第40話 控室
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十二日 朝 東京・小石川 政木のアパート
目が覚めると、頭が、割れるように痛んだ。
政木は、薄い布団の上で、ゆっくりと体を起こした。枕元には、空になった一升瓶が転がっている。障子の向こうが、白々と明るくなりはじめていた。隣の布団で、妻の文枝が、浅い咳をしていた。
政木は、自分の両手を見下ろした。
昨夜、佐伯には、ああ言った。判を押したのだ、と。けれど、一晩眠って目が覚めたいま、胸の奥で、別の声がしていた。
噛ませ犬には、ちょうどいい。あの男は、念書に判を押さなかった。組めば、勝てる。日本じゅうの前で、三秒で、あの男を落とせる。
政木は、拳を握りしめた。
「……あなた」
細い声がした。振り返ると、文枝が、布団の中から政木を見上げていた。熱のせいか、頬だけが赤く、目が潤んでいた。
「今日、でしょう」
「ああ」
文枝は、布団から細い手を出して、政木の膝に、そっと置いた。骨と皮ばかりの、軽い手だった。
「わたしのことは、気になさらないで」
政木は、黙って、その手を見下ろしていた。
「お薬のことも、お金のことも。わたしのために、あなたが我慢することはないの」
文枝は、小さく咳きこんでから、弱々しく笑った。
「あなたの、思うように、戦ってください」
政木は、長いあいだ、何も言えなかった。
思うように。十五の歳から、牛田先生に叩きこまれたこと。礼に始まり、礼に終わる。一度組んだら、相手を疑わない。あの座敷で、念書に押した判。判を押さなかった、あの男の手。噛ませ犬には、ちょうどいい。
政木は、文枝の細い手を、両手で包みこんだ。
「……思うように、やる」
政木は、立ちあがった。押し入れの奥から、擦り切れた柔道着を取り出した。十五の歳から着つづけてきた、汗と血の染みた道着だった。
政木は、それを、しばらく両手で持っていた。それから、丁寧に畳み直して、押し入れに戻した。
代わりに風呂敷に包んだのは、松木の事務所から届けられた、黒いタイツだった。道着では、客に体の線が見えない。テレビに映えない。そう言われていた。
戸口に立って、政木は、もう一度だけ振り返った。文枝は、布団の中から、政木を見送っていた。
政木は、深く頷いて、扉を閉めた。夜には、この部屋に帰ってくる。
同じ日 夕刻 東京・蔵前国技館
国技館の周りは、日が落ちる前から、人の波で埋め尽くされていた。
切符を持たない者たちが、入口の前で押しあいへしあいし、警官隊が笛を吹き鳴らして、群衆を押し返している。
『プロレスの力王山か、柔道の政木か』
『昭和の巌流島、ついに決着』
国技館の壁に貼られた巨大な看板に、墨書きの文字が躍っていた。
館内は、一万二千の観客で、立錐の余地もなかった。通路にも、階段にも、人が座りこんでいる。煙草の煙が、天井の鉄骨のあたりに、白く澱んでいた。
リングサイドの最前列に、大峰が座っていた。膝の上で、太い拳を握りしめていた。
同じ頃、新橋の駅前の広場にも、数千の群衆が詰めかけていた。三友電機の商標を掲げた受像機の前で、人々は、肩を寄せあって画面を見上げていた。
上野の駅前の受像機の前にも、黒山の人だかりができていた。その群衆の一番後ろに、前掛けをつけた女が、一人、立っていた。
テレビは見るな、と言われていた。それでも、秀貞は、来てしまった。
同じ時刻 国技館 東の控室
東の控室で、政木は、黒いタイツ一枚で、鏡の前に立っていた。
裸の胸。裸の腕。掴むべき襟も、袖も、どこにもない。自分のものにも、相手のものにも。柔道家が組むための手がかりを、すべて剥ぎ取られた体だった。
佐伯が、黙って、その背中を見つめていた。
「……政木さん。昨夜の話ですけど」
「思うように、やる」
政木は、振り返らずに言った。
佐伯は、息を呑んだ。それがどちらの意味なのか、訊き返すことはできなかった。
政木は、裸の両手を、ゆっくりと握りしめた。こめかみの奥で、昨夜の酒が、まだ鈍く脈打っていた。
同じ時刻 国技館 西の控室
西の控室で、信格は、鏡の前に座っていた。
黒いタイツ。裸の上半身。何万回と柱を打ち、何百人を叩きのめしてきた、分厚い掌。付け人が、背中に油を塗っている。天道が、扉の脇に立って、帳面を手に、黙っていた。
信格は、鏡の中の自分の顔を見つめていた。落ち着いていた。昨夜から、一度も、手は震えていなかった。
控室の扉が、小さく叩かれた。入ってきたのは、沖田だった。白いシャツに、蝶ネクタイ。レフェリーの格好だった。
「さっき、向こうの控室にも行ってきたよ」
沖田は、穏やかに言った。
「政木さんは、落ち着いてた。思うようにやる、と言ってた」
信格の目が、鏡の中で、わずかに細められた。
思うように。台本どおりに、ではなく。
「……そうか」
沖田は、しばらく黙って、信格の背中を見ていた。それから、静かに言った。
「力王山。わしが、リングの真ん中に立つ」
「わかってる」
「何かあったら、わしが止める」
信格は、答えなかった。
沖田は、少しのあいだ、鏡の中の信格の目を見つめていた。何かを確かめるように。やがて、小さく息をついて、控室を出ていった。
扉が、閉まった。
信格は、立ちあがった。両手を、ゆっくりと持ちあげた。手の側面を、刀のように立てる。上から、斜め下へ。耳の下の、脈の通るところ。
空気を切る音が、控室の中に、小さく響いた。
同じ時刻 国技館 リングサイド
リングサイドの特等席に、大河原と松木が並んで座っていた。その少し後ろに、岡田が、上品な着物姿で、扇子をゆっくりと動かしていた。
「いい入りだな」
大河原が、葉巻をくわえたまま、満員の館内を見回した。
「テレビのほうは、新橋だけで五千人だそうです」
松木が、手帳を見ながら答えた。
「三友の宣伝部長は、今夜だけで受像機が千台は売れると、ほくほく顔でした」
「台本は、二人とも承知してるんだな」
「政木さんは、念書に判を押しています」
松木は、少し間を置いた。
「力王山さんのは、まだ、届いていません」
大河原の葉巻の先が、一瞬だけ、赤く強く光った。後ろの席で、岡田の扇子が、ぴたりと止まった。
館内の照明が、落ちた。リングの上だけが、白い光の中に浮かびあがった。
一万二千の観客のどよめきが、地鳴りのように、国技館の鉄骨を揺らした。




