第二章 最終話 第48話 怪力
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十六日 東京・江戸川 競艇場
師走の競艇場には、寒風が吹きすさんでいた。
水面を、六艘のボートが、白い飛沫を上げて走り抜けていく。スタンドを埋めた男たちが、舟券を握りしめて、怒鳴り声を上げていた。その中で、ひときわ大きな体の男が、柵にしがみつくようにして、水面を睨んでいた。
二十三歳。百キロを超える巨体。丸刈りの頭。厚い胸板の上で、着古した綿入れのボタンが、はち切れそうになっている。沢登だった。
三か月前まで、幕内の土俵に上がっていた男だった。怪力で鳴らした。薪割りで鍛えた腕は、一升瓶を握り潰すと噂された。けれど、親方と金のことで揉め、髷を切って、部屋を飛びだした。それから三か月、仕事もせずに、競艇場に入り浸っていた。
最後のボートが、ゴールを駆け抜けた。沢登の握りしめた舟券は、紙屑になった。
「……くそっ」
沢登は、舟券を水面に向かって放り投げた。懐の財布は、もう空だった。それどころか、場内の金貸しに、三十万の借金がある。
柵にもたれて、空を見上げた。そのとき、背後から、帽子をかぶった男が、ぽんと肩を叩いた。
「いい体してるねえ、兄ちゃん」
振り返ると、口元に薄い笑みを浮かべた、痩せた中年の男が立っていた。帽子を、指先でくるくると回している。
「元幕内の、沢登さんだろう」
「……誰だ、あんた」
「この競艇場の、まあ、胴元みたいなもんさ」
佐々川は、にっこりと笑った。
「三十万の借金、俺がきれいにしてやるよ」
沢登の目が、丸くなった。
「そ、そんな……なんで、俺なんかに」
「その代わり、一つ、頼みがある」
佐々川は、帽子を回す手を止めた。
「日本橋の浪花町に、力王山の道場がある。そこへ行って、入門させてもらいな。あの男は、相撲上がりの怪力を、喉から手が出るほど欲しがってる」
「力王山……」
「それと」
佐々川は、声を落とした。
「ときどき、あの男の様子を、俺に教えてくれりゃいい。機嫌がいいか、悪いか。誰と飲んでるか。何を喋ってるか。それだけだ」
沢登は、しばらく佐々川の顔を見ていた。それから、照れくさそうに頭を掻いて、笑った。人の好さそうな、屈託のない笑顔だった。
「そんなことで、借金がなくなるなら」
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十八日 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
道場の門の前の行列は、巌流島のあとで、さらに長くなっていた。その列の一番後ろに、沢登は、綿入れ姿で並んでいた。
入門の試しの番が回ってきたのは、昼過ぎだった。マットの上で、信格が、腕を組んで待っていた。
巌流島から、六日が経っていた。新聞は、相変わらず、英雄と騙し討ちの両方を書きたてていた。空手家の大峰は、毎日のように、挑戦状を新聞に送りつけていた。信格は、そのどれにも応えていなかった。
目の前に、丸刈りの巨体が立った。
「元幕内の、沢登です。よろしく、お願いします」
沢登は、深々と頭を下げた。信格は、無言で、手刀を振り下ろした。入門の試しの、一撃目だった。
沢登の胸板に、乾いた音が響いた。たいていの者は、この一撃で、マットに沈む。沢登は、沈まなかった。二、三歩よろめいたが、両足を踏ん張って、立ち止まった。それから、胸に手を当てて、顔をしかめた。
「いってえ……」
次の瞬間、沢登は、両腕を左右に大きく広げた。自分の腋の下を、二の腕で、パカン、パカン、と叩きはじめた。大きな体が腋を締めるたびに、空気が弾ける妙な音が、道場に響き渡った。
パカン。パカン。パカン。
若い衆たちが、あっけにとられて見ていた。
「相撲の頃からの、癖なんですよ」
沢登は、照れくさそうに笑った。
「痛いときに、これをやると、なんか、気が紛れるんです」
道場の隅で、誰かが、ぷっと吹き出した。その笑いが、若い衆たちのあいだに、さざ波のように広がっていった。巌流島から六日間、この道場で、誰一人笑った者はいなかった。
信格は、腕を組んだまま、沢登を見下ろしていた。二撃目は、振り下ろさなかった。
「……明日から、来い」
沢登の顔が、ぱっと輝いた。
「ありがとうございますっ!」
昭和二十九年(一九五四年)十二月三十一日 東京・銀座 ナイトクラブ
大晦日の夜の、ナイトクラブの奥の席だった。信格の向かいで、沢登が、ブランデーの瓶をラッパ飲みしていた。
「くうっ、うめえ! オヤジ、こんな酒、生まれて初めて飲みました!」
