第35話 挑戦
昭和二十九年(一九五四年)十一月 富山
体育館の客席は、半分が空いていた。
二月、蔵前の国技館では、立ち見の客が通路まで溢れ、入りきれない群衆が外で暴れて、警官隊が出たほどだった。あれから、わずか九か月だった。
同じ顔ぶれの外国人を呼び、同じ筋書きで、同じように勝つ。それを、どこの町でも繰り返してきた。客は、もう、飽きはじめていた。
リングの上で、信格は、外国人の胸板に空手チョップを叩きこんだ。客席から上がった歓声は、まばらだった。空席の向こうで、誰かが大きな欠伸をするのが見えた。
控室に戻ると、若い衆たちが、黙って床を見つめていた。ギャラは、二か月も滞っていた。
「力王さん」
天道が、帳面を手に近づいてきた。
「今夜の上がりじゃ、宿代も払えません。明日の金沢も、前売りは三割しか出てないそうです」
信格は、答えなかった。葉巻の吸い口を、ぎりぎりと噛みしめていた。窓の外の冷たい雨を見つめながら、胸の奥で、何かが煮えくり返っていた。
昨日まで、俺を神様みたいに拝んでいた連中が。日の丸を振って、涙を流して、俺の名前を叫んでいた連中が。ちょっと飽きたら、手のひらを返しやがる。
信格は、葉巻を床に叩きつけ、靴の踵で踏みにじった。
「……お前ら、明日から、もっと血を流せ」
若い衆たちが、顔を上げた。
「客が来ねえのは、お前らの試合がぬるいからだ。額を割れ。骨を折れ。客が金を払いたくなるような、地獄を見せろ」
誰も、何も言わなかった。
同じ夜 富山の宿
宿の裏手の、薄暗い風呂場の脱衣所だった。若い衆が四、五人、湯上がりの体に浴衣を引っかけたまま、声を潜めて固まっていた。
「冗談じゃねえよ」
額に晒しを巻いた一人が、吐き捨てるように言った。昨夜の試合で、外国人に椅子で殴られて割った傷だった。
「額を割れ、骨を折れ、だとよ。ギャラは二か月も払わねえくせに」
「あの人は、自分は血の一滴も流さねえからな。最後に出てきて、手刀振り回して、両手上げてりゃいいんだ」
「しっ。天道さんに聞かれたら、全部筒抜けだぞ」
若い衆たちは、慌てて口をつぐんだ。
その輪から少し離れて、一人の若者が、黙って湯気の向こうを見つめていた。佐伯という、大学の柔道部を出たばかりの男だった。政木に憧れて柔道を始め、政木を追ってプロレスの世界に流れてきた。けれど、この九か月、リングの上で政木が血を流す姿ばかりを見てきた。
その夜遅く、佐伯は、宿の一番奥の部屋の襖の前に、正座していた。
「政木さん。佐伯です」
襖の向こうから、低い声が返ってきた。
「入れ」
政木は、灯りを落とした部屋の中で、窓辺に座っていた。額の傷に巻いた晒しが、月明かりに、白く浮かんでいる。
佐伯は、畳に両手をついた。
「政木さん。こんなの、やってられません」
政木は、黙って窓の外を見ていた。
「政木さんは、柔道の王者です。十五年、一度も負けなかった。ブラジルで、柔術の当主の腕を折った。その政木さんが、毎晩、毛唐の椅子で頭を割られて、あの男の引き立て役をやらされてる」
佐伯の声が、震えていた。
「俺は、それを見るために、ここに来たんじゃありません。プロ柔道を、もう一度、立ちあげましょうよ」
政木の肩が、かすかに動いた。
「前は、時代が早すぎただけです。戦争が終わったばかりで、みんな食うのに精一杯だった。でも、いまは違う。テレビがあります。本物の真剣勝負を、日本じゅうに流せるんです。政木さんの名前があれば、人は集まります。俺たちみたいな柔道崩れは、日本じゅうにごまんといる。みんな、政木さんの下でなら、喜んで戦います」
政木は、長いあいだ、黙っていた。やがて、窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「……あのときは、半年ももたなかった」
政木の声は、ひどく静かだった。
「本物の勝負は、地味なんだよ。組みあって、じっと動かない時間が長い。決まるときは、一瞬だ。客は、それを見ても、何が起きたのかわからない。血も出ない。派手な技もない。客は、すぐに来なくなった」
