第44話 騙討
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十二日 夜 東京・蔵前国技館
手刀が、落ちた。上から、斜め下へ。耳の下の、脈の通るところへ。
肉を打つ音ではなかった。骨の奥まで響く、鈍く、重い音だった。
政木の首が、横にがくりと折れた。ロープを背負ったまま、政木の体が、一瞬、宙に浮いたように見えた。
その目が、信格を見ていた。驚きでも、怒りでもなかった。ただ、わからない、という目だった。なぜ。
政木の膝が、ゆっくりと崩れかけた。柔道家の体が、本能で、信格の腕を掴もうとした。指が、油に濡れた肌の上で、空を切った。
二発目は、顔だった。開いた掌が、政木の頬を、真横から張り飛ばした。生まれてから一度も、拳で殴られたことのない顔だった。政木の顔が、横にねじれた。口の端から、赤いものが飛んだ。
三発目、首。四発目、顔。五発目、首。
信格の手は、止まらなかった。手刀と張り手とが、交互に、政木の首と顔に叩きこまれていった。政木は、ロープにもたれたまま、腕を上げることすらできなかった。
受け方を、知らないのだ。顔を、首を、横から叩かれたときの受け方を、この男の体は、何一つ知らなかった。
牛田の言葉が、信格の頭の中で鳴り響いていた。何が起きたのかもわからんまま、膝をつくだろう。
政木の膝が、マットについた。両手をついて、立ちあがろうとする。その顔を、信格は、蹴りあげた。
政木の体が、仰向けに倒れた。信格は、倒れた政木の上にのしかかり、その顔に、さらに張り手を浴びせた。一発、二発、三発。
政木の鼻から、口から、血が噴き出し、マットの上に広がっていった。そして、少しも潰れていなかったきれいな耳が、赤く染まっていった。
二十年のあいだ、誰一人触れることのできなかった男の顔を、信格の手が、初めて汚していた。
同じ時刻 国技館の館内
最初の数秒、館内は、静まり返っていた。一万二千の観客の誰もが、何が起きたのかわからなかった。
それから、悲鳴とも歓声ともつかない声が、地鳴りのように湧きあがった。
「やれっ! やっちまえ!」
「力王山! 力王山!」
「なんだ、これは……」
「おい、政木が動かねえぞ!」
歓声と怒号と悲鳴とが、国技館の鉄骨を揺らした。
リングサイドの最前列で、大峰が、椅子を蹴って立ちあがっていた。
「卑怯だっ!」
その声は、歓声にかき消された。大峰は、リングのエプロンに手をかけて、這いあがろうとした。周りにいた警備の若い衆が、四人がかりで大峰の体にしがみつき、引きずり下ろした。
「離せっ! あれは、柔道じゃない! 空手でもない! ただの、騙し討ちだっ!」
大峰の叫びは、誰の耳にも届かなかった。
二階席の一番後ろの柱の陰で、牛田は、目を閉じていた。いや、閉じかけて、また開いた。見届けなければならなかった。
自分の指が教えた場所に、手刀が落ちるのを。自分が育てた背骨が、自分の売った一言で、折られていくのを。
牛田の頬を、涙が伝っていた。それを拭おうともせず、牛田は、暗がりの中に立ちつくしていた。
特等席で、大河原の手から、葉巻が落ちた。床の上で、火の粉が散った。大河原は、それを拾おうともしなかった。細い目を、さらに細めて、リングの上の信格を見つめていた。
その隣で、松木が、静かに立ちあがった。実況席に向かって、片手を上げてみせた。放送を、止めるな。その仕草だった。
後ろの席で、岡田が、閉じた扇子で、自分の膝を軽く叩いた。
「……やりよった」
岡田は、喉の奥で、小さく呟いた。それが感嘆なのか、呆れなのか、誰にもわからなかった。
同じ時刻 リングの上
沖田が、二人のあいだに割って入った。信格の腕を掴み、全身の力で引き剥がそうとした。
「力王山! やめろ! もういい!」
信格の腕が、沖田の小さな体を、振り払った。沖田は、ロープ際までよろめいた。それでも、また飛びこんできた。今度は、倒れた政木の体の上に、自分の体を覆いかぶせた。
「やめろっ!」
信格の拳が、沖田の背中の上で、止まった。
沖田は、政木の上に覆いかぶさったまま、信格を見上げていた。その目は、怒っていなかった。ただ、ハワイの埠頭で、握り飯の包みを提げて立っていたときと、同じ目をしていた。悲しそうな目だった。
信格は、拳を下ろした。
沖田は、政木の顔を覗きこみ、それから、ゆっくりと立ちあがった。カウントを、取りはじめた。
「ワン」
政木は、動かなかった。
「ツー」
マットの上で、血の溜まりが、照明の光を跳ね返していた。
「スリー」
政木の指が、かすかに動いた。
「フォー」
立ちあがろうとして、肘が崩れた。
「ファイブ」
沖田の声は、震えていた。
「シックス。セブン。エイト。ナイン」
政木の目が、天井の照明を見上げていた。
「テン」
沖田は、両腕を、大きく交差させた。
十五分四十九秒
『試合終了! 力王山、ノックアウトで、政木を下しましたっ!』
実況の声が、裏返っていた。
沖田が、信格の右腕を取り、高く掲げた。その手は、ひどく冷たかった。一万二千の観客が、総立ちで、何かを叫んでいた。歓声なのか、怒号なのか、もうわからなかった。
信格は、腕を掲げられたまま、マットの上の政木を見下ろしていた。政木の唇が、動いていた。声にはならなかった。けれど、信格には、その言葉がわかった。
なぜ。
信格は、答えなかった。答えられなかった。
沖田の手から腕を引き抜き、血に濡れた自分の掌を見下ろした。あの雨の夜、柱を打ちつづけて、皮が裂け、木目を赤く染めた掌だった。十四年かけて研いだ殺意の型が、ようやく、本物の標的を倒したのだ。
勝った。日本じゅうの前で、柔道王に、勝った。
それなのに、胸の奥には、何もなかった。歓喜も、誇りも、安堵も。ただ、ひどく冷たい、空っぽの穴が、開いているだけだった。
同じ時刻
上野の駅前で、秀貞の手から、白い布の包みが、群衆の足元に落ちた。
京都の座敷で、千鶴が、光一の目を覆った手を、震わせていた。
広島の闇市で、勲夫が、グローブを握りしめたまま、立ちつくしていた。周りの大人たちが叫ぶ中で、少年だけが、黙っていた。
横浜の電器屋の店先で、寛人の祖父が、膝から崩れ落ちていた。
「嘘や……あの政木が……あんな……」
寛人は、祖父の体を支えながら、画面の中の黒いタイツの大男を見上げていた。その腕を、レフェリーが高く掲げている。寛人は、その男の顔を、焼きつけるように見つめていた。
十一歳の少年の目に、初めて、暗い火が灯った。
ホノルルの居間で、桜富士が、雑音まじりのラジオの前で、両手で顔を覆っていた。
「……力王」
その声は、誰にも届かなかった。




