第46話 逆鱗
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十三日 午前一時 東京・銀座
その店は、占領の頃、アメリカの将校たちが夜な夜な通った店だった。
赤い革張りの椅子。白いテーブルクロス。壁には、テキサスの牧場の写真が、額に入れて飾られている。厨房の奥の鉄板から、肉の焼ける音と、脂の煙とが流れてくる。
看板の灯りは、とうに落ちていた。店の奥の個室にだけ、灯りがともっていた。
円い卓を、男たちが囲んでいた。松木。岸本。佐々川。岡田。そして、最後に扉を開けて入ってきたのは、大河原だった。外套の肩に、夜露が光っていた。
「病院か」
岸本が、静かに訊いた。
「ああ」
大河原は、外套を給仕に渡し、空いた椅子に腰を下ろした。
「政木は、生きてる。首と顔が、ひどいことになってるがな。しばらくは、歩くのもままならんそうだ」
給仕が、大河原の前に、分厚いステーキの皿を置いた。ナイフを入れると、赤い肉汁が、白い皿の上に滲み出した。大河原は、それを、黙って見下ろしていた。
「数字は、上々です」
松木が、手帳を開いて、穏やかに口を開いた。
「放送をご覧になった方は、関東だけで、推定数百万。三友電機の受像機は、明日からの注文が、二千台を超える見込みだそうです。宣伝部長が、電話口で声を震わせていました」
松木は、ワインを一口含んだ。
「それに、何より」
「政木の看板か」
岸本が、言葉を継いだ。
「ええ。あれほどの負け方をすれば、もう誰も、政木を柔道王とは呼びません。富山で囁かれていたプロ柔道の話も、これで二度と持ちあがらないでしょう」
松木は、眼鏡の奥で、静かに目を細めた。
「テレビに流せる格闘技は、一つで十分です。結果だけ見れば、望んだ以上の形になりました」
「結果だけ見れば、か」
佐々川が、フォークで肉を突き刺しながら言った。いつもなら帽子を指先で回しているその手が、今夜は、苛立たしげにテーブルを叩いていた。
「こっちは、えらい目に遭ったぜ」
「賭けか」
大河原が、短く訊いた。
「引き分けだって言うから、裏で、引き分けに張らせてたんだ。大口の旦那衆にも、まず固い勝負だと勧めてな」
佐々川は、ワインを一気に呷った。
「それが、あのざまだ。力王山の勝ちに張ってたのは、何も知らねえ素人ばかりよ。こっちは、胴元として、大穴を開けられた。旦那衆への言い訳も、どうしてくれる」
佐々川の目が、ぎらりと光った。
「台本を破ったのは、あの男だ。俺の懐から、あの男が金を抜き取ったのと、同じことだぜ」
「台本を守れない男に」
岸本が、ナイフとフォークを、皿の上に揃えて置いた。細面の顔に、表情はなかった。
「国の看板を、背負わせておくのか」
卓が、静まり返った。
「あの男は、今夜、日本じゅうの前で、日本人の柔道王を叩き潰した。新聞は、明日の朝、何と書く。英雄の勝利か。それとも、卑怯な騙し討ちか」
「両方でしょう」
松木が、穏やかに答えた。
「どちらに転ぶかは、こちらの書き方次第です」
「それにしても、だ」
岸本は、ワインのグラスを、指先で回した。
「我々が、あの男に何を背負わせているか、忘れてはいかん。反共の砦の、日本人の英雄だ。その英雄が、我々の手綱を振りほどいて、勝手に走りだした」
「まあまあ、皆さん」
岡田が、柔和な丸顔に笑みを浮かべて、口を挟んだ。
「損得で言うたら、今夜は大儲けでっせ。松木はんのテレビも、三友の受像機も、わしの西の小屋も、明日から客が押し寄せる。客は、あの男が次に何をしでかすか、見たがっとる。台本どおりの英雄より、何をするかわからん狂犬のほうが、よっぽど金になりますわ」
佐々川が、鼻を鳴らした。
岡田は、気にする様子もなく、ステーキの最後の一切れを口に運んだ。ゆっくりと噛み、飲みこむ。それから、ナイフとフォークを皿に揃えて置き、ナプキンで口元を拭った。
「若輩者のわしが言うのも、何ですけどな」
細い目が、卓を囲む男たちの顔を、一人ずつ、ゆっくりと見回していった。
「飼い犬に、噛まれんことですな」
卓が、しんと静まった。
佐々川が、ワインのグラスを、音を立ててテーブルに置いた。
「……わかってらあ」
吐き捨てるような声だった。いつも帽子を指先で回しながら笑っている男の顔から、笑みが消えていた。
大河原は、何も言わなかった。皿の上の、血のしたたる肉を見下ろしたまま、ゆっくりと、ナイフを置いた。
長い沈黙が流れた。厨房の奥から、鉄板の上で脂の弾ける音だけが、かすかに聞こえていた。
「念書は」
大河原が、低い声で言った。
「最後まで、届かなかったんだな」
「ええ」
松木が、頷いた。
「印鑑を道場に置いてきた、と。翌日、届けさせる、と。結局、一度も」
「最初から、押す気はなかったんだろうよ」
大河原は、葉巻を取り出し、端を噛み切った。火は、つけなかった。ただ、指のあいだで、ゆっくりと転がしていた。
「拾ってくれた東和の新堂を、平気で叩き出した。恩人の柔道屋を、日本じゅうの前で騙し討ちにした。紙一枚の約束も、守れねえ」
大河原の細い目が、卓の上の、誰もいない一点を見つめていた。
「台本を破った役者は、いずれ、俺たちの書く台本も破る」
誰も、何も言わなかった。
「いまは、泳がせておけ。岡田の言うとおり、あいつは、いま、金のなる木だ。切るには、まだ早い」
大河原は、葉巻を、卓の上に置いた。
「だが、首輪の締め方は、考えておけ」
岸本が、静かに頷いた。
「上野の女。北の娘。北へ送ろうとしてる金」
大河原は、一つずつ、指を折った。
「それと、もう一つ」
「もう一つ?」
松木が、眼鏡の奥で、目を細めた。
「あいつの、代わりだ」
大河原は、椅子の背にもたれかかった。
「狂犬を処分する日が来たら、その翌日から、テレビの前に立たせる英雄が要る。言うことを聞く、従順な英雄がな。いまから、目を光らせておけ」
松木は、手帳を開き、何かを書きつけた。岡田が、細い目で、大河原の横顔を見ていた。佐々川だけが、口元に、また薄い笑みを浮かべはじめていた。
給仕が、空いた皿を下げに来た。
大河原の皿の上には、ほとんど手のつけられていないステーキが、冷えて固まりかけていた。白い皿の縁に、赤い肉汁が、乾いた血のようにこびりついていた。




