第52話 神輿
昭和三十年(一九五五年)十一月 東京・蔵前国技館
安田組の一件から、ひと月が経っていた。
その夜の台本は、これまでのどれよりも長かった。二十分間。元横綱の桜富士が、外国人の巨漢に痛めつけられる時間だった。
場外に落とされること、四度。鉄の椅子で殴られること、三度。額が割れ、鼻から血が噴き出し、白いマットが、桜富士の血で斑らに染まっていった。
客席から、悲鳴が上がった。やがて、その悲鳴が、怒号に変わった。怒号の矛先は、外国人ではなかった。
「力王山! 早く出ろ!」
「何をしてるんだ、横綱が死んじまうぞ!」
エプロンの上で、信格は、腕を組んだまま、時計を見ていた。
まだだ。あと、三分。
新聞の写真に、もう一枚、血まみれの元横綱を載せさせる。日本じゅうが、あの男を、倒れている姿でしか思い出せなくなるまで。助けられた男が、助けた男よりも惨めに見えなければならない。そうでなければ、宇田川町の事務所で畳に額をつけた大きな背中の記憶が、いつまでも、自分の胸に居座りつづける。
信格は、三分きっかり待ってから、ロープを飛び越えた。
同じ月 東京・神田 古い居酒屋の二階
古い居酒屋の二階の小座敷に、若い衆が七人、膝を突きあわせていた。襖は固く閉められ、障子の外の廊下にも、見張りが一人立っていた。
「もう、我慢できねえ」
口を開いたのは、元十両の男だった。二年半前、蔵前の国技館裏の居酒屋で、札束を前に土下座した男だった。そのあと、将校クラブで、見せしめに肋骨を折られた男でもあった。
「ギャラは、また三か月も滞ってる。先生は、銀座で毎晩何十万も撒いてるってのにだ」
「それに、横綱のことだ」
別の若い衆が、拳で畳を叩いた。
「今夜の試合を見たか。二十分だぞ。横綱を、わざと血だるまにして、自分は時計を見てやがった」
「安田組のときもそうだ。自分は逃げて、横綱に頭を下げさせた」
「あんな男に、ついていけるか」
座敷が、重い沈黙に包まれた。やがて、元十両の男が、低い声で言った。
「横綱を、担ごう」
若い衆たちが、一斉に顔を上げた。
「先生を、追い出すんだ。横綱を頭に据えて、俺たちで団体をやり直す。元横綱の名前があれば、客は来る。テレビだって、乗ってくるはずだ」
「……金は、どうする。会場も、外人も」
「当てがある」
元十両の男は、声を落とした。
「競艇の、佐々川さんだ。力王山が倒れるなら、後ろ盾になってもいいと言ってる」
数日前 東京・江戸川 競艇場の貴賓室
競艇場の貴賓室の窓から、佐々川は、水面を走る白いボートを眺めていた。向かいに、元十両の男が、硬い顔で座っていた。その脇に、沢登が、大きな体を窮屈そうに縮めて座っていた。この席を取り持ったのは、沢登だった。
「巌流島の晩にな、俺は、えらい損をさせられたんだ」
佐々川は、帽子を指先で回しながら言った。
「引き分けに張らせた大口の旦那衆に、まだ詫びの金を払いつづけてる。あの男が台本を破ったおかげでな」
「……それで、俺たちに」
「俺は、損を取り返したいだけさ」
佐々川は、にっこりと笑った。
「あの男の天下が、いつまでも続くとは限らねえ。次の看板が要る。元横綱の桜富士なら、悪くない。あんたらが担ぐってんなら、金も、会場も、俺が何とかしてやるよ」
元十両の男は、ごくりと唾を飲んだ。沢登は、腋をパカン、と一度だけ鳴らした。それから、何も言わずに、窓の外の水面を見つめていた。
同じ月 東京・浅草 縄暖簾の店
縄暖簾の奥の、あの席だった。桜富士は、一人で猪口を傾けていた。額の傷には、まだ晒しが巻かれていた。
向かいに、元十両の男と、若い衆が二人、正座していた。
「横綱。お願いします。俺たちの、頭になってください」
三人は、畳に額をこすりつけた。
「先生のやり方は、もう限界です。横綱だって、毎晩あんな目に遭わされて。俺たちと一緒に、新しい団体を作りましょう。金の当ても、あるんです」
桜富士は、黙って猪口を置いた。長いあいだ、三人の後頭部を見下ろしていた。
「顔を、上げろ」
三人が、顔を上げた。
「その金の当てってのは、誰だ」
元十両の男が、一瞬、口ごもった。
「……競艇の、佐々川さんです」
桜富士の目が、すっと細められた。
「そうか」
桜富士は、ゆっくりと首を横に振った。
「断る」
「横綱!」
「俺は、担がれるのは御免だ」
桜富士の声は、穏やかだった。けれど、少しも揺るがなかった。
