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第53話 決別

 昭和三十一年(一九五六年)一月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場


道場の掲示板に、二月の興行の対戦表が貼りだされていた。若い衆たちが、その前に群がって、自分の名前を探していた。


桜富士は、その輪の後ろから、黙って対戦表を見上げていた。上から下まで、一行ずつ、目でなぞっていく。自分の名前は、どこにもなかった。


若い衆たちが、気まずそうに、ちらちらと桜富士の顔を盗み見ては、目を逸らしていった。桜富士は、しばらく、対戦表の前に立っていた。それから、静かに、階段を上っていった。


二階の事務所の扉を開けると、信格は、机の向こうで葉巻をくわえていた。顔を上げもしなかった。


「力王」


「なんだ」


「二月の興行に、俺の名前がない」


「ああ」


信格は、帳面に目を落としたまま言った。


「お前を担いで、俺を追い出そうとした連中がいる。佐々川の金でな。浅草の、いつもの店で」


桜富士は、黙って聞いていた。


「天道が、見てた」


信格は、ようやく顔を上げた。その目は、冷えていた。


「お前は、そいつらの話を、じっと聞いていたそうだな。金の当ては誰だ、と訊いていたそうだな」


事務所が、静まり返った。桜富士は、信格の目を、まっすぐに見返した。


「断ったよ」


低い、穏やかな声だった。


「担がれるのは御免だ、と言った。お前に拾ってもらった恩がある、と言った。今夜のことは聞かなかったことにする、と言って、勘定を置いて帰った」


信格は、何も言わなかった。


桜富士は、少しのあいだ、信格の顔を見ていた。信格の目の中に、自分の言葉を信じる色が一つも浮かばないのを、確かめるように。


やがて、桜富士は、小さく息をついた。


「……そうか」


懐から、一通の封書を取り出した。机の上に、そっと置いた。表書きには、太い、まっすぐな字で、辞表、と書かれていた。


「お前が信じないなら、それまでだ」


桜富士は、背を向けた。扉に手をかけて、一度だけ振り返った。


「力王。今夜、浅草で一杯、どうだ」


信格は、答えなかった。


「最後の一杯だ」


それだけ言って、桜富士は、事務所を出ていった。


信格は、机の上の辞表を、長いあいだ見つめていた。


同じ夜 東京・浅草 縄暖簾の店


縄暖簾をくぐると、桜富士は、もう奥の席に座っていた。九年前、二人が初めて並んで飲んだ、あの席だった。


信格は、黙って隣に腰を下ろした。親父が、何も言わずに、徳利を二本置いていった。


桜富士が、徳利を手に取り、信格の猪口に、酒を注いだ。両手で、丁寧に。九年前、この席で、大関だった桜富士がそうしてくれたのと、同じように。


信格は、猪口を持ちあげた。手が、わずかに震えていた。


しばらく、二人は黙って飲んだ。店の奥の柱時計が、ゆっくりと時を刻んでいた。


「なあ、力王」


やがて、桜富士が、ぽつりと言った。


「お前と初めてここで飲んだ夜のこと、覚えてるか」


信格は、答えなかった。覚えていた。


お前、朝鮮の出だろ。どこの生まれだろうが、土俵の上じゃ関係ねえ。強い奴が強い。それだけだ。欣吾でいい。


「あの夜な、俺は、お前の相撲に惚れたんだ」


桜富士は、猪口を見下ろしていた。


「背負ってるもんの重さが、全部、相撲に乗ってた。あんな相撲を取る奴は、ほかにいなかった」


桜富士は、猪口を空けた。


「お前は、強い。土俵でも、リングでも、誰よりも強い。それは、いまでも変わらん」


信格は、黙って、手酌で酒を注いだ。


「だがな、力王」


桜富士は、信格の横顔を見た。


「お前は、誰も信じてない」


信格の手が、徳利の上で止まった。


「俺のことも。お前の周りの誰のことも。たぶん、お前自身のことも」


桜富士の声は、責めていなかった。ただ、静かに、事実を言っているだけだった。


「お前が、どこの生まれだろうが、俺には最後まで、関係なかった。それだけは、信じてくれていい」


店の中が、しんと静まり返った。柱時計の音だけが、響いていた。


信格は、何か言おうとした。喉の奥まで、言葉がせりあがってきた。


欣ちゃん、俺は。俺は、本当は。


言葉は、出てこなかった。九年のあいだ、誰にも見せずに腹の底に沈めてきたものが、喉のところで、固い石のように詰まっていた。


桜富士は、しばらく、信格の横顔を見ていた。それから、小さく笑って、勘定を置いて立ちあがった。


「達者でな、力王」


大きな背中が、暖簾のほうへ向かっていく。


「……欣ちゃん」


声が、出た。


桜富士が、暖簾の手前で、足を止めた。振り返った。いつもの、穏やかな顔だった。


信格は、何か言おうとした。けれど、やはり、何も出てこなかった。


桜富士は、そんな信格の顔を、しばらく見ていた。それから、からりと笑った。九年前、この店で、欣ちゃん、で、と言われたときと、同じ笑い方だった。


暖簾が揺れて、大きな背中が、夜の浅草の路地へ消えていった。


信格は、一人、奥の席に座ったまま、動けなかった。猪口の中の酒が冷えていくのを、ただ、見つめていた。


同じ夜 東京・目黒


誰もいない家の居間で、信格は、箪笥の引き出しを開けた。一番奥に、裏返しにしまったままの、一枚の写真があった。


七年前の、オープンカーの写真だった。優勝旗を抱えて照れくさそうに笑う、綱を締めた男。その隣で、得意げに歯を見せている、髷を結った自分。


信格は、その写真を、長いあいだ見つめていた。破ろうとは、しなかった。裏返して、引き出しに戻すことも、しなかった。


写真を、二つに折った。それを、背広の内ポケットに、そっとしまった。


胸の上で、写真の角が、かすかに肌に当たった。


その後


桜富士は、その月のうちに、プロレスの世界から姿を消した。


しばらくして、松木のものとは別の新しいテレビ局で、大相撲中継の解説者として、ブラウン管に姿を見せるようになった。穏やかな声で、若い力士たちの相撲を、一番一番、丁寧に語った。


力王山の名前を、その口から聞いた者は、誰もいなかった。



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