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第41話 贖罪

 昭和二十九年(一九五四年)十二月二十二日 朝 千葉・松戸


夜明け前に、牛田は目を覚ました。いや、一晩じゅう、眠ってなどいなかった。


茅葺きの屋根の下の、冷えきった座敷で、牛田は、布団の上に座りこんでいた。枕元には、空になった一升瓶と、分厚い封筒が置いてある。八日前、力王山が縁側に置いていった封筒だった。一度も、封を切っていなかった。


牛田は、封筒を手に取った。重かった。


十五の歳から、あいつに稽古をつけた。毎日八時間。腕立てを千回、打ちこみを千回。わしのやり方を、全部、あの体に叩きこんだ。その体の、一番弱いところを、わしは、この口で金に換えた。


首だ。耳の下の、脈の通るところ。


牛田は、自分の首の横に、指を二本当てた。八日前、力王山の前で、同じように当ててみせた指だった。その指が、震えていた。


牛田は、封筒を懐にねじこみ、外套を羽織って、まだ暗い家を出た。


同じ日 昼前 東京・小石川 政木のアパート


古い木造のアパートの、軋む階段を上った。二階の、一番奥の部屋だと聞いていた。


牛田は、扉の前で、しばらく立ちつくしていた。


何と言えばいい。やめろ、と言うのか。あの男は、お前の首を狙っている、と。わしが、それを教えたのだ、と。


牛田は、扉を叩いた。返事は、なかった。もう一度叩くと、中から、細い咳と、かすれた女の声がした。


「……どうぞ。開いております」


扉を開けると、六畳一間の部屋の真ん中に、薄い布団が敷いてあった。布団の中から、痩せこけた女が、体を半分起こして、こちらを見ていた。頬だけが、熱で赤い。


枕元には、白い紙に包まれた薬の束があった。部屋の隅には、空の一升瓶が転がっている。畳は擦り切れ、障子には、継ぎがいくつも当てられていた。


世界で一度も負けなかった男の、住まいだった。


「……主人は、もう出かけました」


女は、牛田の顔を見上げた。それから、何かに気づいたように、目を見開いた。


「もしや……牛田先生では、ございませんか」


牛田は、答えられなかった。


女は、震える手で布団の上に正座し直し、深々と頭を下げた。


「文枝でございます。主人が、いつもお世話になっておりました」


「……わしは、もう、あいつの師匠じゃない」


「いいえ」


文枝は、顔を上げた。


「主人は、いまでも、先生のことを話します。酒に酔うと、必ず。先生に叩きこまれたことだけが、自分の背骨だと」


牛田の喉の奥で、何かが詰まった。


「礼に始まり、礼に終わる。一度組んだら、相手を疑うな。一度約束したら、破るな。……主人は、先生のその教えを、今日も守りに行ったんです」


文枝は、小さく咳きこんだ。


「わたしは、思うように戦って、と言いました。でも、主人は、きっと、先生の教えどおりにやると思います」


牛田は、その場に立ちつくしていた。懐の封筒が、ひどく重かった。


やがて、牛田は、黙って膝をつき、懐から封筒を取り出した。文枝の枕元の、薬の束の横に、そっと置いた。


「……先生、これは」


「あいつの、ギャラの足しにしてくれ」


牛田は、文枝の顔を見ずに言った。


「わしが、あいつに払うべきだった金だ」


文枝が何か言いかけたときには、牛田はもう立ちあがり、背を向けていた。


扉を閉めるとき、背中越しに、細い声が追いかけてきた。


「先生。今日、主人を、見てやってください」


牛田は、振り返らなかった。


軋む階段を下りながら、牛田は、手の甲で目元を乱暴に拭った。


力王山の金が、政木の女房の薬代になる。弟子を売った金で、弟子の女房を生かす。そんなことで、何かが帳消しになるわけではない。わかっていた。


同じ日 夕刻 東京・蔵前国技館


国技館の周りは、人の波で埋め尽くされていた。


牛田は、切符を持っていなかった。入口の脇で、ダフ屋が、立ち見の切符を法外な値で売りさばいていた。牛田は、財布の底をはたいて、一枚を買った。


館内に入ると、熱気と煙草の煙とが、むっと顔を打った。一万二千の観客が、通路にも、階段にも、ぎっしりと詰まっている。


牛田は、人波をかき分けて、二階席の一番後ろの、柱の陰の暗がりに立った。


リングは、ずっと遠くにあった。四角いリングの上に、白い光が落ちている。その周りを、黒山の群衆が取り囲んでいる。リングサイドの最前列には、背広の男たちと、着物の女たちと、四角い顔の、拳の太い男が一人、座っていた。


牛田は、柱にもたれかかり、腕を組んだ。


十五の少年だったあいつが、初めて道場の門を叩いた日のことを、思い出していた。痩せっぽちで、目ばかりぎらぎらした少年だった。強くなりたいです、と言った。誰よりも、強くなりたいです、と。


館内の照明が、落ちた。リングの上だけが、白い光の中に浮かびあがった。一万二千の観客のどよめきが、地鳴りのように、国技館の鉄骨を揺らした。


牛田は、暗がりの中で、目を閉じた。それから、もう一度、目を開けた。


見届けなければならなかった。自分が売ったものが、どうなるのかを。



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