは。あいつ自身は、承知してるのか」
天道は、にっこりと笑った。
「金で動かない人間なんて、そうはいませんよ、力王さん」
天道は、軽く一礼して、控室を出ていった。
信格は、また、タオルを頭からかぶった。
アナタ、ホンモノ、ジャナイ。
あの男は、来年、金のために、自分に負ける。それなのに、あの男だけが、知っている。自分が、何者なのかを。
控室の窓の外で、球場の照明塔の光が、一つ、また一つと、落ちていった。




