第51話 愚連
昭和三十年(一九五五年)十月 東京・渋谷
道玄坂を上りきった角に、その店はあった。『クラブ・リキ』。
赤い絨毯。金色の手すり。天井から下がるシャンデリア。ステージでは、黒いドレスの歌手が、甘いジャズを歌っている。
表向きの経営者は、別の男の名前になっていた。けれど、渋谷の夜の街で、この店の本当の主が誰なのかを知らない者は、いなかった。
信格は、一番奥のボックス席で、ブランデーのグラスを傾けていた。支配人が、青い顔をして、そばに寄ってきた。
「社長。昨夜、また安田組の若いのが来まして」
「またか」
「ええ。グラスを十も割っていきました。ホステスの子が一人、髪を掴まれて、泣いて辞めると言っております」
支配人は、声を潜めた。
「挨拶がない、と。渋谷で商売をするなら、安田組に筋を通せ、と」
信格は、グラスを置いた。
「愚連隊のガキどもが、何を偉そうに」
「ですが、社長。安田組は、ただの愚連隊じゃありません。このあたりの組も、手を出せないんです。とくに、花村という男が……」
「知るか」
信格は、葉巻に火をつけた。
「次に来たら、俺が叩き出してやる」
その夜の十一時過ぎだった。店の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、五、六人の若い男たちだった。揃いの黒い背広。けれど、新橋の飲み屋で匕首をちらつかせていた三下とは、まるで違っていた。誰一人、肩で風を切ってもいない。騒ぎもしない。ただ、店の中を、ゆっくりと見回している。
その真ん中に、一人の男がいた。背は、それほど高くない。痩せてもいない。ただ、顔の左頬から顎にかけて、刃物でえぐられたような古い傷が、一筋、走っていた。
男は、ボックス席の信格を見つけると、まっすぐに歩いてきた。ステージの歌手の声が、途切れた。ホステスたちが、一斉に席を立って、壁際に逃げていった。
男は、信格の向かいの席に、断りもなく腰を下ろした。
「力王山さん、だね」
低く、静かな声だった。
「安田組の、花村だ」
信格は、葉巻をくわえたまま、男を見た。新橋のチンピラを見下ろしたときのように、鼻で笑ってやろうとした。笑えなかった。
男の目だった。怒っているのでも、凄んでいるのでもない。ただ、静かだった。何人もの人間を、平気で壊してきた者の、静けさだった。蔵前のリングで、政木が向けてきた目と、どこか似ていた。
「渋谷で、うちに挨拶もなしに、こんな店を構えてる」
花村は、テーブルの上のブランデーの瓶を、手に取った。ラベルを、しげしげと眺めた。
「日本一の男は、ずいぶん度胸があるね」
「……この店は、俺の店じゃねえ」
信格の口から出たのは、そんな言葉だった。自分でも、驚いた。
花村は、薄く口元を緩めた。次の瞬間、ブランデーの瓶を、テーブルの角に叩きつけた。瓶が砕け、琥珀色の酒が、信格のズボンの膝に飛び散った。
花村は、割れた瓶の首を握ったまま、その鋭い切り口を、テーブルの上に、ことりと置いた。信格の目の前に。
「明日の昼、宇田川町の事務所に、顔を出してもらおうか」
花村は、立ちあがった。
「来なけりゃ、次は、瓶じゃ済まねえよ」
花村と男たちは、来たときと同じように、静かに店を出ていった。扉が、閉まった。
店の中は、しんと静まり返っていた。信格は、テーブルの上の、割れた瓶の首を見下ろしていた。膝の上で、ブランデーに濡れた手が、震えていた。
新橋で匕首を突きつけられたときには、刺せるのか、と嗤ってやれた。けれど、あの男は、違う。あの男は、刺す。何のためらいもなく、笑ったまま、刺す。
信格は、震える手で、葉巻を灰皿に押しつけた。
翌朝 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所に桜富士を呼んだのは、まだ朝の八時前だった。
桜富士は、額にまだ前の試合の傷の痕を残したまま、扉の前に立っていた。
「呼んだか、力王」
「欣ちゃん」
信格は、机の向こうから立ちあがり、桜富士を応接椅子に座らせた。自分で茶を淹れて、その前に置いた。
何か月ぶりかに、欣ちゃん、と呼んでいた。桜富士の目が、わずかに細められた。
「渋谷の店のことで、ちょっと、厄介なことになってな」
