第三章 怪物の帝国 第49話 帰還
昭和三十年(一九五五年)二月 東京・羽田
タラップの上に、大きな影が現れた。
日に焼けた顔。短く刈りこんだ頭。ハワイの陽射しで鍛え直した体は、横綱の頃よりも、一回り引き締まっていた。桜富士だった。ふた月あまりぶりの、日本の空だった。
滑走路の脇には、記者とカメラマンが、黒山の人だかりを作っていた。
「元横綱! プロレスデビューの意気込みを!」
「ハワイでの修行は、いかがでしたか!」
フラッシュが、一斉に焚かれた。桜富士は、タラップの途中で足を止め、照れくさそうに頭を下げた。横綱の土俵入りのときと同じ、穏やかな笑みだった。その笑みに、記者たちが、どっと沸いた。
「いい顔だ! もう一枚!」
「横綱、こっちを向いてください!」
タラップの下で、信格は、腕を組んで待っていた。紋付袴でも背広でもなく、わざわざ道場のジャンパーを羽織っていた。弟子を迎えに来た師匠の格好だった。
桜富士が、タラップを降りてきた。信格は、両腕を広げた。
「欣ちゃん、よう帰ってきた!」
信格は、桜富士の大きな体を、力いっぱい抱きしめた。フラッシュが、さらに激しく焚かれた。
翌日の新聞には、力王山、元横綱を熱い抱擁で出迎え、と載るはずだった。
桜富士の肩越しに、信格は、記者たちの群れを見ていた。
二年前、自分が羽田に降り立ったときよりも、記者の数が多い。カメラのレンズが、自分ではなく、桜富士の顔を追っている。
信格は、桜富士の背中を、もう一度強く叩いた。笑顔のまま。
同じ日 夜 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所で、信格は、来月の興行の台本を広げていた。向かいに、天道と、来日したばかりの外国人の巨漢が二人、座っていた。
「桜富士の、デビュー戦だ」
信格は、葉巻の煙を吐き出した。
「俺と桜富士が組む。相手は、こいつらだ」
二メートルを超える、髭面の兄弟だった。アメリカで、怪物の兄弟として売り出していた。
「最初の十分は、桜富士がやられる。徹底的にな。場外に落とされ、椅子で殴られ、首を絞められる。客が泣きだすくらいに」
天道が、帳面に書きつけていった。
「それから、俺が出る。空手チョップで、こいつらを薙ぎ倒す。最後は、俺が勝ち名乗りを受ける」
信格は、兄弟の兄のほうを見た。それから、片言の英語で言った。
「Make him bleed」
兄弟の兄が、眉を上げた。
「Real blood. Understand?」
兄は、少しのあいだ、信格の顔を見ていた。それから、肩をすくめて、にやりと笑った。
「OK, boss」
天道の鉛筆が、一瞬だけ止まった。それから、何事もなかったように、また動きはじめた。
昭和三十年(一九五五年)三月 東京・蔵前国技館
元横綱の、プロレスデビュー戦だった。国技館は、巌流島の夜と同じくらいの客で埋まっていた。
相撲の頃の桜富士を知る年配の客たちが、大勢詰めかけていた。花道を入場してくる桜富士の姿に、客席のあちこちから、横綱、という掛け声が飛んだ。桜富士は、その声に、深々と頭を下げて応えた。信格は、その後ろを、黙って歩いていた。
ゴングが、鳴った。台本どおりだった。
兄弟の巨体が、桜富士に襲いかかった。桜富士は、ハワイで何千回と取った受身で、それを受けた。投げられ、ロープに叩きつけられ、場外に落とされる。客席から、悲鳴が上がった。
兄弟の弟が、リングの下から鉄の椅子を持ちあげ、桜富士の頭に振り下ろした。鈍い音が、館内に響いた。
桜富士の額が割れ、血が、顔を伝って流れ落ちた。本物の血だった。客席が、どよめいた。
「横綱っ!」
「やめろっ! 卑怯だぞ!」
年配の客の何人かが、立ちあがって叫んでいた。兄弟の兄が、血まみれの桜富士の首に腕を巻きつけ、締めあげた。桜富士の顔が、赤黒く染まっていった。それでも、桜富士は、一度も、マットを叩かなかった。
ロープの外のエプロンに立って、信格は、それを見ていた。台本どおりの、十分間だった。信格は、腕を組んだまま、時計を見ていた。
まだだ。まだ、出るには早い。
客席の悲鳴が、さらに高くなった。桜富士の血が、マットに滴り落ちている。信格の胸の奥で、何かが、ゆっくりと膨らんでいった。甘く、暗いものだった。
綱を締めた男が、自分の書いた台本の上で、血を流している。日本じゅうが見ている前で。
信格は、もう一分、待った。それから、ロープを飛び越えた。
空手チョップが、兄弟の胸板に、首筋に、次々と叩きこまれていった。兄弟は、大げさにのけぞり、リングの外へ転げ落ちていった。館内が、割れんばかりの歓声に包まれた。
「力王山! 力王山! 力王山!」
信格は、リングの真ん中で、両腕を突きあげた。その足元で、桜富士が、血まみれの顔で、片膝をついていた。
信格は、桜富士の腕を掴んで、引き起こした。二人の腕が、レフェリーの手で、高く掲げられた。フラッシュが、焚かれた。
翌日の新聞の写真は、両腕を突きあげる力王山と、その隣で、血にまみれてうなだれる元横綱になるはずだった。
同じ夜 国技館 東の控室
控室の奥の、薄暗いシャワーの下で、桜富士は、額の血を洗い流していた。湯気の中で、大きな背中が、ゆっくりと上下していた。
信格は、控室の入口に立って、その背中を見ていた。何か、言わなければならない気がした。けれど、何を言えばいいのか、わからなかった。
桜富士が、シャワーを止めた。振り返り、入口に立つ信格に気づいた。額の傷から、まだ薄く血が滲んでいた。
「……よう、力王」
桜富士は、手拭いで顔を拭いながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「いい筋書きだったな。客は、喜んでたか」
信格は、答えられなかった。
桜富士は、ベンチに腰を下ろし、濡れた頭を、手拭いでがしがしと拭いた。
「ハワイの砂浜でな、受身を、毎日何千回も取ったんだ」
手拭いの下から、くぐもった声がした。
「お前に言われたとおりにな」
信格は、入口の柱に手をかけたまま、立ちつくしていた。
桜富士は、手拭いを外して、信格の顔を見上げた。その目には、怒りも、恨みも、なかった。ただ、いつもの、穏やかな目だった。
「次も、やられ役か」
「……ああ」
「そうか」
桜富士は、小さく頷いた。
「わかった」
それだけだった。
信格は、柱から手を離し、黙って控室を出ていった。廊下の暗がりで、葉巻に火をつけようとした。マッチが、なかなか擦れなかった。三本目で、ようやく火がついた。
指先が、かすかに震えていた。




