第55話 挑発
昭和三十一年(一九五六年)三月 東京・銀座 クラブ・ミモザ
その夜、信格は、銀座の『クラブ・ミモザ』の奥の席にいた。
両脇に女を侍らせ、向かいには、映画会社の重役と、売り出し中の二枚目俳優が座っていた。テーブルの上には、ブランデーの瓶が三本、空になって並んでいる。少し離れた席で、沢登が、ホステスたちに囲まれて、腋をパカン、パカンと鳴らしていた。女たちが、手を叩いて笑っている。
「力王山さん、例の柔道屋の件は、どうなりました」
重役が、葉巻をくわえながら、愛想よく訊いた。
「メキシコあたりで、まだ吠えてるとか」
「知らねえな」
信格は、グラスを呷った。
「負け犬が海の向こうで何を吠えようが、日本までは聞こえねえよ」
俳優が、大げさに笑った。重役も、女たちも、つられて笑った。信格も、笑った。
背広の内ポケットの奥では、今朝届いたばかりの航空便が、封を切られたまま、まだ燃やされずに入っていた。
扉が開いたのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。ボーイが、慌てて駆け寄った。
「お客様、本日は、ご予約の方で……」
「力王山に、用がある」
低い、太い声だった。店の空気が、すっと冷えた。
入口に、一人の男が立っていた。
背は、さほど高くない。けれど、着古した背広の肩が、岩のように盛りあがっている。短く刈りこんだ頭。四角い顔。そして、だらりと下げた両手の拳の骨が、瘤のように固まっていた。
大峰だった。一年あまり、新聞に挑戦状を送りつづけてきた男だった。その一通も、記事にはならなかった。
大峰は、ボーイの肩を軽く押しのけ、店の奥へ、まっすぐに歩いてきた。
沢登が、女たちの輪の中から、のっそりと立ちあがった。
「おっと。オヤジに、何の用です」
大きな体が、大峰の前に立ちふさがった。
大峰は、沢登を見上げた。それから、自分の右の拳を、ゆっくりと持ちあげた。沢登の顔の前ではなかった。すぐ脇の、大理石のテーブルの角の上だった。
拳が、落ちた。鈍い音がした。厚い大理石の角が、ぱきりと欠けて、絨毯の上に転がった。
店の中が、しんと静まり返った。
沢登は、欠けた大理石と、大峰の拳とを、交互に見下ろした。それから、困ったように頭を掻いて、一歩、脇へ退いた。
「……いや、こりゃ、俺の出る幕じゃねえや」
大峰は、信格の席の前に立った。重役も、俳優も、女たちも、いつのまにか席を立って、壁際に逃げていた。
信格だけが、ソファに座ったまま、葉巻をくわえていた。くわえたまま、火のついていない先端を、じっと見下ろしていた。
「力王山」
大峰が、言った。
「一年、待った。新聞にも、道場にも、挑戦状を送った。一通も、返事はなかった」
「……素人の挑戦は、受けねえ」
信格は、顔を上げずに言った。
「プロレスは、プロの世界だ」
「プロの世界、か」
大峰の口元が、わずかに歪んだ。
「台本を渡して、相手が信じて胸を開いたところを、首を横から叩く。それが、プロの世界か」
信格の指が、葉巻の上で止まった。
「俺は、あの夜、最前列にいた」
大峰の声は、低く、静かだった。
「お前の手が、どこに落ちたか、全部見た。耳の下の、脈の通るところだ。あれは、偶然じゃない。最初から、そこを狙ってた」
店の中は、物音一つしなかった。
「政木先生は、約束を守った。お前は、破った。それだけのことだ」
大峰は、一歩、前に出た。
「台本も、念書も、いらん。リングでも、道場でも、この店の床でもいい。いま、ここで、俺とやれ」
信格は、ゆっくりと顔を上げた。目の前に、四角い顔があった。太い眉。据わった目。初めて、正面から、その目を見た。
ぞくりとした。
