第36話 引分
昭和二十九年(一九五四年)十二月一日 東京・赤坂 料亭の奥座敷
料亭の奥座敷に、四人の男が向きあっていた。
床の間の前に、大河原と松木。その下手に、信格と政木が、二人並んで座らされていた。挑戦状の記事が出てから、二人が顔を合わせるのは、これが初めてだった。
政木は、背筋を伸ばし、膝の上に両の拳を置いて、一度も信格のほうを見なかった。信格も、政木を見なかった。ただ、隣に座っているだけで、右半身の皮膚が粟立つのを感じていた。
「まず、言っておく」
大河原が、葉巻の灰を落としながら、口を開いた。
「新聞は、真剣勝負だと書きたててる。客も、そう信じて切符を買ってる。前売りは、もう三日で売り切れだ。蔵前の国技館に、一万二千。それに、松木さんのテレビで、日本じゅうが見る」
大河原の目が、二人を交互に見た。
「だが、これは興行だ。喧嘩じゃねえ」
松木が、膝の前に、一枚の紙を広げた。筆で、細かく試合の段取りが書きつけてあった。
「六十一分、三本勝負です」
松木は、穏やかな声で読みあげた。
「一本目は、力王山さんが空手チョップの連打で攻めこみ、政木さんを場外に落としてリングアウト。二本目は、政木さんが巻き返し、腕固めで、力王山さんからギブアップを取る。三本目は、互いに一歩も譲らず、六十一分、時間切れの引き分け」
松木は、紙から顔を上げた。
「どちらの看板にも、傷はつきません。日本じゅうが、相撲と柔道の互角の名勝負に酔う。そして、来年の春に、再戦を組む。一度目より、もっと客が入る」
座敷が、静まり返った。
やがて、政木が、低い声で言った。
「……ギャラは」
「お二人とも、同額です」
松木は、紙の隅に書かれた数字を、指で示した。
政木の目が、その数字の上で、わずかに止まった。女房の薬代を払っても、半年は暮らせる額だった。
政木は、長いあいだ、その数字を見つめていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「わかった」
政木は、初めて、信格のほうを向いた。
その目は、静かだった。軽蔑も、憎しみも、そこにはなかった。ただ、相手の目の奥を、まっすぐに覗きこんでいた。
「台本は、守る。だが、一本目と二本目のあいだは、手は抜かんぞ」
信格は、答えなかった。
松木が、もう二枚の紙を取り出した。同じ文面の、念書だった。
『昭和二十九年十二月二十二日の試合において、本人は、別紙の段取りに従い、勝敗を決しないことを誓約する』
「お二人の、署名と捺印を」
松木は、二枚の念書と、朱肉と、筆とを、二人の前に置いた。
政木は、迷わず筆を取った。太い、まっすぐな字で、自分の名前を書きつける。それから、懐から取り出した印鑑に朱肉をつけ、名前の下に、ぐっと押しつけた。朱色が、紙に滲んだ。
政木は、念書を、松木の前に押し返した。
「これで、いいか」
「結構です」
松木は、念書を丁寧に畳んで、懐にしまった。それから、信格のほうへ、もう一枚の念書を、そっと滑らせた。
信格は、目の前の紙を見下ろしていた。白い紙。黒い文字。そして、その横に置かれた、朱肉の赤。
十四年前、長崎の農夫の前で、親指を押しつけた朱肉。桜富士が、大和プロレスの契約書に押した朱肉。京都の妻が、離縁状に押していった朱肉。
いつも、判を押すのは、何かを差し出すときだった。名前を差し出し、自由を差し出し、誰かの台本に、自分を縛りつけるときだった。
信格は、筆を取らなかった。
「……あとで、押す」
座敷の空気が、わずかに張りつめた。
「印鑑を、道場に置いてきた。明日、天道に届けさせる」
大河原が、葉巻をくわえたまま、細い目で信格を見た。長い沈黙のあとで、大河原は、小さく鼻を鳴らした。
「好きにしろ。紙一枚で、何が変わるわけでもねえ」
信格は、白紙のままの念書を黙って畳み、背広の内ポケットにしまった。
政木は、それを横目で見ていた。何も言わなかった。ただ、その膝の上の拳が、一瞬だけ、固く握りしめられたように見えた。
その夜 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所で、信格は、一人で、灯りもつけずに座っていた。
机の上に、白紙の念書が広げてあった。その横に、印鑑が置いてあった。道場に置いてきた、と言った印鑑は、ずっと背広の内ポケットに入っていたのだった。
信格は、念書を見下ろしていた。
一本目は、俺の勝ち。二本目は、政木の勝ち。三本目は、時間切れ。
二本目。政木に腕を取られ、日本じゅうが見ている前で、マットを叩いて降参する。台本どおりの、作り物の負けだ。アメリカでも、何度もやってきた。
だが、あの男に腕を取られるのは、作り物で済むのか。
道場の遊びで、襟を取られた三秒間。自分の体が、自分のものでなくなった、あの感覚。二本目で、もし、あの男が台本の隙間に本気を差しこんできたら。腕を、本当に折られたら。日本じゅうの前で、本物の悲鳴を上げたら。
本物の柔道の前では、子供の遊びだ。
新聞の活字が、頭の中で、政木の声になって響いた。
信格は、印鑑を握りしめた。朱肉の蓋を開けた。それから、長いあいだ、そのまま動かなかった。
やがて、朱肉の蓋を閉じた。印鑑を、背広の内ポケットに戻した。白紙の念書を四つに折って、机の引き出しの一番奥に押しこんだ。
窓の外で、師走の冷たい風が、電線を鳴らしていた




