第54話 放浪
昭和三十年(一九五五年)三月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の門前
道場の門の前に、政木が立っていた。首には、まだ晒しが巻かれていた。後ろに、佐伯が、心配そうに付き従っていた。
門の内側から、天道が、いつもの人懐っこい笑みを浮かべて出てきた。
「これは、政木さん。お体のほうは、もうよろしいんで」
「力王山を、出せ」
政木の声は、低く、かすれていた。
「春に、再戦を組むと約束したはずだ。松木さんの口から、確かに聞いた。その春が、来た」
天道は、困ったように首をかしげてみせた。
「さあ、そういうお話は、わたしは何も……」
政木は、天道の肩越しに、道場の二階の窓を見上げた。窓の向こうで、カーテンが、わずかに揺れた。
「力王山っ!」
政木の声が、浪花町の路地に響き渡った。道場の中で稽古をしていた若い衆たちの声が、ぴたりと止んだ。
「もう一度、やらせろ! 今度は、台本も、念書もいらん! 組んで、投げて、決着をつける! 逃げるな!」
窓の向こうのカーテンは、それきり、動かなかった。
政木は、長いあいだ、その窓を見上げていた。やがて、路地の角から、背広の男たちが三人、静かに歩いてきた。大河原の事務所の若い衆だった。
「政木さん。ここは、お引き取り願えますか」
男の一人が、穏やかに言った。その手が、政木の腕に、そっと添えられた。政木は、その手を振り払わなかった。もう一度だけ、二階の窓を見上げた。それから、背を向けて、ゆっくりと路地を歩きだした。
少し速く歩くと、目の前が白く霞んだ。佐伯が、慌てて、その腕を支えた。
同じ時刻 大和プロレス道場の二階
カーテンの陰で、信格は、窓枠に背中を押しつけたまま、立っていた。路地に響いた政木の声が、まだ耳の奥で鳴っていた。逃げるな。
葉巻をくわえようとして、うまく火がつかなかった。三本目のマッチで、ようやく火がついた。
窓の下の路地を、晒しを巻いた男が、弟子に支えられて、ゆっくりと遠ざかっていく。あの男は、まだ、首もまともに回らない。それなのに、もう一度やらせろ、と言った。台本なしで、と。
信格は、カーテンの隙間から、その背中が角を曲がって消えるまで、一度も、窓を開けなかった。
同じ日 夕刻 東京・小石川 政木のアパート
政木は、六畳一間の窓辺に座って、外の路地を眺めていた。右の耳は、あの夜に破れた鼓膜が塞がらず、ほとんど聞こえなくなっていた。
窓の外で、近所の子供たちが、プロレスごっこをしていた。一番体の大きい子が、空手チョップの真似をして、小さな子の首を叩いている。叩かれた子が、大げさに地面に転がった。
「やーい、政木だ、政木だ!」
子供たちの笑い声が、路地に響いた。政木は、窓を、そっと閉めた。
この三か月で、扉が一つずつ、閉じられていった。
講道館は、政木の名前を、すべての名簿から消した。かつての仲間の柔道家たちは、道で会っても目を逸らした。大和プロレスの道場には、今日、門の前で追い返された。ほかの興行師たちも、大河原と松木の顔色を窺って、誰一人、政木に声をかけようとしなかった。新聞社に挑戦状を持ちこんでも、記事は、一行も載らなかった。
台本を守った男が、台本を破った男の世界から、締めだされていた。
布団の中で、文枝が、浅い咳をしていた。枕元の薬の包みは、残り少なくなっていた。牛田先生が置いていった封筒の金も、もう底をつきかけていた。
その夜、佐伯が、一枚の手紙を持って駆けこんできた。
「政木さん! メキシコから、話が来ました!」
差出人は、メキシコの興行師だった。ハワイで知りあった日系人の伝手で、届いたものだった。
『柔道の鬼、政木。メキシコの格闘場へ、来たれ。一試合ごとに、ドルで払う』
政木は、手紙を長いあいだ見つめていた。それから、布団の中の文枝の寝顔に、目を落とした。
「……行く」
「政木さん、その体で」
「食えるうちは、食わねばならん」