信格は、昨夜のことを、かいつまんで話した。安田組。花村。割れた瓶。昼の事務所。話しながら、桜富士の顔を見ることができなかった。
「俺が行けば、角が立つ。日本一の男が愚連隊に頭を下げたなんて、新聞に書かれたら、興行にも響く」
信格は、窓の外を見たまま言った。
「欣ちゃんなら、元横綱だ。向こうも、無下にはしねえ。欣ちゃんが、俺の代わりに、ちょっと頭を下げてきてくれねえか」
事務所が、静まり返った。
桜富士は、湯呑みを手に取り、一口すすった。それから、湯呑みを置いて、信格の横顔を、じっと見た。
「……怖いのか、力王」
信格の肩が、ぴくりと動いた。答えなかった。
桜富士は、しばらく黙っていた。やがて、小さく息をついて、立ちあがった。
「わかった。行ってくる」
同じ日 昼 東京・渋谷宇田川町 安田組の事務所
古いビルの三階の、安田組の事務所だった。奥の机に、組長の安田が座っていた。三十そこそこの、色白で細面の男だった。その脇に、花村が、腕を組んで立っていた。
扉が開き、桜富士が入ってきた。後ろに、天道が、帳面を手にして控えていた。
安田の目が、わずかに見開かれた。元横綱の顔を、知らない者はいなかった。
「……桜富士関、か」
「横綱は、もう辞めました。いまは、力王山の団体の、新入りです」
桜富士は、事務所の真ん中に進み出ると、両膝をついた。畳に両手をつき、深々と頭を下げた。額が、畳につくほどに。
「力王山の不行き届きで、渋谷の皆さんに、ご迷惑をおかけしました。本人に代わりまして、私がお詫び申しあげます」
事務所が、しんと静まり返った。
安田は、しばらく、畳に額をつけた元横綱の大きな背中を見下ろしていた。
「……顔を、上げてください」
安田の声が、少しだけ柔らかくなった。
「横綱に、そこまでされちゃあ、こっちも引っこみがつきません。今回のことは、水に流しましょう。挨拶の筋だけは、今後、通していただきますがね」
「ありがとうございます」
桜富士は、もう一度、深く頭を下げた。
立ちあがって、扉へ向かおうとしたとき、花村が、低い声で言った。
「元横綱に頭を下げさせて、自分は来ねえか」
桜富士の足が、止まった。花村は、腕を組んだまま、薄く笑っていた。頬の傷が、笑みの形に歪んでいた。
「日本一の男ってのは、大したもんだね」
桜富士は、振り返らなかった。ただ、もう一度、深く一礼して、事務所を出ていった。天道が、そのあとに続いた。階段を下りながら、天道は、帳面に何かを書きつけていた。
同じ日 宇田川町の路地
ビルの前の路地に、黒いキャデラックが停まっていた。後部座席で、信格は、窓の外を睨んでいた。
桜富士が、ビルの入口から出てきた。天道が、助手席に乗りこんだ。桜富士は、黙って後部座席に乗りこみ、信格の隣に腰を下ろした。
車が、動きだした。しばらく、誰も口をきかなかった。
やがて、信格が、背広の内ポケットから分厚い封筒を取り出し、桜富士の膝の上に置いた。
「ご苦労だった、欣ちゃん。取っといてくれ」
桜富士は、封筒に目もくれなかった。膝の上から、それを持ちあげ、信格の膝の上に、そっと戻した。
「いらん」
「……欣ちゃん」
「なあ、力王」
桜富士は、窓の外の渋谷の街並みを見ていた。
「七年前の新橋で、俺がチンピラに頭を下げたとき、お前は、余計なことをしやがって、と言ったな」
信格の指が、封筒の上で、止まった。
「俺は、ガキじゃねえ。欣ちゃんに頭を下げてもらう筋合いなんか、ねえんだよ、と」
桜富士は、ゆっくりと、信格のほうを向いた。穏やかな目だった。
「今日は、言わないのか」
車の中が、静まり返った。エンジンの音だけが、低く響いていた。
信格は、何も言えなかった。膝の上の封筒を、ただ、握りしめていた。助手席で、天道が、前を向いたまま、帳面を閉じる音がした。
その夜 大和プロレス道場の裏手
物置小屋の陰で、若い衆たちが、声を潜めていた。
「聞いたか。先生、安田組から逃げたんだってよ」
「横綱に、代わりに頭を下げさせたんだと」
「新橋じゃ、刃物の前でも笑ってたくせに」
「横綱が、可哀想だよ。毎晩血を流させられて、そのうえ、先生の尻拭いまで」
その輪の外で、沢登が、腋をパカン、パカンと鳴らしながら、黙って聞いていた。
その夜遅く、銀座の裏通りの公衆電話のボックスに、大きな体が押しこまれていた。




