第45話 血染
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十二日 夜 東京・蔵前国技館
リングの上に、血の溜まりが残っていた。白い照明の光を跳ね返して、黒々と光っている。政木は、その真ん中に、仰向けに倒れたままだった。
沖田が、その脇に膝をついていた。政木の首の下に、自分の蝶ネクタイを外して丸めたものを、そっと差し入れていた。
「動かすな。首を、動かすんじゃない」
沖田の声は、震えていた。
リングの下から、佐伯が、ロープをくぐって転がりこんできた。
「政木さん! 政木さんっ!」
政木の顔は、もう誰のものかわからないほどに腫れあがっていた。鼻からも、口からも、血が流れつづけている。そして、少しも潰れていなかったはずの耳が、赤黒く染まっていた。
佐伯は、政木の手を握った。冷たかった。
リングサイドで、警備の若い衆たちの腕を振りほどいた大峰が、エプロンに飛び乗った。ロープを乗り越え、政木の傍らに、膝から崩れるように座りこんだ。
「先生……」
大峰の太い指が、政木の血に濡れた額に、そっと触れた。
七年前、闇市の外れで、自分を愚連隊から救ってくれた男の額だった。それが、どうした、と言ってくれた男の額だった。
「先生……」
大峰の目から、涙がこぼれ落ちた。拳の骨が瘤のように固まった男が、子供のように、肩を震わせていた。
担架が、運ばれてきた。政木の体が、四人がかりで、ゆっくりと担架に載せられた。
観客席からは、まだ、歓声とも怒号ともつかない声が降りそそいでいた。誰かが、新聞紙を丸めて、リングに投げつけていた。誰かが、力王山の名前を叫んでいた。誰かが、泣いていた。
担架が、花道を運ばれていく。大峰が、その脇を、離れずに歩いていった。
同じ時刻 国技館 西の控室
信格は、控室の椅子に、一人で座っていた。付け人たちは、扉の外に追い出していた。
黒いタイツのまま、裸の上半身に、まだ油と汗と、政木の血とが、斑らにこびりついていた。
信格は、膝の上の自分の両手を見下ろしていた。右の掌の側面が、赤く腫れていた。何十回、何百回と、政木の首を、顔を、叩いた手だった。
扉が、小さく開いた。天道が、人懐っこい笑みを浮かべて、顔を覗かせた。
「おめでとうございます、力王さん」
信格は、顔を上げなかった。
「記者の連中が、外に山ほど詰めかけてますよ。日本一の男に、一言欲しいって」
天道は、扉の脇に立ったまま、帳面を開いた。
「なんて、言っておきましょうか」
長い沈黙が流れた。やがて、信格は、低い声で言った。
「……勝手に、書かせとけ」
天道は、にっこりと頷いて、帳面に何かを書きつけた。扉が、閉まった。
信格は、また自分の両手を見下ろした。いつか、ホテルの浴室で、皮が剥けるまで洗った手だった。今夜は、洗う気にもならなかった。
同じ夜 東京・赤坂 病院
担架が運びこまれたのは、赤坂の、あの白い病院だった。五年前、信格の肺に寄生虫の巣を見つけ、相撲はもう無理です、と告げた病院だった。
白い壁。白い天井。消毒液の匂い。磨きあげられた廊下を、担架が、音もなく滑っていく。
処置室の扉の前に、銀縁の眼鏡をかけた医師が立っていた。五年分、髪に白いものが増えていた。のちに、この病院の院長の椅子に座ることになる男だった。
医師は、担架の上の政木の顔を一瞥すると、表情一つ変えずに、看護婦たちに指示を出した。扉が、閉まった。
廊下の長椅子に、佐伯と大峰が、並んで腰を下ろした。二人とも、何も言わなかった。廊下の時計の針が、ゆっくりと、真夜中に近づいていった。
一時間ほどして、医師が、処置室から出てきた。
「首の筋を、ひどく痛めています。脳震盪も起こしている。歯が二本、折れています。鼓膜も、片方、破れている」
医師は、眼鏡の位置を指で直した。
「命に、別状はありません」
佐伯の肩から、力が抜けた。
「ただ」
医師は、淡々と続けた。
「しばらくは、まともに歩くことも難しいでしょう。柔道の稽古は、当分、無理です」
大峰の拳が、膝の上で、ぎりぎりと握りしめられた。医師は、それ以上何も言わずに、白い廊下の奥へ去っていった。
処置室に入ると、政木は、白いベッドの上で、目を薄く開けていた。顔じゅうに包帯が巻かれ、腫れあがった瞼の隙間から、かろうじて天井を見上げていた。
「政木さん……」
佐伯が、ベッドの脇に膝をついた。政木の唇が、かすかに動いた。佐伯は、耳を寄せた。
「……文枝に」
かすれた、ほとんど息だけの声だった。
「帰れなくて、すまん、と」
佐伯は、唇を噛みしめた。
夜には、この部屋に帰ってくる。今朝、政木がそう思って家を出たことを、佐伯は知らなかった。けれど、その言葉の重さだけは、痛いほど伝わってきた。
「……すぐに、伝えてきます」
佐伯は、立ちあがり、病室を飛びだしていった。
大峰は、ベッドの脇に立ったまま、政木の包帯の顔を、じっと見下ろしていた。政木の目が、ゆっくりと、大峰のほうへ動いた。
「……来て、くれたのか」
「先生」
「いい、拳を、してるな」
七年前、闇市の外れで言われたのと、同じ言葉だった。大峰は、何も答えられなかった。ただ、政木の傷だらけの手を、両手で包みこんだ。
同じ夜 病院の裏口
病院の裏口の、街灯も届かない暗がりに、小柄な老人が立っていた。牛田だった。
蔵前から、ここまで、ずっと歩いてきた。病室の窓の灯りを、見上げていた。中へ入ることは、できなかった。入って、何を言えばいいのか、わからなかった。わしが、お前の首を売った、とでも言うのか。
牛田は、冷たい夜風の中で、外套の襟を立てた。
病室の窓の灯りは、いつまでも消えなかった。
同じ夜 病院の院長室
病院の最上階の院長室に、灯りがともっていた。革張りのソファに、大河原が、葉巻もくわえずに座っていた。向かいに、白髪の院長が、背筋を伸ばして座っていた。
「政木の治療費は、こっちで持つ」
大河原が、低い声で言った。
「いくらかかってもいい。できる限りのことをしてやってくれ」
「承知いたしました」
院長は、深々と頭を下げた。
「それと、この件は、なるべく静かにな。新聞屋が嗅ぎ回っても、余計なことは言わんでくれ」
「心得ております」
大河原は、窓の外の、夜の赤坂の灯りを見下ろした。
「院長とは、古い付きあいだからな」
院長は、何も答えずに、ただ、もう一度、頭を下げた。その頭が上がるまで、大河原は、窓の外を見つめたまま、一言も口をきかなかった。




