第38話 前夜
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十一日 東京・小石川 政木のアパート
古い木造のアパートの二階で、政木は、一升瓶の栓を抜いた。
薄い布団の中で、妻が浅い寝息を立てている。枕元には、白い紙に包まれた薬の束が置いてあった。明日の試合のギャラで、年明けまでの分を、ようやく前払いできた薬だった。
向かいに、佐伯が正座していた。
「政木さん、明日の試合の前の晩ですよ。そんなに飲んで、大丈夫なんですか」
「大丈夫だ」
政木は、湯呑みに酒をなみなみと注いだ。
「昔からだ。大一番の前の晩は、こうしないと眠れん」
政木は、湯呑みを一気に呷った。それから、もう一杯、注いだ。
佐伯は、しばらく黙ってそれを見ていた。それから、膝の上で拳を握りしめ、意を決したように顔を上げた。
「政木さん」
「なんだ」
「明日、ブックを、破りましょうよ」
政木の手が、湯呑みの上で止まった。佐伯は、声を落として続けた。
「一本目、あいつが空手チョップで攻めてくる台本ですよね。でも、組んじまえば、こっちのもんです。政木さんに組まれたら、あいつは何もできない。道場で、三秒で固まってたじゃないですか」
政木は、何も言わなかった。
「投げて、絞めて、落とす。日本じゅうが見てる前で、力王山を叩き潰すんです」
佐伯の目が、熱っぽく光っていた。
「そうすれば、日本一は政木さんです。相撲の看板も、プロレスの看板も、全部、政木さんの足元に転がる。テレビも、新聞も、客も、みんな政木さんのところに来ます」
佐伯は、畳の上に両手をついた。
「プロレス……いや、プロ柔道を、もう一度立ちあげるチャンスですよ。本物の柔道で、本物の真剣勝負で、日本じゅうを沸かせるんです。今度こそ」
部屋の中が、静まり返った。布団の中で、妻が、小さく咳きこんだ。
政木は、湯呑みを膳に置いた。長いあいだ、黙って、窓の外の夜空を見ていた。やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「駄目だ」
「政木さん!」
「判を、押したんだ」
政木の声は、静かだった。
「あの赤坂の座敷で、俺は念書に名前を書いて、判を押した。引き分けにすると、約束した」
「でも、あいつは、政木さんのことを噛ませ犬だと……」
「わかってる」
政木は、佐伯の言葉を遮った。
「あの男が、俺をどう思ってるかは、わかってる。あいつが判を押さなかったのも、見てた」
佐伯が、息を呑んだ。
「それでも、俺は押した」
政木は、湯呑みに、また酒を注いだ。
「柔道は、礼に始まって、礼に終わる。相手がどんな男でも、一度約束したら、それを破るのは、柔道家じゃない。それに」
政木は、布団の中の妻の寝顔に、目を落とした。
「この薬代は、引き分けのギャラで払ったんだ。台本を破って勝ったところで、あの連中が、まともに金を払うと思うか」
政木は、湯呑みを呷った。
「明日は、台本どおりにやる。一本目は、あいつのチョップを受ける。二本目は、俺が腕を取る。三本目は、時間切れだ」
政木は、佐伯の肩に、大きな手を置いた。
「プロ柔道の話は、そのあとだ。春の再戦で、もう一度金を作って、それからでいい」
佐伯は、うなだれたまま、何も言えなかった。
政木は、その夜、一升瓶を、一人で空けた。
窓の外の階段の下で、誰かの足音が、静かに遠ざかっていった。
同じ夜 東京・上野 秀貞の部屋
秀貞の部屋の扉を開けたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
信格は、何も言わずに上がりこみ、六畳間の真ん中に、どさりと腰を下ろした。秀貞は、繕い物の手を止めて、顔を上げた。
〈明日、だったね〉
信格は、答えなかった。
秀貞は、黙って湯を沸かし、茶を淹れて、信格の前に置いた。信格は、湯呑みに手をつけなかった。ただ、膝の上に置いた自分の右手を、じっと見下ろしていた。
秀貞は、その横顔を、しばらく見つめていた。
新京の娼館の奥の部屋で、初めて会った夜の顔を、覚えている。神宮外苑で、知らねえな、と言い放った顔も。安宿で、本当に俺の子か、と言った顔も。髷を切り落とした夜の顔も。
けれど、今夜の顔は、そのどれとも違っていた。怒っているのでも、怯えているのでもない。何かを、もう決めてしまった顔だった。
〈……シンラック〉
秀貞が、小さく呼んだ。信格は、顔を上げなかった。
〈何を、決めたの〉
信格の右手が、膝の上で、ゆっくりと握りしめられた。長い沈黙が、六畳間に落ちた。
やがて、信格は立ちあがった。背広を羽織り、扉に手をかけた。
〈明日、テレビは見るな〉
それだけ言って、信格は部屋を出ていった。
秀貞は、閉まった扉を、長いあいだ見つめていた。それから、押し入れの奥から、白い布に包んだ黒い髷を取り出し、膝の上に抱いた。
同じ夜 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所の扉を開けると、灯りの下で、天道が待っていた。
「遅かったですね、力王さん」
天道は、いつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。
「小石川に、行ってきましたよ。政木さんのアパート」
信格は、葉巻に火をつけた。
「佐伯の奴が、政木さんに持ちかけてました。明日、ブックを破りましょう、って。組んで、投げて、絞めて、日本じゅうの前で、力王さんを叩き潰しましょう、って」
信格の手が、葉巻の上で止まった。
「力王山を潰したら、日本一は政木さんだ、プロ柔道をもう一度立ちあげるチャンスだ、って。だいぶ熱っぽく、口説いてましたよ」
天道は、そこで、言葉を切った。にっこりと、笑ったまま。
「……で、政木は」
信格の声が、低く掠れていた。
「何と答えた」
天道は、帳面を閉じた。
「さあ。階段の下からじゃ、そこまでは、聞こえませんでした」
信格は、天道の顔を見つめていた。天道は、少しも表情を変えなかった。
やがて、信格は、葉巻の煙を、ゆっくりと吐き出した。
「……そうか」
天道が一礼して、事務所を出ていった。階段を下りていく足音が、遠ざかっていった。
信格は、一人、窓辺に立ちつくしていた。
台本を破ろうとしているのは、自分だけではなかった。いや、政木は、本当に破るつもりなのか。破らないつもりなのか。
どちらにしても、明日、先に手を出したほうが、勝つ。
信格は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめていた。その顔には、もう、迷いはなかった。




