第34話 確執
昭和二十九年(一九五四年)十一月 大阪・府立体育会館
巡業の台本は、どこの町でも同じだった。
最初の十分間、外国人の兄弟が反則を繰り返し、政木を痛めつける。政木は場外へ投げ落とされ、椅子で殴られ、額を割られて血を流す。観客が怒りに震えたところで、力王山がリングに飛びこみ、空手チョップで兄弟を薙ぎ倒す。
最後に勝ち名乗りを受け、両腕を突きあげるのは、いつも力王山だった。政木は、その後ろで、血まみれの顔を手拭いで押さえて立っているだけだった。
その夜も、台本どおりに終わった。
控室に引き揚げると、政木は黙って鏡の前に座り、額の傷に焼酎を浴びせた。信格は、ソファにふんぞり返って、葉巻をくゆらせていた。
「今日も、いい血が出てたな、政木さん」
政木は、鏡越しに信格を見た。何も言わなかった。
「客は、あんたが血を流すのを見に来てるんだ。柔道の王者が、毛唐に痛めつけられる。それを、俺が助ける。日本じゅうが泣いて喜ぶ筋書きだ」
信格は、紫煙を天井に吹きあげた。
「あんたの役は、それで十分だ」
政木は、焼酎の瓶を置いた。ゆっくりと振り返り、信格の顔を、まっすぐに見た。
「……俺は、一度も負けたことがない」
低い、乾いた声だった。
「十五の歳から、二十年近く。柔道の畳の上で、一度もだ。ブラジルでも、負けなかった」
「知ってるよ」
「その俺が、毎晩、毛唐の椅子で額を割られて、あんたの引き立て役をやってる」
政木の膝の上で、拳が、ぎりぎりと握りしめられていた。
「女房の薬代のためだ。それがなけりゃ、こんな見世物、一日だってやるもんか」
信格は、葉巻の灰を灰皿に落とした。
「だったら、黙ってやりゃいい」
控室の空気が、凍りついた。
「薬代が欲しいんだろう。だったら、黙って血を流してりゃいいんだ。ギャラは、ちゃんと払ってやってる」
政木の目に、一瞬、暗い火が灯った。信格は、その目を見返しながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
政木は、何も言わずに立ちあがり、控室を出ていった。扉が閉まる音が、ひどく静かだった。
一週間後 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
その日、道場には、信格と政木と、数人の若い衆しかいなかった。
稽古の合間に、政木が、ふと言った。
「力王山さん。ちょっと、組んでみませんか」
若い衆たちが、手を止めて顔を上げた。
「遊びですよ。軽く、手合わせだ」
政木は、穏やかな顔をしていた。信格は、断る理由が見つからなかった。若い衆たちの前で、柔道屋の誘いを断るわけにはいかなかった。
「……いいだろう」
二人は、マットの真ん中で向きあった。政木の手が、信格の道着の襟と袖を取った。
その瞬間だった。信格の体が、まったく動かなくなった。
押そうとしても、引こうとしても、政木の両手が、まるで鉄の万力のように、信格の体の芯を押さえこんでいた。腰を落とそうとすると、先回りして腰を浮かされる。足を踏み出そうとすると、その足の置き場が、なくなっている。
土俵で、桜富士にまわしを取られたときでさえ、こんなことはなかった。相手の力が、どこから来ているのかすら、わからなかった。
政木の顔が、目の前にあった。穏やかな顔のまま、その目だけが、静かに、信格の目の奥を覗きこんでいた。
いつでも、投げられる。いつでも、絞め落とせる。いつでも、腕を折れる。その目が、そう言っていた。
ほんの、三秒ほどのことだった。政木は、すっと手を離した。
「遊びですよ」
政木は、にこりと笑って、マットの外へ出ていった。
若い衆たちは、何が起きたのかわからない、という顔をしていた。彼らの目には、二人がただ組みあって、すぐに離れただけにしか見えなかっただろう。
信格は、マットの真ん中に立ちつくしていた。膝が、かすかに震えていた。道着の下で、背中が、冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。
その夜 東京・銀座 ナイトクラブ
ナイトクラブの奥の席で、信格は、ブランデーの瓶を一本空けていた。
両脇の女たちが何か話しかけてくるが、一言も耳に入らなかった。信格は、グラスを持つ自分の手を、じっと見下ろしていた。
政木に襟を取られたときの、あの感触。体の芯を、見えない手で掴まれたような。自分の体が、自分のものでなくなったような。
信格は、グラスを一気に呷った。
あいつが本気になったら。台本のない、本物の勝負になったら。俺は、日本じゅうの前で、あいつに投げられる。絞め落とされる。大和魂の英雄が、柔道屋に、ぼろ雑巾のように転がされる。
そうなったら、何が残る。テレビも、新聞も、客も、黒幕たちも、手のひらを返すだろう。負けた英雄に、用はない。そして、誰かが言いだすだろう。そういえば、あいつの生まれは、と。
信格は、空のグラスを、テーブルに叩きつけた。グラスが砕け、女たちが悲鳴を上げた。信格は、それにも気づかなかった。
同じ夜 東京・小石川 古いアパート
古い木造のアパートの二階で、政木は、薄い布団の脇に座っていた。
布団の中では、痩せこけた女が、浅い息をついて眠っていた。
政木は、懐から茶封筒を取り出し、中の札を数えた。今月のギャラだった。病院の薬代を払えば、ほとんど残らない額だった。政木は、札を封筒に戻し、女の痩せた手を、そっと握った。
そのとき、廊下の向こうから、控えめな足音が近づいてきた。扉が、小さく叩かれた。
開けると、天道が、人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。
「夜分すみません、政木さん。ちょっと、お耳に入れておきたいことがありまして」
天道は、声を落とした。
「力王山さんが、こないだ、こんなことを言ってましてね」
天道は、帳面を開いて、そこに書きつけてあった言葉を、一字一句違えずに読みあげた。
「『あいつも、女房の薬代欲しさに流れてきた、食い詰めた柔道屋だ。看板だけはでかいが、中身は桜富士と同じだ。俺の横で、俺を引き立ててりゃいい』」
政木は、何も言わなかった。ただ、扉の枠を握った手が、白くなるほど力をこめていた。
天道は、帳面を閉じて、にっこりと笑った。
「それと、噛ませ犬には、ちょうどいい、とも」
天道が帰ったあと、政木は、長いあいだ、暗い廊下に立ちつくしていた。
部屋の中から、女の浅い寝息が聞こえていた。