政木は、手紙を畳んで、懐にしまった。
「向こうなら、日本で手に入らん薬も、ドルで買える」
それから、窓の外の暗い路地を見つめて、低く言った。
「それに、この国にいても、あの男は、二度と俺の前に出てこない」
昭和三十年(一九五五年)秋から三十一年 メキシコ
最初は、メキシコ市の場末の格闘場だった。
裸電球の下に、ロープの緩んだリングが一つ。客席には、葉巻の煙と、テキーラの匂いが立ちこめていた。
政木は、覆面のレスラーたちを相手に、来る夜も来る夜も、リングに上がった。台本は、なかった。誰も、台本など渡してこなかった。組めば、投げる。投げれば、押さえこむ。それだけだった。
最初の夜、地味な技に、客は欠伸をした。けれど、どんな大男を相手にしても、政木が負けることは、一度もなかった。
ひと月が過ぎる頃には、客席から、片言の日本語の掛け声が飛ぶようになった。
「オニ! オニ・マサキ!」
半年が過ぎる頃には、政木の名前は、メキシコ市で一番大きな闘技場の、メインイベントに刷られていた。一万を超える観客が、日本から来た本物の格闘家を見ようと、詰めかけた。
ある夜、政木は、アメリカから来た世界王者と、リングの上で向きあった。
金髪の、彫りの深い大男だった。世界じゅうのリングで、何年も王座を守りつづけてきた男だった。台本は、なかった。
二人は、組みあった。三十分を超える、地味で、重い攻防だった。互いに相手の関節を取りあい、取られまいとこらえ、汗と息だけが、リングの上に満ちていった。
決着は、つかなかった。
試合が終わったあと、世界王者は、政木の手を握り、片言の日本語で言った。
「アナタ、ホンモノ」
政木は、黙って、その手を握り返した。
試合のあと、政木は、安宿の固い寝台の上で、汗も拭わずに、便箋に向かった。
『文枝へ。今週の分を送る。こちらの医者に聞いて、新しい薬も手に入れた。毎日、忘れずに飲むように』
封筒に、ドル札と、白い紙に包んだ薬の小瓶を入れた。航空便の切手を、何枚も貼った。
それから、もう一枚、便箋を取り出した。宛名は、東京・日本橋浪花町、大和プロレスリング協会、力王山。
『帰ったら、もう一度やらせろ。台本なしで。逃げるな。政木』
同じ文面の手紙を、政木は、ひと月に一度、欠かさず書きつづけた。
窓の外では、見知らぬ国の夜空に、見知らぬ星が瞬いていた。
同じ頃 東京・目黒
誰もいない家の居間で、信格は、一通の航空便を手にしていた。メキシコの消印。太い、まっすぐな字の宛名。天道が、道場に届いた郵便物の中から、黙ってこれだけを抜き出して届けてきたのだった。
秀貞の手紙は、ハワイでもアメリカでも、一度も封を切らなかった。けれど、この手紙だけは、毎回、封を切った。切らずには、いられなかった。
『帰ったら、もう一度やらせろ。台本なしで。逃げるな』
たった三行の文面を、信格は、何度も読み返した。それから、葉巻の火を、便箋の端に近づけた。
紙が、ゆっくりと焦げていった。逃げるな、という字が、最後に炎に呑まれた。灰皿の上で、黒い灰が崩れた。
それでも、その三行は、灰になったあとも、頭の中から消えなかった。
その夜も、信格は、夢を見た。
羽田の滑走路で、政木と握手を交わしている。指の骨が軋む。手を引こうとしても、離れない。政木の目が、静かに、自分の目の奥を覗きこんでいる。
逃げるな。
信格は、汗まみれで目を覚ました。
同じ頃 東京・小石川
アパートの扉の前に、ときどき、風呂敷包みが置かれるようになった。中身は決まって、米と、泥のついた野菜と、干した魚だった。差出人の名前は、どこにもなかった。
佐伯が、一度だけ、それを置いていく人影を見たことがある。
冬の朝の、まだ暗い時刻だった。小柄な老人が、軋む階段を上ってきて、扉の前に包みを置き、一度だけ扉に向かって頭を下げて、帰っていった。
佐伯がそのことを文枝に話すと、文枝は、布団の中で、しばらく黙っていた。それから、小さく言った。
「……先生、ですね」