「行き場のなかった俺を、力王は拾ってくれた。どんな筋書きでも、それは変わらん。それに」
桜富士は、猪口に酒を注いだ。
「誰かの金で担がれた神輿は、担いだ奴の都合で、いつでも放りだされる。俺は、相撲の世界で、それを嫌というほど見てきた。お前らも、自分の足で立て」
三人は、うなだれた。
桜富士は、猪口を空けると、勘定を置いて立ちあがった。
「今夜のことは、聞かなかったことにしておく」
暖簾をくぐって出ていく桜富士の大きな背中を、三人は、黙って見送るしかなかった。
店の隅の席で、一人で飲んでいた大柄な男が、静かに勘定を済ませて立ちあがった。天道だった。
翌朝 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所で、天道は、いつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。
「昨夜、浅草で、ちょっと面白い話を聞きましてね」
信格は、葉巻をくわえたまま、顔を上げた。
「若い連中が、横綱を頭に担いで、新しい団体を作ろうとしてるそうですよ。力王さんを、追い出して」
信格の手が、止まった。
「後ろには、競艇の佐々川さんがついてるとか」
「……欣ちゃんは」
信格の声が、低く掠れていた。
「欣ちゃんは、何と言った」
天道は、帳面を閉じた。
「浅草の、いつもの店でね。若い連中が、横綱の前で、畳に額をこすりつけて頼んでました」
天道は、そこで言葉を切った。にっこりと、笑ったまま。
「横綱は、じっと話を聞いて、金の当ては誰だと訊いてましたよ」
信格の顔から、血の気が引いていった。
「そのあとは、わたしは、店を出たもので」
事務所が、しんと静まり返った。
信格は、立ちあがった。窓辺に立ち、道場の中庭を見下ろした。朝の稽古に集まってきた若い衆たちが、ちらちらと二階の窓を見上げては、目を逸らしている。
金の当ては、誰だと訊いた。話を、じっと聞いていた。
信格の胸の奥で、何かが、音を立てて崩れていった。
宇田川町の事務所で、畳に額をつけた大きな背中。封筒を突き返した手。今日は、言わないのか、という声。あれは、全部、このためだったのか。俺を、追い出すために。俺の弱さを、腹の中で笑いながら。
同じ日 昼 大和プロレス道場
稽古場のマットの真ん中に、元十両の男が、引きずり出されていた。
信格は、何も言わなかった。ただ、手刀を振り下ろした。一発、二発、三発。男の体がマットに沈んでも、髪を掴んで引きずり起こし、また叩きのめした。
ほかの若い衆たちは、壁際に並ばされて、それを見ていた。誰も、目を逸らすことを許されなかった。
男が動かなくなると、信格は、壁際の若い衆たちのほうを向いた。
「浅草で、膝を突きあわせた奴は、前に出ろ」
誰も、動かなかった。信格は、天道のほうを見た。天道は、黙って帳面を開き、三つの名前を読みあげた。名前を呼ばれた二人の若い衆が、震えながら前に出てきた。
「今日限りだ。荷物をまとめて、出ていけ」
信格は、背を向けた。
「二度と、プロレスの世界で、飯が食えると思うなよ」
その日の夕方には、神戸の岡田の若い衆が、出ていった三人の下宿を、一軒ずつ訪ねて回っていた。
同じ夜 東京・銀座 大河原の事務所
大河原の事務所の窓辺で、佐々川が、帽子を指先で回していた。
「ずいぶん、手が早かったじゃねえか、あの狂犬は」
「お前が、早すぎたんだ」
大河原は、葉巻の灰を、灰皿に落とした。
「まだ、切るときじゃねえと言っただろう」
「俺は、損を取り返そうとしただけさ」
「わかってる」
大河原は、窓の外の銀座の灯りを見下ろした。
「だが、次に神輿を担ぐときは、桜富士じゃ駄目だ。あれは、担がれる気のねえ男だ」
佐々川の帽子を回す手が、止まった。
「言うことを聞く、従順な英雄。それを見つけるまでは、余計な手出しはするな」
佐々川は、しばらく黙っていた。やがて、肩をすくめて、くつくつと笑った。
「……わかってらあ」
同じ夜 東京・目黒
誰もいない家の居間で、信格は、来月の興行の対戦表を広げていた。桜富士の名前が、いくつもの試合に書きこまれていた。
信格は、万年筆を取った。その名前の上に、一本ずつ、線を引いていった。一本、二本、三本。最後の一つに線を引き終えると、信格は、万年筆を置いた。
箪笥の引き出しの一番奥には、裏返しにしまったままの、オープンカーの写真があった。
信格は、その引き出しを、開けなかった。