政木の目とは、違っていた。政木の目は、静かな水だった。底の見えない、深い水だった。この男の目は、違う。燃えている。腹の底から、ずっと、何かに怒りつづけてきた者の目だった。雨の夜の稽古場で、柱を打ちつづけていた頃の、自分の目と、同じだった。
大峰は、さらに身をかがめた。信格の耳元に、顔を寄せた。酒と、汗と、どこか懐かしい、にんにくの匂いがした。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、囁いた。
〈……故郷は、どこだ〉
朝鮮の言葉だった。
信格の全身の血が、一瞬で凍りついた。
体が、勝手に動きかけた。答えかけた。咸鏡道の、北の、海の近くの村だ、と。喉の奥まで、母の言葉がせりあがってきた。
十六年。十六年かけて、腹の底に沈めてきた言葉だった。
信格は、奥歯を噛みしめた。せりあがってきたものを、力ずくで、喉の奥へ押し戻した。そして、日本語で、言った。
「……何を、言ってるのか、わからねえな」
声が、わずかに、掠れていた。
大峰は、ゆっくりと身を起こした。信格の顔を、じっと見下ろしていた。答えを、聞いたのではなかった。答えかけて飲みこんだ、その一瞬の顔を、見たのだった。
大峰の目の中で燃えていたものが、すっと、色を変えた。怒りでは、なくなっていた。もっと苦く、もっと悲しいものだった。
「……そうか」
大峰は、低く呟いた。
「お前も、か」
信格は、何も答えなかった。
大峰は、しばらく、黙って信格を見ていた。それから、背を向けた。
「逃げるなよ、力王山」
政木と、同じ言葉だった。
「俺は、待ってる」
大峰は、来たときと同じように、まっすぐに店を出ていった。扉が、閉まった。
店の中に、少しずつ、音が戻ってきた。女たちが、恐る恐る席に戻ってくる。重役が、引きつった笑顔で、新しいブランデーを注文した。俳優が、いやあ、空手屋ってのは物騒ですなあ、と、大げさに肩をすくめてみせた。
「力王山さん、相手にしなくて正解ですよ。ああいう手合いは、名前を売りたいだけなんですから」
「そうですとも。日本一の男が、町の道場主ごときと、まともにやりあう必要はない」
信格は、何も答えなかった。新しく注がれたブランデーにも、手を伸ばさなかった。ただ、火のついていない葉巻を、指のあいだで、ゆっくりと転がしていた。
沢登が、絨毯の上の欠けた大理石を拾いあげて、しげしげと眺めていた。
「オヤジ、あれ、本物ですよ」
信格は、答えなかった。
同じ夜 東京・上野 秀貞の部屋
秀貞の部屋の扉を開けたのは、夜中の二時を過ぎた頃だった。秀貞は、眠らずに繕い物をしていた。
信格は、何も言わずに上がりこみ、六畳間の真ん中に座りこんだ。しばらく、黙っていた。秀貞は、湯を沸かし、茶を淹れて、その前に置いた。
信格は、湯呑みを両手で包みこんだ。それから、ぽつりと、言った。
〈……今夜、俺の故郷を訊いてきた男がいた〉
朝鮮の言葉だった。秀貞の手が、止まった。
〈俺たちの言葉でな〉
〈……なんて、答えたの〉
信格は、長いあいだ黙っていた。湯呑みの中の茶が、少しずつ冷えていった。
〈何も〉
信格は、湯呑みを見下ろしたまま言った。
〈何を言ってるのか、わからねえ、と言った〉
秀貞は、黙って、信格の横顔を見ていた。
〈答えそうに、なった〉
信格の声が、かすかに震えていた。
〈咸鏡道の、北の、海の近くの村だ、と。喉のところまで、出かかった〉
秀貞は、何も言わずに、信格の背中に、そっと手を置いた。
十二年前、新京の娼館の奥の部屋で、この人は、初めて会った自分に、その村のことを口にした。それから十二年。この人が、その村のことを、自分以外の誰かに言いかけたのは、今夜が初めてだった。
〈言えばよかったのに〉
秀貞は、小さく言った。
信格は、答えなかった。その背中が、大きな体に似合わず、ひどく小さく見えた。
窓の外で、遠くの汽笛が、一度だけ鳴った。




