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第39話 本物

 昭和二十九年(一九五四年)十二月二十一日 東京・池袋


裏通りの、古いバラックの二階だった。


板張りの床は、何十人もの足に踏みしめられて、黒く艶光りしていた。壁際に、一本の柱が立っている。人の背丈ほどの高さに、藁が幾重にも巻きつけてあった。藁は、血と汗で茶色く変色し、ところどころが擦り切れていた。


裸電球の下で、十人ほどの若者たちが、正面に向かって一列に並んでいた。腰を落とし、拳を腰に引きつける。


「エイッ!」


一斉に、右の拳が突き出された。


「エイッ!」


左の拳。


「エイッ! エイッ! エイッ!」


気合いの声が、バラックの薄い壁を震わせた。汗が床に滴り落ち、裸電球の光の中で、湯気のように白く立ちのぼっていく。


「腰が、浮いてる」


低い声が、道場に響いた。若者たちの拳が、ぴたりと止まった。


板の間の正面に、一人の男が立っていた。


背は、さほど高くない。けれど、肩から胸にかけての肉が、岩を削り出したように盛りあがっていた。短く刈りこんだ頭に、眉の太い、四角い顔。そして、硬い両の拳。拳の骨の出っ張りが、何千回、何万回と何かを打ちつづけて、瘤のように固まっていた。


大峰倍道だった。


「拳は、腕で突くんじゃない。足の裏から、腰を通して、全身で突け」


大峰は、柱の前に立った。腰を落とし、息を吐いた。


次の瞬間、拳が、藁に吸いこまれた。柱が、みしりと鳴った。道場の若者たちが、息を呑んだ。


大峰は、拳を引き、何事もなかったように振り返った。


「今日は、ここまでだ」


稽古が終わると、若者たちは床を拭き、汗を拭いながら、口々に明日の話を始めた。


「先生、明日、蔵前に行かれるんですよね」


「どっちが勝つと思いますか。力王山ですか、政木さんですか」


大峰は、窓際に腰を下ろし、湯呑みの茶を一口すすった。


「政木先生だ」


迷いのない声だった。


「力王山の空手チョップなんぞ、空手じゃない。手の横っ面で胸を叩いて、音を鳴らしてるだけだ。あれを空手だと思われたら、空手の恥だ」


大峰は、湯呑みを置いた。


「明日、本物の武道家が、あの見世物屋の化けの皮を剥がしてくれる」


若者の一人が、目を輝かせた。


「先生は、政木さんと、知りあいなんですか」


大峰は、少しのあいだ、黙っていた。それから、懐から一枚の切符を取り出して、若者たちに見せた。蔵前国技館の、リングサイドの切符だった。


「政木先生が、直々に、くれたんだ」


昭和二十二年(一九四七年) 東京・水道橋


七年前のことを、大峰は思い出していた。


戦争が終わって、二年が経っていた。焼け跡の闇市で、大峰は、喧嘩で日銭を稼いでいた。


海の向こうの、南の村で生まれた。十四のときに、日本へ渡ってきた。朝鮮の名前は、姜昌秀といった。空手を覚えたのは、強くなければ、この国で生きていけなかったからだ。


ある晩、闇市の外れで、四、五人の愚連隊に囲まれた。


「おい、朝鮮。でけえ面して歩いてんじゃねえ」


大峰は、黙って拳を握った。そのとき、背後から、低い声がした。


「やめとけ」


振り返ると、一人の男が立っていた。首が異様に太く、耳だけが、生まれたままのようにきれいな男だった。


愚連隊の一人が、男の顔を見て、青ざめた。


「……ま、政木だ」


男たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。政木は、大峰の顔を、じっと見た。


「いい拳をしてるな」


「……俺は、朝鮮の生まれだ」


大峰は、挑むように言った。政木は、首をかしげた。


「それが、どうした」


それだけ言って、政木は、闇市の灯りの中に歩き去っていった。


それから、大峰は、何度か政木の稽古場を訪ねた。政木は、一度も、大峰の生まれのことを口にしなかった。ただ、黙って組み、黙って投げ、黙って酒を飲んでいた。


この国に来て、初めて、生まれではなく拳を見てくれた日本人だった。


同じ夜 東京・池袋


若者たちが帰ったあと、大峰は、一人で道場に残っていた。窓の外の夜空を見上げながら、明日の切符を、指先で撫でていた。


テレビで、何度か、力王山の試合を見たことがある。


アメリカの大男を、手刀で薙ぎ倒す。客が日の丸を振って、泣いて喜ぶ。新聞は、大和魂の英雄だと書きたてる。長崎の生まれの、対馬光夫。


けれど、大峰は、あの男を見るたびに、胸の奥で、ざらりとした何かが引っかかった。リングの上で両腕を突きあげるときの、あの顔。歓声を浴びながら、どこか遠くを見ている、あの目。


大峰は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。


「……あの男」


ぽつりと、呟いた。


「どこか、俺と同じ匂いがする」


海を渡ってきた者の匂い。名前を捨てた者の匂い。本当の自分を、誰にも見せずに生きている者の匂い。


大峰は、首を振った。気のせいだ。あの男は、日本人の英雄だ。


大峰は、明日の切符を懐にしまい、柱の前に立った。腰を落とし、息を吐いた。拳が、藁に吸いこまれた。柱が、みしりと鳴った。


明日、本物が勝つ。大峰は、そう信じていた。



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