第56話 冷却
昭和三十二年(一九五七年)二月 栃木・宇都宮
体育館の客席に、空いた椅子が並んでいた。
数える気にもならなかった。前から五列目までは、埋まっている。その後ろは、ぽつり、ぽつりと、外套の背中が見えるだけだった。二階席には、誰もいない。冷たい隙間風が、空いた椅子のあいだを吹き抜けていった。
リングの上で、信格は、外国人の巨漢の胸板に、空手チョップを叩きこんだ。乾いた音が、がらんとした体育館の天井に、虚しく跳ね返った。歓声は、まばらだった。
最前列の子供が、退屈そうに、母親の袖を引っぱっていた。
「ねえ、もう帰ろうよ」
その声が、リングの上まで、はっきりと聞こえた。
巌流島の熱狂から、二年あまりが経っていた。あの夜、日本じゅうが街頭テレビの前に群がった。受像機は飛ぶように売れ、どこの町の体育館も、立ち見の客で溢れた。
けれど、熱は、冷めるものだった。
同じ顔ぶれの外国人を呼び、同じ筋書きで、同じように空手チョップで勝つ。それを、二年、繰り返してきた。政木を倒した男には、もう、倒すべき相手がいなかった。
いや、一人だけ、いた。海の向こうから、ひと月に一度、三行の手紙を送ってくる男が。その男とだけは、決して、リングで向きあうことができなかった。
同じ夜 宇都宮の宿
控室代わりの宿の大広間で、若い衆たちが、黙って床を見つめていた。ギャラは、また三か月、滞っていた。
天道が、帳面を手に、信格の前に立った。
「今夜の上がりで宿代を払ったら、残りは、これだけです」
天道が差し出した帳面の数字を、信格は、一瞥した。それから、帳面を、天道の手から払い落とした。
「客が入らねえのは、誰のせいだ」
大広間が、静まり返った。
信格は、立ちあがった。並んで正座している若い衆たちを、一人ずつ、見下ろしていった。
「お前らの試合が、ぬるいからだ。お前らの面が、汚ねえからだ。客は、金を払って、お前らの不景気な面を見に来てるんじゃねえ」
誰も、顔を上げなかった。
信格は、一番端に座っていた、入門して一年の若者の前で、足を止めた。田舎から出てきたばかりの、頬の赤い若者だった。今夜の前座で、受身を一つしくじっていた。
「お前だ」
若者が、震えながら顔を上げた。信格の手刀が、若者の首筋に振り下ろされた。一発、二発、三発。若者は、畳の上に崩れ落ちた。ほかの若い衆たちは、誰も動かなかった。
信格は、肩で息をしながら、倒れた若者を見下ろしていた。
殴りたかったのは、こいつではなかった。空いた椅子だった。もう帰ろうよ、と言った子供の声だった。海の向こうの、三行の手紙だった。けれど、そのどれにも、拳は届かない。だから、届くところにいる者を殴った。
九年前、親方に、朝鮮人の横綱は無理だ、と言われた夜にも、同じことをした。信格は、それを、思い出さなかった。思い出さないことに、決めていた。
同じ夜 宿の廊下
大広間を出た廊下の暗がりに、沖田が立っていた。レフェリーの白いシャツの上に、古い外套を羽織っていた。
「……聞こえてたよ」
沖田は、静かに言った。信格は、足を止めずに、その横を通り過ぎようとした。
「力王山」
沖田の声が、背中を追いかけてきた。
「客が来ないのは、あの子のせいじゃないよ」
信格の足が、止まった。
「あんたが、もう、誰とも本気でやってないからさ」
廊下が、しんと静まり返った。
「ハワイで、あんたは、砂袋の布が裂けるまで、手刀を打ちこんでた。アメリカでも、ジャップと罵られながら、相手の目を睨み返してた。あの頃のあんたには、何か、本物があった」
沖田は、信格の大きな背中を見上げていた。
「いまのあんたは、怖がってる。ずっと、何かを怖がってる。客は、それを見抜くんだよ」
信格は、振り返らなかった。