政木は、額の晒しに、そっと指を触れた。
「金に困って、地方を回った。九州の巡業の途中で、興行師に売り上げを全部持ち逃げされた。講道館の連中は、柔道を金に換えた男だと、俺を破門同然に扱った。仲間は散り散りになって、俺は食うために、ハワイへ流れた」
政木は、自嘲するように笑った。
「客が金を払うのは、本物じゃない。本物に見える、嘘のほうだ。あの男は、それを知ってる」
「でも、政木さん……」
「だが」
政木は、ゆっくりと振り返った。月明かりの中で、その目に、暗い火が灯っていた。
「テレビか。……もう一度、やるのも、悪くないかもしれんな」
佐伯の顔が、ぱっと明るくなった。
襖の向こうの廊下で、かすかに床板が軋む音がした。誰も、それに気づかなかった。
同じ週 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
道場の机の上に、一冊の週刊誌が放り出されていた。表紙には、黒々とした見出しが躍っていた。
『プロレスは八百長か 勝敗は試合前に決まっている? 関係者が告白』
信格は、その頁を開いた。外国人レスラーの来日の段取り、試合前の打ちあわせ、決められた勝ち負け。誰が喋ったのか、細かいことまで書かれていた。
読み進めるうちに、手が震えはじめた。最後まで読み終えると、信格は、週刊誌を真っ二つに引き裂いた。さらに引き裂き、細かくちぎり、道場の床にばら撒いた。若い衆たちが、遠巻きにそれを見ていた。
その夜、信格は、眠れなかった。
目を閉じると、空席の並ぶ体育館が浮かんだ。誰もいない客席に、自分だけが立っている。リングの上で両腕を突きあげても、誰も拍手をしない。そして、どこかの暗がりから、誰かが囁く。
あいつの生まれは、どこだったかな。
数日後 大和プロレス道場の二階
道場の二階の事務所に、岡田がふらりと顔を出したのは、冷たい雨の午後だった。
上品な着物の肩を手拭いで払いながら、勝手にソファに腰を下ろした。
「えらい寂しいことになっとるなあ、力王山はん」
信格は、机の向こうで葉巻をくわえたまま、黙っていた。
「西の小屋も、どこもかしこもガラガラや。大阪も、京都も、広島も。わしの若い衆が、客席に座って数あわせしとる始末やで」
岡田は、細い目を、さらに細めた。
「割りが、合わんのや」
「……わかってる」
「わかっとるんやったら、手ぇ打たなあかん」
岡田は、懐から煙管を取り出して、ゆっくりと火を入れた。
「もっと外人、呼んだらどないや。でかいのを、ぎょうさん。毛唐が束になってかかってきて、あんたがそれを薙ぎ倒す。それだけで、ちいとは客も戻るやろ」
「……ああ」
「せやけどな」
岡田は、煙管の煙を、細く吐き出した。
「ほんまに客を呼びたいんやったら、毛唐より、もっとええ相手がおる」
信格の指が、葉巻の上で止まった。
「柔道日本一の、政木や」
事務所の空気が、すっと冷えた。
「相撲上がりの力王山と、柔道の政木、どっちが強いんか。日本じゅうの男が、一遍は考えたことのある話や。その二人が、本気でやりあう。そら、客入るで。蔵前どころか、日本じゅうの小屋が満員や」
岡田は、楽しそうに、喉の奥で笑った。信格は、葉巻を灰皿に置いた。
「……政木は、俺の相棒だ。タッグを組んでる仲間だろう」
岡田の笑いが、ぴたりと止まった。それから、細い目で、信格の顔をじっと見た。
「仲間?」
岡田は、首をかしげた。
「あんたの口から、その言葉が出るとはなあ」
信格は、答えなかった。
岡田は、煙管の灰を灰皿に落としながら、ゆっくりと立ちあがった。
「わしは、損得で動く男や。損得で言うとるだけや。あんたが乗らんでも、政木のほうが乗ってくるかもしれんしな」
扉に手をかけて、岡田は、一度だけ振り返った。
「力王山はん。あんた、まさか、怖いんとちゃうやろな」
信格の顔色が、変わった。
