第50話 屈辱
昭和三十年(一九五五年)春から夏
大阪の府立体育会館。名古屋の金山体育館。仙台の宮城野原の、野外の特設リング。福岡のスポーツセンター。
どこの町でも、筋書きは同じだった。
最初の十分、元横綱の桜富士が、外国人の巨漢に痛めつけられる。場外に落とされ、椅子で殴られ、額を割られて血を流す。客が悲鳴を上げたところで、力王山がロープを飛び越え、空手チョップで外国人を薙ぎ倒す。
最後に両腕を突きあげるのは、いつも力王山だった。桜富士は、その後ろで、血まみれの顔を手拭いで押さえて、立っているだけだった。
最初の頃は、客席から、横綱、という声が飛んだ。ひと月が経つ頃には、その声は、少しずつ変わりはじめた。
「横綱、しっかりせえ!」
「元横綱が、毛唐ごときに負けるんか!」
ふた月が経つ頃には、こうなった。
「また、桜富士がやられとるわ」
「横綱の、恥さらしが」
大阪の体育会館では、客席から、空になった酒瓶が投げこまれた。瓶は、リングの下で血を流してうずくまる桜富士の背中に当たって、砕けた。
夏が来る頃には、東京の路地裏で、子供たちが、プロレスごっこをするようになっていた。一番体の大きい子が、力王山の役。一番弱い子が、外国人の役。そして、外国人に叩きのめされて地べたに転がる役の子は、決まって、こう呼ばれた。
「やーい、桜富士!」
昭和三十年(一九五五年)七月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所の机の上に、一冊の週刊誌が広げられていた。
『元横綱、プロレスでは通用せず 「相撲の看板に泥を塗った」と角界OBも嘆く』
記事の脇には、血まみれの顔で場外に転がる桜富士の写真が、大きく載っていた。その隣の頁には、両腕を突きあげる力王山の写真があった。
信格は、葉巻をくわえたまま、その頁を眺めていた。口元が、緩んでいた。
綱を締めた男。日本人の名前を持ち、品格を持ち、誰からも慕われた男。その男が、いま、日本じゅうの子供たちに、負け犬の名前として呼ばれている。
信格は、週刊誌を閉じた。それから、もう一度開いて、写真を見つめた。
桜富士の顔は、血にまみれていた。けれど、その目だけは、写真の中でも、穏やかだった。相撲の頃と、何一つ変わっていなかった。
信格の口元から、笑みが消えた。どれだけ泥にまみれさせても、この男の顔から、品格だけは消えない。
信格は、週刊誌を、屑籠に放りこんだ。
同じ月 巡業先へ向かうキャデラックの中
後部座席に、信格と桜富士が、並んで座っていた。窓の外を、夏の田園の緑が流れていく。しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、桜富士が、窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「なあ、力王」
「なんだ」
「一度くらい、勝たせてくれんか」
信格は、葉巻をくわえたまま、黙っていた。
「客の前で、一度でいい。相撲の頃から、俺を応援してくれてた人たちがいる。あの人たちに、一度でいいから、相撲取りの意地を見せたいんだ」
桜富士の声は、穏やかだった。懇願するような響きは、なかった。ただ、静かに、頼んでいた。
信格は、窓の外を見つめていた。
「……お前が勝ったら、客は誰を見に来る」
桜富士は、少しのあいだ、黙っていた。
「力王山の団体だ」
信格は、紫煙を吐き出した。
「主役は、一人でいい」
車の中が、静まり返った。エンジンの音と、タイヤが砂利を踏む音だけが、続いていた。
やがて、桜富士は、小さく頷いた。
「……そうか」
それだけだった。
信格は、横目で桜富士の横顔を見た。怒っていなかった。恨んでもいなかった。ただ、窓の外の緑を、静かに見つめていた。
その静けさが、信格の胸の奥を、じりじりと焦がした。怒鳴ればいいのに。殴りかかってくればいいのに。そうすれば、自分は、この男を、本当に見下すことができるのに。
同じ夜 東京・目黒
誰もいない家の居間で、信格は、箪笥の引き出しを開けた。一番奥に、一枚の写真が、裏返しにしまってあった。
六年前の写真だった。両国から浅草まで、群衆の歓声の中を走ったオープンカー。後部座席で、優勝旗を抱えて照れくさそうに笑う、綱を締めた男。その隣で、得意げに歯を見せている、髷を結った自分。
信格は、その写真を、長いあいだ見つめていた。破ろうとして、指をかけた。指が、動かなかった。
信格は、写真を裏返して、また引き出しの一番奥に戻した。引き出しを閉める音が、静かな家の中に、やけに大きく響いた。
同じ頃 大和プロレス道場の裏手
物置小屋の陰で、若い衆たちが、声を潜めていた。
「横綱が、可哀想だよ」
「毎晩毎晩、血を流させられて。それなのに、一度も文句を言わねえ」
「先生は、わざとやってるんだ。横綱を、日本じゅうの笑い者にしたいんだよ」
「しっ。天道さんに聞かれたら」
若い衆たちは、慌てて口をつぐんだ。物置小屋の向こうの暗がりで、誰かが、帳面を閉じる音がした。
翌朝、天道は、いつもの人懐っこい笑みを浮かべて、信格の事務所に現れた。
「若い連中のあいだで、桜富士さんに同情する声が出てますよ。先生のやり方は、ひどすぎるって」
「放っとけ」
信格は、葉巻に火をつけながら、ぶっきらぼうに言った。
「ガキどもが何を言おうが、知ったことか」
天道は、にっこりと頷いた。事務所を出ていくとき、その手が、背広の内ポケットの帳面に、そっと触れた。
その夜、天道が銀座のどこへ向かったのかを、信格は知らなかった。




