第47話 号外
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十三日 夜明け前 東京・上野
駅前の広場は、ごみの海だった。
踏みにじられた新聞紙。割れた酒瓶。片方だけの下駄。昨夜、受像機の前に詰めかけた数千の群衆が、残していったものだった。受像機は、とうに片づけられ、木の台だけが、冷たい風の中に、ぽつんと立っている。
その台の下に、一人の女が、膝をついていた。
秀貞は、夜明け前から、ずっとそこにいた。泥と紙屑の中を、両手で、一つずつかき分けていた。昨夜、あの瞬間に、手から落ちたものを探していた。群衆に押され、揉まれ、気がつけば、前掛けのポケットは空になっていたのだ。
指先が、冷たい泥に沈む。紙屑をどける。割れた瓶の破片で、指が切れた。それでも、秀貞は、探しつづけた。
空が白みはじめた頃、木の台の脚の陰で、指先に、湿った布の感触が触れた。
秀貞は、それを両手で拾いあげた。白かった布は、泥と、誰かの下駄の跡とで、灰色に汚れていた。震える指で、布を開いた。
中の黒い髷は、無事だった。泥にまみれ、誰かに踏まれて、少しだけ形が崩れていた。それでも、ちゃんと、そこにあった。
秀貞は、髷を胸に抱きしめて、冷たい泥の上に、そのまま座りこんだ。しばらく、動けなかった。
同じ朝 東京・新橋
駅の売店の前に、人の列ができていた。刷りあがったばかりの朝刊の束が、紐を切られるそばから、飛ぶように売れていく。号外も、出ていた。
『力王山、柔道王を粉砕 日本一の座、決まる』
松木の新聞の一面には、大きな見出しが躍っていた。リングの上で、腕を高く掲げられた力王山の写真。その足元に倒れた政木の姿は、紙面の隅で、黒い影にしか見えなかった。
隣の売店には、別の新聞が並んでいた。
『騙し討ちか 政木、首と顔に重傷』
『試合前の取り決めはあったのか 関係者は口を閉ざす』
小さな見出しだった。それでも、立ち読みをしていた勤め人の何人かが、眉をひそめて、その記事を読みこんでいた。
さらに、その下段に、講道館の談話が載っていた。
『柔道を金に換え、見世物の舞台に立った者の末路である。講道館は、政木氏と一切の関わりを持たない』
騙し討ちにした男ではなく、倒された男を、突き放す言葉だった。
同じ朝 東京・目黒
信格は、誰もいない家の居間で、新聞の束を広げていた。天道が、夜明け前に、すべての新聞を一部ずつ買い揃えて届けてきたのだった。
松木の新聞は、英雄の勝利を書きたてていた。
『大和魂、ついに頂点へ』
『柔道王も歯が立たぬ、空手チョップの威力』
ほかの新聞のいくつかは、言葉を選びながら、疑いを滲ませていた。
『あまりにも一方的な結末』
『試合は、果たして真剣勝負だったのか』
信格は、一枚ずつ、それをめくっていった。どの新聞にも、自分の名前が躍っていた。どの新聞の写真の中でも、自分の腕が、高く掲げられていた。
それなのに、何も感じなかった。昨夜、控室で感じた、あの空っぽの穴が、朝になっても、まだ胸の奥に開いたままだった。
講道館の談話の記事のところで、信格の手が止まった。政木氏と、一切の関わりを持たない。信格は、その一行を、長いあいだ見つめていた。
俺が倒した男を、あいつの身内が、捨てた。
信格は、新聞を閉じた。窓の外では、師走の冷たい陽が、荒れた庭の松の枝を照らしていた。
同じ朝 東京・小石川 政木のアパート
佐伯は、夜中に一度、病院から駆け戻って、政木の言葉を伝えていた。帰れなくて、すまん、と。
文枝は、それを聞いて、布団の上で、長いあいだ黙っていた。
朝になって、佐伯が買ってきた新聞を、文枝は、震える手で広げた。写真の隅の、黒い影。それが、夫だった。
文枝は、新聞を膝の上に置いた。それから、枕元に置かれたままの、分厚い封筒に目をやった。昨日の昼、牛田先生が置いていった封筒だった。主人を、見てやってください。自分がそう言ったとき、先生は、振り返らなかった。
文枝は、細い指で、封筒を撫でた。それから、佐伯のほうを向いて、かすれた声で言った。
「……佐伯さん。病院へ、連れていってくださいな」
「でも、奥さん、そのお体じゃ」
「いいの」
文枝は、布団の上に、ゆっくりと起きあがった。熱で赤い頬に、涙の跡が光っていた。
「帰ってこられないなら、わたしが、行きます」
同じ日 昼 東京・池袋 大峰の道場
裏通りのバラックの二階の道場に、新聞記者たちが詰めかけていた。
板の間の正面に、大峰が、腕を組んで座っていた。目の下に、黒い隈ができていた。一睡もしていない顔だった。
「大峰さん。昨夜、リングに上がろうとしたというのは、本当ですか」
「本当だ」
大峰は、低い声で答えた。
「あれは、試合じゃない。柔道でも、空手でもない。組む前に、首を横から叩く。倒れた相手の顔を蹴る。ただの、騙し討ちだ」
記者たちの鉛筆が、走りだした。大峰は、膝の上で、瘤のように固まった拳を握りしめた。
「力王山に、言っておく」
道場が、静まり返った。
「あんたの手刀は、空手を名乗っている。だが、あれは空手じゃない。空手の名を、汚している」
大峰は、記者たちを見回した。
「俺と、やれ。台本も、念書も、取り決めもない。真剣勝負で、俺と、やれ」
大峰の声が、バラックの薄い壁を震わせた。
「逃げるなよ、力王山」
同じ日 夕刻 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所で、天道が、夕刊を机の上に広げた。
『空手家大峰、力王山に挑戦状 「真剣勝負で俺とやれ」』
信格は、葉巻をくわえたまま、その見出しを見下ろしていた。
写真の中の、四角い顔。眉の太い、目の据わった男。そして、瘤のように固まった、拳。
「どうしましょう、力王さん」
天道が、いつもの笑みを浮かべて訊いた。
信格は、答えなかった。写真の中の男の拳を、じっと見つめていた。
政木の手とは、また違う。組むための手ではない。叩き潰すための手だ。柱を打ちつづけた自分の掌と、同じ種類の手だった。いや、もっと硬い。
信格の背筋を、また、あの冷たいものが這いのぼった。
「……素人の挑戦は、受けねえ、と言っとけ」
信格は、葉巻の灰を、灰皿に落とした。
「プロレスは、プロの世界だ。道場の看板屋が、新聞の見出し欲しさに吠えてるだけだ、とな」
「承知しました」
天道は、にっこりと頷いて、帳面に書きつけた。
天道が出ていったあと、信格は、もう一度、夕刊の写真を手に取った。大峰の顔を、じっと見つめた。
四角い顔。太い眉。どこかで、見たことがあるような気がした。
いや、見たことがあるのではない。鏡の中で、毎朝、似たような顔を見ている気がした。同じ海を渡ってきた者の、顔だった。
信格は、新聞を、くしゃりと握り潰した。
気のせいだ。そう、思うことにした




