第43話 決闘
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十二日 夜 東京・蔵前国技館
ゴングの余韻が消えても、二人は動かなかった。リングの対角に立ったまま、互いの目を見ていた。
一万二千の観客が、息を詰めていた。国技館の鉄骨の天井の下で、咳ひとつ聞こえなかった。
『……両者、動きません。睨みあいが続いております』
実況席の声が、静まり返った館内に、ぽつりと落ちた。
先に動いたのは、政木だった。すり足で、ゆっくりと前へ出てくる。腰を落とし、両手を胸の前に軽く開いている。柔道の、組み手を探る構えだった。
信格も、前に出た。リングの中央で、二人の手が、初めて触れあった。
政木の右手が、信格の左の手首を掴んだ。その瞬間、信格の背筋に、冷たいものが走った。
硬い。羽田で握手を交わしたときと、同じ手だった。いや、あのときよりも、ずっと重い。
けれど、政木の手は、すぐに滑った。
信格の腕には、控室で付け人に塗らせた油が、まだ残っていた。裸の肌の上を、政木の指が、掴みどころなく滑っていく。
政木の眉が、わずかに動いた。もう一度、掴みにくる。滑る。肩を掴もうとする。滑る。首の後ろに手を回そうとする。油に濡れた肌の上で、指が空を切る。
襟も、袖も、帯もない。柔道家の手が、組むための手がかりを、どこにも見つけられなかった。
信格は、政木の顔を見下ろしていた。政木の目は、静かだった。焦りの色は、見えなかった。ただ、何かを確かめるように、信格の目の奥を、じっと覗きこんでいた。
五分経過
台本どおりだった。
信格は、政木をロープ際まで押しこみ、胸板に空手チョップを叩きこんだ。乾いた音が、館内に響いた。観客が、一斉にどよめいた。
政木は、胸を張ったまま、それを受けた。痛がる素振りもなく、ただ胸を出して、受けた。
二発目、三発目。台本どおりの、見せるための手刀だった。音は大きいが、肉の奥までは届かない。アメリカで、本郷に教わった打ち方だった。
政木は、すべてを受けた。それから、ロープの反動を使って前に出ると、信格の腰に、両腕を回した。
次の瞬間、信格の巨体が、ふわりと浮いた。腰投げだった。信格の背中が、マットに叩きつけられた。館内が、割れんばかりの歓声に包まれた。
『政木、投げたあっ! 柔道王の腰投げ、炸裂!』
信格は、マットの上で、天井の照明を見上げていた。痛みは、なかった。
受身を、取らされていたのだ。投げられる瞬間、政木の腕が、信格の体が頭から落ちないように、ほんの一瞬だけ支えていた。見せるための投げだった。台本の上の、投げだった。
信格は、起きあがりながら、政木の顔を見た。政木は、もう背を向けて、リングの中央に戻っていた。
同じ時刻 リングサイド
最前列で、大峰は、身を乗り出していた。
政木先生は、手加減している。投げた瞬間に、相手の頭を守った。あれが本気の投げなら、あの大男の首は、いまごろ折れている。
大峰の膝の上で、拳が震えていた。
政木先生は、約束を守っている。見世物の台本の中で、それでも、柔道家として、礼を尽くしている。
大峰は、リングの上の政木の背中を、食い入るように見つめていた。あれが、本物だ。
二階席の一番後ろの柱の陰で、牛田は、腕を組んで立ちつくしていた。
投げの形を見ただけで、わかった。あいつは、台本どおりにやっている。わしの教えどおりに。
牛田の喉の奥で、何かが詰まった。
十分経過
二人は、ふたたびリングの中央で組みあっていた。
政木の両腕が、信格の首に回された。頭を抱えこむように、締めあげる。観客から見れば、柔道王が、相撲上がりの大男の首を締めあげている、迫力のある場面だった。
けれど、締めには、力が入っていなかった。見せるための、締めだった。
そのときだった。政木の顔が、信格の耳元に寄った。
「……台本どおりに、やるぞ」
低い、かすれた声だった。酒の匂いが、かすかに混じっていた。
信格の全身の毛が、逆立った。
台本どおりに。本当に、そうか。
この男は、富山の宿で、佐伯に何と言ったのか。昨夜、何を口説かれたのか。天道は、そこまでは聞こえなかった、と言った。
試合の前、沖田が控室に伝えに来た。思うように、やる、と。
信格の首を抱える政木の腕が、ほんの一瞬だけ、硬く締まった気がした。気のせいか。それとも。
信格は、首を振りほどいた。二人の体が、離れた。
政木は、何事もなかったように、また腰を落とし、構えを取った。その顔は、静かだった。信格には、その静けさが、何よりも恐ろしかった。
十五分経過
台本では、ここから信格の攻めだった。ロープ際に政木を押しこみ、空手チョップの連打を浴びせる。政木は場外に落ち、リングアウトで、一本目は信格が取る。
信格は、政木をロープ際へ追いつめた。政木は、台本どおりに、ロープを背負った。両腕を、わずかに開いた。胸を、出した。
チョップを受けるための体だった。見世物の、体だった。
政木の顔が、白い照明の中に、まっすぐに浮かんでいた。酒のせいか、目の縁が、ほんのりと赤い。
そして、その横顔の、耳の下。少しも潰れていない、きれいな耳。その下の、脈の通るところ。
信格の目が、そこに吸い寄せられた。
十四年前、稽古場の柱の、ちょうど人の首の高さに、何万回と打ちこんだ場所だった。牛田の指が、自分の首の横に当てられた光景が、脳裏に浮かんだ。
ここだ。
観客の歓声が、遠くなった。実況の声も、聞こえなくなった。白い光の中に、政木の首だけが、浮かんでいた。
信格の右手が、ゆっくりと、上がった。