岡田は、何も見なかったような顔で、にっこりと笑った。
「冗談や。ほな、また」
扉が閉まった。階段を下りていく岡田の草履の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
信格は、立ちあがった。机の端を、渾身の力で蹴りあげた。重い机が宙に浮き、壁に叩きつけられた。灰皿が、帳面が、電話が、床に散らばった。窓ガラスが、びりびりと震えた。
階下で、草履の音が、一瞬だけ止まった。それから、何事もなかったように、また遠ざかっていった。
道場の外の雨の中で、岡田は、番傘を開きながら、喉の奥でくつくつと笑っていた。
「……図星か」
昭和二十九年(一九五四年)十一月二十日 東京・有楽町 新聞社の応接室
新聞社の応接室で、政木は、記者たちの前に座っていた。
腕を組み、背筋を伸ばして座る政木の、少しも潰れていないきれいな耳を、窓からの光が照らしていた。
「プロレスについて、どうお考えですか、政木さん」
記者の一人が訊いた。
政木は、しばらく黙っていた。天道が読みあげた、あの言葉が、頭の中で鳴り響いていた。噛ませ犬には、ちょうどいい。
「……見世物だ」
政木は、低く言った。記者たちが、一斉に顔を上げた。
「プロレスは、勝ち負けの決まった見世物だ。俺は、女房の薬代のために、毎晩、毛唐の椅子で額を割られて、あの男の引き立て役をやってきた」
応接室が、静まり返った。
「力王山の空手チョップなど、本物の柔道の前では、子供の遊びだ」
政木の目に、暗い火が灯った。
「真剣勝負なら、一瞬で絞め落としてみせる。いつでも、受けて立つ」
記者たちの鉛筆が、狂ったように走りはじめた。
翌朝の新聞の一面に、その言葉が躍った。
『柔道王政木、力王山に挑戦状 「プロレスは八百長、真剣勝負なら一瞬」』
同じ朝 東京・銀座 大河原の事務所
大河原の事務所のテーブルの上に、その新聞が広げられていた。向かいに、松木が座っていた。
「見事な見出しですね」
松木は、眼鏡の奥で、穏やかに目を細めた。
「プロレスの力王山と、柔道の政木。どちらが本当に強いのか、日本じゅうが知りたがっている真剣勝負。これで、客は戻ってきます。九か月前の、何倍も」
「天道は、いい仕事をしたな」
大河原が、葉巻をくゆらせながら言った。
「たった一言、耳打ちしただけで、あの堅物の柔道屋が、ここまで吠えてくれた。富山の宿じゃ、若いのに担がれて、またプロ柔道を立ちあげようなんて話もしてたそうだ」
「それは、困りますね」
松木の声が、わずかに低くなった。
「テレビに流せる格闘技は、一つで十分です。二つに割れれば、客も広告も半分になる」
「だから、ここで決めさせる」
大河原は、新聞を指で叩いた。
「神戸の岡田も、力王山のほうを、だいぶ突ついてくれたようだしな。あの男は、損得で動く。こっちの損得と、向こうの損得が、たまたま重なっただけさ」
松木は、新聞を丁寧に畳んだ。
「試合は、十二月の蔵前で。日本選手権と銘打ちましょう。勝ち負けのほうは」
「引き分けだ」
大河原は、紫煙を吐き出した。
「どっちが勝っても、片方の看板に傷がつく。両方の看板を守って、次の興行につなげる。それが一番、金になる」
「では、そういう台本で」
「ああ」
大河原は、窓の外の銀座の街を見下ろした。
「せいぜい、本気の喧嘩に見えるように、踊ってもらおうじゃねえか」
その夜 東京・目黒
誰もいない家の居間で、信格は、新聞の一面を見つめていた。
一瞬で、絞め落としてみせる。政木の言葉が、活字の中から、こちらを睨み返していた。
信格は、新聞を握る自分の右手を見下ろした。
羽田で握手を交わしたときの、指の骨が軋むような感触。道場で襟を取られた三秒間、自分の体が自分のものでなくなった、あの感覚。
掌が、また震えていた。
台所から、冷えた酒の瓶を持ってきて、喉に流しこんだ。震えは、止まらなかった。
誰もいない家の中で、柱時計の音だけが、やけに大きく響いていた。




