第37話 恐怖
昭和二十九年(一九五四年)十二月 東京・目黒
試合まで、あと二週間だった。信格は、もう五日、まともに眠っていなかった。
目を閉じると、必ず同じ夢を見た。
蔵前の国技館のリングの上で、政木に腕を取られている。どれだけもがいても、体が動かない。肘の関節が、ゆっくりと逆に曲げられていく。骨の軋む音が、一万二千の観客の静寂の中に響く。そして、ぼきり、と乾いた音がする。客席から、誰かが叫ぶ。
見ろ、偽物だ。
その声で、いつも目が覚めた。寝間着は、冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。
昭和二十九年(一九五四年)十二月十日 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
稽古が終わったあとの道場で、信格は、天道を二階の事務所に呼んだ。
「お前、柔道をやってた頃、政木とやったことはあるか」
天道は、少し驚いたように眉を上げた。それから、いつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「ありますよ。何度も。一度も勝てませんでしたけどね」
天道は、窓の外に目をやった。
「プロ柔道の旗揚げの日、政木さんの七人掛けの相手の一人に選ばれましてね。大外刈で、一瞬でした。畳に叩きつけられて、天井を見上げて、ああ、この人のそばにいたいと思ったんです。それで、あの団体に残った」
天道の声は、穏やかだった。けれど、その目だけが、どこか遠くを見ていた。
「組んだ瞬間に、もう負けてるんですよ。相手の力がどこから来るのか、わからない。気がついたら、天井を見てるか、首を絞められて落ちてるか。痛いとか、苦しいとか、感じる暇もない」
信格は、黙って聞いていた。道場の遊びで、襟を取られた三秒間を、思い出していた。
「正面から組んだら、誰も勝てません。少なくとも、日本には一人もいない」
「……弱いところは、ねえのか」
天道は、振り返った。しばらく、信格の顔を、じっと見ていた。その目に、何かを帳面に書き留めるような色が、一瞬だけ浮かんだ。
「一つだけ、あります」
天道は、声を落とした。
「あの人は、真面目すぎるんですよ」
「真面目?」
「約束を、守るんです。一度、こうすると決めたら、それを信じきる。相手も同じように守ると、疑いもしない。柔道の試合でも、礼をして組んだら、もう相手を疑わない。そういう人です」
天道は、にっこりと笑った。
「台本を渡されたら、きっと、台本どおりにやるでしょうね。最後まで」
そう言って笑った天道の顔が、ほんの一瞬だけ、苦く歪んだように見えた。信格は、それに気づかなかった。
昭和二十九年(一九五四年)十二月十四日 千葉・松戸
国道から外れた田舎道の奥に、その家はあった。傾きかけた茅葺きの屋根。庭には、手入れもされずに枯れた菊の鉢が転がっている。
牛田熊辰は、縁側に座って、一升瓶から湯呑みに酒を注いでいた。
六十を過ぎた、小柄な老人だった。けれど、着物の袖から覗く腕は、いまでも、太い縄を撚りあわせたように硬かった。かつて、政木を、鬼と呼ばれるまでに鍛えあげた男だった。
「力王山か」
牛田は、信格を見上げもせずに言った。
「何の用だ。わしは、見世物屋と話すことはない」
信格は、縁側の前に立ったまま、懐から分厚い封筒を取り出し、牛田の膝の脇に、黙って置いた。
牛田の手が、湯呑みの上で止まった。封筒の厚みを、横目で見ていた。
長い沈黙が流れた。庭の枯れた菊の鉢の上を、冬の風が吹き抜けていった。
「……あいつのことか」
牛田が、ぽつりと言った。
「政木の、弱いところを教えてくれ」
信格は、低い声で言った。
牛田は、湯呑みの酒を、一気に呷った。
「十五の歳から、わしが育てた。毎日、八時間、稽古をさせた。寝る間も惜しんで、腕立てを千回、打ちこみを千回。わしのやり方を、全部、あいつの体に叩きこんだ」
牛田の目が、遠くを見ていた。
「それが、戦争が終わって、プロ柔道を立ちあげるときに、金のことで揉めた。わしの言うことを聞かずに、勝手に興行師と手を組んで、勝手に潰した。それから一度も、わしの家の敷居をまたいでおらん」
牛田は、もう一杯、酒を注いだ。その手が、かすかに震えていた。
「……首だ」
牛田は、湯呑みを見下ろしたまま言った。
「あいつの首は、締めにはめっぽう強い。どんな締め技も、首の力だけで撥ね返す。だがな、それは、締められることに強いだけだ」