オヤジ。入門して三日で、沢登は、信格をそう呼ぶようになっていた。付け人たちや天道が、力王さん、と呼ぶのとは違う、遠慮のない呼び方だった。
信格は、葉巻をくわえたまま、その顔を眺めていた。
この三日間、沢登は、何を言われても笑っていた。稽古で手刀を何十発浴びせても、腋をパカパカ鳴らして笑った。酒の燗がぬるいと怒鳴りつけても、すんません、と頭を掻いて笑った。夜中に呼び出して、明け方まで酒に付きあわせても、文句ひとつ言わなかった。
桜富士のように、劣等感を刺激されることもない。政木のように、恐れる必要もない。天道のように、腹の底が読めないこともない。ただ、でかい体で、馬鹿みたいに笑っている。
「おい、沢登」
「はいっ、オヤジ」
「お前、なんで相撲を辞めた」
沢登は、ブランデーの瓶を置いて、少しだけ真顔になった。
「親方と、金のことで揉めたんです。俺の取り分を、全部懐に入れやがって」
信格の葉巻の先が、一瞬だけ、赤く光った。十三年前、障子の隙間から見た、封筒。弟子の行く末を、金に換えた親方。
「……そうか」
「オヤジは、俺の取り分、ちゃんと払ってくれますよね」
沢登は、屈託なく笑った。
信格は、その顔を、しばらく見ていた。それから、懐から札束を取り出し、沢登の前に放り投げた。
「今年の、締めのギャラだ」
沢登は、目を丸くした。札束を両手で拾いあげ、頭の上に掲げて、子供のようにはしゃいだ。
「オヤジ! 一生、ついていきます!」
信格は、葉巻の煙を、天井に向かって吐き出した。ふっ、と、口元が緩んだ。
それは、いつもの乾いた笑いとは、少しだけ違っていた。巌流島の夜から、胸の奥に開いたままの空っぽの穴が、ほんの少しだけ、埋まったような気がした。この馬鹿のそばにいるときだけは。
窓の外で、除夜の鐘が鳴りはじめた。
同じ夜 銀座の裏通り
クラブの裏口の、公衆電話のボックスの中に、沢登は、大きな体を押しこんでいた。酔いで赤くなった顔のまま、受話器を耳に当てていた。
「……ええ。オヤジは、今夜はずっと、ご機嫌でしたよ」
受話器の向こうで、帽子を回す男が、くつくつと笑った。
「そうか、そうか。ほかに、何か喋ってたか」
「大峰の挑戦は、受けないそうです。あと、ハワイの桜富士さんが帰ってきたら、でかい外人と組ませて、たっぷりやられ役をやらせるって」
「ほう」
「それと、俺の取り分は、ちゃんと払ってくれました。いい人ですよ、オヤジは」
沢登は、屈託なく笑った。受話器の向こうの笑い声が、少しだけ、大きくなった。
「そうか。いい子だな、お前は」
受話器を置くと、沢登は、電話ボックスの扉を押し開けた。冷たい夜風が、火照った頬を撫でた。除夜の鐘が、銀座の空に、一つ、また一つと響いていた。
沢登は、両腕を広げて、腋をパカン、パカンと鳴らした。それから、上機嫌で、クラブの裏口へと戻っていった。
オヤジが、待っている。
昭和三十年(一九五五年)元日
日本じゅうの新聞が、新年の一面に、同じ男の写真を載せていた。紋付袴に身を包み、葉巻を手にして、カメラを睨みつける大男。
『昭和三十年、日本一の男』
アメリカの大男を叩きのめし、柔道王を粉砕し、日本じゅうを熱狂させた英雄。その足元に何が転がっているのかを、誰も知らなかった。
怪物の帝国は、ここから始まる。
第二章「偽りの大和魂」は、ここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
髷を切った崔信格は、朝鮮戦争の特需の中で現場の監督となり、ハワイで手刀を磨き、アメリカで「作り物の英雄」になる術を学びました。そして、敗戦の日本へ、大和魂の化身として帰ってきます。
街頭テレビの前に群がる人々。日の丸の小旗。「力王山!」の大歓声。
その裏で、彼は恩人を叩き出し、友を噛ませ犬と呼び、念書に判を押さぬまま、柔道王・政木を日本じゅうの前で騙し討ちにしました。
昭和の巌流島。勝ったはずの男の胸に残ったのは、歓喜ではなく、冷たい空っぽの穴だけでした。
そして、彼はまだ知りません。自分が集めたと思っている仲間も、自分で選んだと思っている道も、その多くが、誰かの配った札だったことを。卓を囲む男たちが、すでに「首輪の締め方」と「次の英雄」の話を始めていることを。
明日からは、第三章「怪物の帝国」の投稿を始めます。
日本一の男となった力王山は、渋谷に城を建て、弟子たちを従え、帝国の頂点へと上りつめていきます。その足元に、ブラジル帰りのひょろ長い少年と、手帳に何かを書きつける大男が、やってきます。
英雄の仮面が、いよいよ顔の皮膚に貼りつきはじめる章です。引き続き、見届けていただければ幸いです。
『最低のヒーロー ~仮面の怪物・力王山物語~』を、どうぞよろしくお願いいたします。
木下店長