次の朝から、文枝は、扉の前に、小さな紙を一枚置いておくようになった。
『いつも、ありがとうございます』
翌朝、紙はなくなっていた。代わりに、風呂敷包みが置かれていた。
二人は、一度も顔を合わせなかった。ただ、扉一枚を挟んで、米と、紙切れだけが、行き来していた。
昭和三十二年(一九五七年)春 ブラジル・サンパウロ
メキシコから南米へ。南米の国々を、政木は、二年近く流れ歩いた。
サンパウロの日系人街の、古い会館の講堂だった。畳を二十枚ほど敷き並べた即席の道場に、日系の移民たちが、ぎっしりと詰めかけていた。
年寄りが多かった。戦前に海を渡り、この国の土に一生を捧げてきた者たちだった。彼らにとって、政木は、伝説だった。六年前、この街で、柔術の名門一家の当主の腕を、寝技でへし折った日本の男。
「鬼の政木だ」
「本物の、日本の男だ」
年寄りたちが、目を潤ませて囁きあっていた。日本で自分がどんな目で見られているのかを、ここの誰も知らなかった。いや、知っていても、信じていなかった。
政木は、道着姿で、畳の上に立った。
三年ぶりに袖を通した、自分の道着だった。押し入れの奥から、トランクに詰めて持ってきた、汗と血の染みた古い道着だった。
日系の若者たちを相手に、組み、投げ、押さえこんでみせる。地味な技だった。けれど、ここの客は、誰も欠伸をしなかった。畳に人が叩きつけられるたびに、講堂の空気が震え、年寄りたちが、拳を握りしめて頷いていた。
稽古が終わったあと、講堂の隅に、一人の少年が立っているのに気づいた。
十四、五歳だろうか。ひょろりと背が高く、手足が異様に長い。日に焼けた細い顔に、着古した開襟シャツ。移民船で着いたばかりなのだろう、まだこの国の陽射しに慣れていない肌の色をしていた。
少年は、講堂の壁にもたれたまま、まっすぐに政木を見ていた。目が、燃えていた。
政木は、汗を拭いながら、少年のほうへ歩いていった。
「……いい体をしてるな」
少年は、答えなかった。ただ、唇を固く結んで、政木の顔を見上げていた。その目の奥に、何か、言葉にならないものが渦巻いているのが見えた。怒りなのか、悲しみなのか、憧れなのか。政木には、わからなかった。
「名前は」
少年は、少しのあいだ黙っていた。それから、かすれた声で答えた。
「……熊木、です」
「そうか」
政木は、少年の肩に、大きな手を置いた。
「この国は、厳しいぞ。だがな」
政木は、少年の目を、まっすぐに見た。
「どんなに貧しくても、どんなに落ちぶれても、背筋だけは、まっすぐに伸ばしておけ」
少年の肩が、びくりと震えた。
三年前、横浜の電器屋の店先で、祖父が、同じことを言った。その祖父は、このひと月前、移民船の上で倒れて、海に葬られた。
少年は、何も言えなかった。ただ、唇を噛みしめて、政木の顔を見上げていた。
政木は、少年の肩から手を離し、講堂を出ていった。少年は、その背中が見えなくなるまで、壁際に立ちつくしていた。背筋を、まっすぐに伸ばして。
同じ夜 サンパウロの安宿
固い寝台の上で、政木は、日本から転送されてきた手紙の封を切った。文枝からだった。
便箋は、一枚きりだった。けれど、その字は、二年前の手紙よりも、ずっとしっかりしていた。
『あなたへ。
今月の初めから、咳が、止まりました。
お医者様が、もう大丈夫だろうと仰いました。
先生の置いていってくださるお米で、毎朝、お粥を炊いております。
佐伯さんも、元気にしております。
どうぞ、お体を大切に。
帰っていらっしゃる日を、待っております。
文枝』
政木は、便箋を握りしめたまま、寝台の上に座りこんでいた。窓の外では、南半球の夜空に、見知らぬ星座が瞬いていた。
二年前の夜、白い病室で、佐伯に言った。文枝に、帰れなくて、すまん、と。
政木は、便箋を、胸に押し当てた。声を出さずに、長いあいだ、肩を震わせていた。
それから、涙を拭い、新しい便箋を取り出した。文枝への返事を書き終えたあと、もう一枚。
『帰ったら、もう一度やらせろ。逃げるな。政木』