牛田は、湯呑みの縁を、指でなぞった。
「横から打たれることには、慣れておらん。柔道に、当て身はないからな。顔も、首も、生まれてから一度も、拳で叩かれたことがない」
牛田は、自分の首の横に、指を二本当ててみせた。
「ここだ。耳の下の、脈の通るところ。ここを、組む前に、横から叩かれたら」
牛田は、湯呑みを置いた。
「あいつは、何が起きたのかもわからんまま、膝をつくだろう」
信格は、黙って、その指の位置を見つめていた。
「……それと」
牛田は、湯呑みを、ゆっくりと傾けた。
「大一番の前の晩は、必ず浴びるほど飲む。昔からだ。緊張を、酒で殺すんだ。勝ち負けが決まってる試合なら、なおさら、気が緩んで飲むだろう」
牛田は、酒を飲み干した。それから、封筒を、着物の懐にしまった。
信格は、黙って頭を下げ、背を向けた。
「力王山」
牛田の声が、背中に追いかけてきた。
信格は、振り返った。牛田は、縁側に座ったまま、信格の顔をじっと見ていた。その目には、軽蔑とも、哀れみともつかない色が浮かんでいた。
「あいつは、真っ直ぐな男だ。わしが、そう育てた」
牛田は、ふいと顔を背けた。
「それを、金で売ったわしも、それを、金で買ったあんたも、ろくな死に方はせんぞ」
昭和二十九年(一九五四年)十二月二十日 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
試合の二日前の夜だった。
道場の灯りを落とそうとしたとき、マットの隅に、小柄な影が座っているのに気づいた。沖田だった。レフェリーとして、明後日の試合を裁くことになっていた。
「眠れないのかい」
沖田は、穏やかに言った。信格は、答えなかった。
沖田は、しばらく黙って、マットの上の染みを見つめていた。
「わしはね、ハワイで、あの男の稽古を見たことがあるんだ」
信格の背中が、ぴくりと動いた。
「プロ柔道が潰れて、食い詰めて流れてきた頃さ。誰にも頭を下げずに、黙々と、毎日、ジムの隅で一人で稽古をしてた。わしの知ってる中で、あれほど強い男は、ほかにいない」
沖田は、ゆっくりと顔を上げた。
「力王山。あの男とは、本気でやりあうんじゃないよ」
信格は、沖田を見下ろした。長い沈黙のあとで、信格は、低く言った。
「本気でやりあう気なんか、ねえよ」
沖田は、少しのあいだ、信格の顔を見つめていた。その言葉の本当の意味を、測りかねているようだった。やがて、沖田は小さく頷いて、道場を出ていった。
同じ夜 東京・目黒
誰もいない家の居間で、信格は、天井を見上げていた。一つずつ、頭の中で組み立てていた。
格闘技として戦えば、負ける。組まれたら、終わりだ。投げられ、絞められ、腕を折られる。ブラジルで柔術の当主の腕をへし折った男に、正面から勝てる道は、ない。
見世物として戦っても、負ける。二本目で、政木に腕を取られる。台本どおりの負けでも、あの男が台本の隙間に本気を差しこんできたら、日本じゅうの前で、本物の悲鳴を上げることになる。
なら、どちらも、やらない。
信格は、天道の言葉を思い出していた。あの人は、真面目すぎる。台本を渡されたら、最後まで、台本どおりにやる。
牛田の言葉を思い出していた。首の横。耳の下の、脈の通るところ。大一番の前の晩は、必ず浴びるほど飲む。
政木は、台本を信じて、リングに上がってくる。前の晩の酒が、まだ体に残っている。一本目は、俺が空手チョップで攻める台本だ。政木は、それを受ける。見世物として、受ける。胸を出して、叩かれて、痛がってみせる。
その一瞬。政木が、プロレスの見せる体に入った、その一瞬に。組む前に。首を。
信格は、天井を見上げたまま、右手をゆっくりと持ちあげた。手の側面を、刀のように立てる。上から、斜め下へ。耳の下の、脈の通るところ。
十四年前、稽古場の柱の、ちょうど人の首の高さに、何万回と打ちこんだ角度だった。あの雨の夜、柱に刻んだ殺意の型が、ようやく、本当の標的を見つけたのだ。
牛田の言葉が、耳の奥で響いた。ろくな死に方はせんぞ。
信格は、その日の夕方、道場の机の引き出しの奥から持ち帰ってきた、四つに折った白紙の念書を取り出した。葉巻に火をつけ、その火を、念書の端に近づけた。
白い紙が、ゆっくりと焦げていった。そこには、信格の名前も、判も、何も書かれていなかった。炎が紙を舐めるように広がり、やがて、灰皿の上で、黒い灰になって崩れた。
信格は、その灰を、じっと見下ろしていた。
掌は、もう、震えていなかった。
ふっ、と、誰もいない居間に、乾いた笑いが小さく響いた。




