第42話 電波
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十二日 夜 東京・上野
駅前の受像機の前は、人いきれで、息が詰まりそうだった。秀貞は、群衆の一番後ろで、前掛けの端を握りしめていた。
小さな画面の中に、リングが映っている。白い光の中に、四本のロープが浮かびあがっている。
テレビは見るな、と言われた。あの人が、あんな顔をしてそう言ったのは、初めてだった。
秀貞は、前掛けのポケットの中に、手を入れた。指先に、白い布の感触があった。押し入れの奥から、今夜だけ、持ち出してきたものだった。布の中の、黒い髷の、ざらりとした手触り。
秀貞は、それを握りしめたまま、画面を見上げた。
同じ夜 京都・祇園
料亭の奥の座敷に、真新しい受像機が据えられていた。店の主人が、贔屓の客たちのために、大枚をはたいて買い求めたものだった。座敷には、芸妓や仲居や、近所の旦那衆までが詰めかけていた。
その一番後ろの、襖の陰に、千鶴が座っていた。膝の上に、四つになる光一を抱いていた。
千鶴は、画面を見ようとしなかった。ただ、光一の小さな手を、ぎゅっと握っていた。
画面に、黒いタイツの大男が、花道を歩いてくる姿が映った。座敷が、どっと沸いた。
「力王山や!」
「行け、力王山!」
光一が、千鶴の膝の上で、身を乗り出した。大きな目で、画面の中の男を、じっと見つめていた。
「……おかあちゃん」
光一が、画面を指さした。
「あの人、だれ?」
千鶴は、答えなかった。答えられなかった。光一の小さな体を、後ろから強く抱きしめた。
画面の中の男は、白い光の中で、両腕を突きあげていた。
同じ夜 広島
焼け跡の上に建った駅前の闇市の外れに、受像機が一台、据えられていた。
九年前、この街の空で、白い光が炸裂した。その光の中を、生き延びた子供たちがいた。
人垣の一番後ろで、一人の少年が、背伸びをして画面を見上げていた。
十四歳。ひょろりと背が高く、日に焼けた細い腕に、野球のグローブを抱えていた。朝鮮人の多い長屋で生まれ、母が営む小さな飯屋の手伝いをしながら、毎日、河原で球を打っていた。
朝鮮の名前は、張。日本では、張音勲夫と名乗っていた。のちに、日本の野球界で、前人未到の記録を打ち立てる男である。
画面の中に、力王山の姿が映った。勲夫の目が、輝いた。
この街の大人たちは、誰もが力王山の話をしていた。アメリカの大男を、手刀で薙ぎ倒す。日本人の誇りを、取り戻してくれる。けれど、勲夫が聞いたのは、別の話だった。
ある晩、飯屋の隅で酒を飲んでいた朝鮮人の大人たちが、声を潜めて話していた。
〈あの力王山、本当は、こっちの生まれらしいぞ〉
〈まさか〉
〈北のほうの村の出だと、聞いたことがある〉
勲夫は、その話を聞いた夜、一睡もできなかった。日本じゅうが拝んでいる英雄が、もしかしたら、自分と同じなのかもしれない。
誰にも言えない秘密を、勲夫は、胸の奥に抱えていた。
画面の中の男を見上げながら、勲夫は、グローブを握りしめた。
〈……力王山みたいに、強くなりたい〉
朝鮮の言葉で、誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
同じ夜 横浜
港の見える坂の上の、商店街の電器屋の店先に、人だかりができていた。その中に、和服の老人と、背の高い少年がいた。
熊木寛人。のちの、アナーキー熊木である。
十一歳だった。年の割に、手足がひょろりと長い。五つの年に父を亡くし、家は傾き、母と兄たちは、毎日のように金の算段をしていた。
「よう見とけ」
祖父が、寛人の肩に、骨ばった手を置いた。
「あの黒いタイツの、四角い顔の男だ。あれが、政木だ」
画面に、政木の姿が映っていた。花道を、背筋を伸ばして、まっすぐに歩いてくる。笑いもしない。観客に手を振りもしない。ただ、前だけを見ている。
「あれが、本物の日本の男だ」
祖父の声は、低く、熱っぽかった。
「柔道は、嘘をつかん。あの男は、一度も負けたことがない。ブラジルに渡って、向こうの一番強い男の腕を、へし折ってきた」
寛人は、画面の中の政木を、食い入るように見つめていた。
「お前も、ああいう男になれ。どんなに貧しくても、どんなに落ちぶれても、背筋だけは、まっすぐに伸ばしてな」
寛人は、黙って頷いた。祖父の手の温もりを、肩に感じながら。その名前を、胸に刻んだ。
政木。本物の、日本の男。
同じ時刻 ハワイ・ホノルル
日付が変わったばかりの、深い夜だった。
沖田の小さな家の居間で、桜富士は、ラジオの前に座っていた。日系人の放送局が、東京からの短波放送を、そのまま流していた。雑音まじりの実況の声が、遠い海の向こうの国技館の熱気を伝えてくる。
家主の沖田は、レフェリーとして日本へ渡っている。留守を預かる桜富士は、毎朝ワイキキの砂浜を走り、沖田に言いつけられた稽古を、一日も欠かさず続けていた。受身を、何千回と取った。力王に言われたとおりに。
「……力王」
桜富士は、ラジオに向かって、ぽつりと呟いた。
力王のことも、政木のことも、知っている。片方は、行き場のない自分を拾ってくれた男。片方は、角界で何度か酒を酌み交わした、まっすぐな柔道家。どちらにも、怪我だけはしてほしくなかった。
雑音の向こうで、実況の声が、ひときわ高くなった。
『いよいよ、両雄がリングに上がりました!』
同じ時刻 東京・蔵前国技館
リングの真ん中で、沖田が、二人の男を向かいあわせた。
片方は、黒いタイツの、岩のような大男。片方は、黒いタイツの、首の太い、耳のきれいな男。二人の目が、白い光の中で、初めて正面からぶつかった。
リングサイドの最前列で、大峰が、膝の上の拳を握りしめた。二階席の一番後ろの柱の陰で、牛田が、目を見開いた。特等席で、大河原が葉巻を口から外し、松木が手帳を閉じ、岡田の扇子が止まった。
上野で、秀貞が、前掛けのポケットの中の髷を握りしめた。京都で、千鶴が、光一の目を、そっと手で覆った。広島で、勲夫が、グローブを胸に抱きしめた。横浜で、祖父が、寛人の肩を強く掴んだ。ホノルルで、桜富士が、ラジオに耳を押し当てた。
沖田が、リングの中央から、一歩下がった。右手を、高く上げた。それから、振り下ろした。
カーン。
ゴングの音が、一万二千の観客の頭上を越え、受像機の小さなスピーカーを震わせ、海を渡る電波に乗って、日本じゅうに、そしてその先まで、鳴り響いた。