「……じいさん」
低い、乾いた声だった。
「あんたは、レフェリーだ。リングの上のことだけ、見てりゃいい」
沖田は、何も答えなかった。信格は、そのまま、廊下の暗がりの奥へ歩いていった。
沖田は、小さく息をついて、大広間のほうへ戻っていった。畳の上で倒れたままの若者の様子を、見に行ったのだろう。
昭和三十二年(一九五七年)三月 東京・銀座 ナイトクラブ
ナイトクラブの奥の席で、信格は、新しく取り寄せたばかりの、舶来の時計を眺めていた。
金無垢の、重い時計だった。若い衆たちのギャラを、三か月分、払えるだけの値段がした。隣で、沢登が、ブランデーの瓶をラッパ飲みしていた。
「オヤジ、いい時計っすねえ」
「ああ」
信格は、時計を腕に巻き、照明の光にかざしてみせた。金が、鈍く光った。
「客は入らねえ。若いのには払えねえ。それでも、日本一の男が、安物の時計をしてるわけにはいかねえだろう」
「さすが、オヤジだ」
沢登は、屈託なく笑った。それから、少しだけ声を落とした。
「あの、オヤジ。俺、今月、ちょっと物入りで……」
「また、競艇か」
沢登は、照れくさそうに頭を掻いた。
信格は、黙って、懐から札束を取り出し、沢登の前に放った。若い衆たちに払うはずの、宇都宮の上がりの一部だった。
「オヤジ! 一生、ついていきます!」
沢登が、札束を握りしめて、子供のようにはしゃいだ。
信格は、葉巻に火をつけた。この馬鹿にだけは、金をやれる。この馬鹿だけは、俺を怖がりもしないし、俺の何かを見抜こうともしない。ただ、笑っている。
信格は、沢登の笑顔を眺めながら、ふっ、と口元を緩めた。
その夜遅く、銀座の裏通りの公衆電話のボックスに、また、大きな体が押しこまれていた。
同じ頃 東京・有楽町 松木の新聞社の社長室
松木の新聞社の、最上階の社長室だった。窓際の応接椅子に、大河原と松木が、向かいあって座っていた。
二人のあいだのテーブルに、一枚の紙が置かれていた。三友電機の宣伝部からの、報告書だった。
「プロレス中継の数字が、この半年で、半分に落ちています」
松木が、眼鏡の位置を指で直しながら言った。
「三友の宣伝部長からも、来年の契約は考え直したい、と」
「客は、飽きたか」
「ええ。同じ外人を、同じ手刀で倒すだけの筋書きでは、もう誰も驚きません」
大河原は、葉巻をくゆらせながら、窓の外を見下ろしていた。
「それに、本人もだ」
「本人、ですか」
「天道から上がってくる話を聞いてりゃ、わかる。夜な夜な、酒と女に溺れて、若いのを殴って、若いのに払う金もねえくせに、舶来の金時計を買ってる。リングの上でも、もう本気でやってねえ」
大河原は、紫煙を吐き出した。
「あいつは、怖がってるんだ。政木からも、あの空手屋からも、逃げ回ってる。逃げてる英雄に、客は金を払わねえ」
松木は、しばらく黙っていた。それから、穏やかに言った。
「では、新しい台本を書きましょう」
「どんな台本だ」
「日本の中に、もう倒す相手がいないのなら」
松木は、手帳を開き、一つの名前を書きつけて、大河原の前に滑らせた。アメリカの、世界王者の名前だった。
「世界を、倒させるんです」
大河原の細い目が、手帳の上の名前の上で、止まった。
「……そいつは、政木と、メキシコでやった男じゃねえか」
「ええ」
松木は、静かに頷いた。
「本物と、引き分けた男です。だからこそ、看板になる」
大河原は、しばらく手帳を見下ろしていた。それから、くつくつと、喉の奥で笑いだした。
「本物と引き分けた王者に、台本の上で、偽物を勝たせる、か」
大河原は、葉巻を灰皿に置いた。
「あんたも、なかなか、いい台本を書くじゃねえか」
窓の外で、有楽町の夜のネオンが、冷たく瞬いていた。




