↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/104

第33話 落日

 昭和二十九年(一九五四年)九月 東京・浅草


『横綱桜富士、突如の引退』


新聞の見出しを、信格は、キャデラックの後部座席で、何度も読み返していた。


一門の内輪揉めに巻きこまれたのだという。後ろ盾だった親方と仲違いし、年寄の株も手に入らず、角界に居場所をなくした。三十二歳。綱を締めて、わずか六年だった。


記事の隅には、花道を引き揚げていく桜富士の写真が、小さく載っていた。大きな背中が、ひどく小さく見えた。


あの店に、桜富士は一人で座っていた。七年前、二人が初めて並んで飲んだ、浅草の縄暖簾の奥の席だった。


「……よう、力王」


桜富士は、猪口を持ちあげて、力なく笑った。


「来ると思ってたよ」


信格は、黙って隣に腰を下ろした。親父が、何も言わずに、もう一本徳利を置いていった。


信格は、その徳利を手に取り、桜富士の猪口に、両手で丁寧に酒を注いだ。七年前、この席で、大関だった桜富士が自分にしてくれたのと、同じように。


しばらく、二人は黙って飲んだ。


「笑えるだろう」


やがて、桜富士が、ぽつりと言った。


「お前を土俵から追い出した連中に、今度は、俺が追い出された」


信格は、答えなかった。五年前のことを、思い出していた。


欣ちゃんが四度目の優勝を飾った日、自分は、買ったばかりのオープンカーを、国技館の前に乗りつけた。協会に優勝パレードの決まりなどなかった時代だった。渋る桜富士を無理やり後部座席に押しあげ、両国から浅草まで、群衆の歓声の中を、ゆっくりと走った。


あの日の桜富士の、照れくさそうな笑顔。綱を締めた男の、まぶしいほどの笑顔だった。


その男が、いま、隣で背中を丸めて、安酒を舐めている。


信格の胸の奥で、何かが、ゆっくりと膨らんでいった。悲しみではなかった。同情でもなかった。もっと甘く、もっと暗いものだった。


ずっと見上げてきた男が、自分のいる場所まで、落ちてきた。いや、自分の下まで、落ちてきたのだ。


信格は、その感情を、顔のどこにも出さなかった。本郷に教わった、顔の作り方だった。


「欣ちゃん」


信格は、膝を桜富士のほうへ向け、声を落とした。


「今日は、頼みがあって来たんだ」


「頼み?」


「ああ」


信格は、桜富士に向かって、深々と頭を下げた。


「悪いようにはせんから、うちに来んか」


桜富士が、驚いたように目を見開いた。


「……プロレスに、か」


「欣ちゃんの力が、要るんだ」


信格は、頭を下げたまま言った。


「俺一人じゃ、もう限界なんだよ。外人を叩きのめすだけじゃ、客はいずれ飽きる。日本じゅうが本当に惚れこむのは、横綱の品格だ。欣ちゃんが土俵入りしただけで、明治神宮の境内が人で埋まった。あれは、俺には一生できねえ」


それは、本心だった。本心だからこそ、言葉に力がこもった。


「ハワイに、腕のいいじいさんがいる。俺を鍛え直したじいさんだ。そこで修行して、帰ってきたら、俺と組んでくれ。旅費も、向こうの暮らしも、全部俺が持つ。ギャラは、俺と同じだけ出す」


信格は、ようやく顔を上げた。


「頼む、欣ちゃん。俺を、助けてくれ」


桜富士は、長いあいだ黙って、信格の顔を見ていた。それから、その目に、うっすらと涙が浮かんだ。


「……馬鹿野郎」


桜富士は、猪口を置き、信格の肩を掴んだ。


「助けてもらうのは、俺のほうじゃねえか」


桜富士は、信格に向かって、深々と頭を下げた。


「恩に着る、力王」


信格は、その頭を見下ろしていた。元横綱が、自分に頭を下げている。


信格は、桜富士の肩に、手を置いた。


「水くせえこと言うなよ。俺たちの仲じゃねえか」


その声は、自分でも驚くほど、優しく響いた。


昭和二十九年(一九五四年)十月 東京・赤坂 料亭の奥座敷


契約は、料亭の奥座敷で交わされた。


大和プロレスの理事たちが居並ぶ前で、桜富士は、差し出された書類に、丁寧に判を押した。


信格は、その判が紙に押される瞬間を、黙って見つめていた。朱肉の色が、紙に滲んだ。十四年前、長崎の農夫の前で、自分が親指を押しつけたときと、同じ色だった。


これで、この男は、俺のものだ。


宴が始まると、信格は、床の間の前の、一番の上座に腰を下ろした。桜富士は、理事たちの後ろの、下座に通された。


酒が回りはじめた頃、信格は、空になった自分の猪口を、桜富士のほうへ、軽く突き出した。


「おい、桜富士」


一瞬、座の空気が止まった。欣ちゃん、ではなかった。


桜富士は、少しのあいだ、信格の顔を見ていた。それから、黙って立ちあがり、徳利を手に取って、信格の猪口に酒を注いだ。


信格は、礼も言わずに、それを一気に呷った。ふっ、と、誰にも聞こえない声で笑った。


昭和二十九年(一九五四年)十一月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場


ハワイへ発つまでのあいだ、桜富士は、道場で稽古をすることになった。


初日、信格は、桜富士をマットの端に立たせた。


「まずは、受身からだ」


若い衆たちが、ちらちらと二人のほうを見ていた。元横綱が、入門したての若者たちと並んで、マットの上に背中から倒れこむ。何度も、何度も。土俵では、一度も背中をつけたことのなかった男だった。


信格は、腕を組んで、それを眺めていた。


「腰が高え。やり直しだ」


桜富士は、黙って立ちあがり、また倒れこんだ。


「もう一回」


「もう一回」


十回、二十回、三十回と、それは続いた。桜富士の額から、汗が滴り落ちた。けれど、一度も不平を口にしなかった。


稽古が終わると、桜富士は、信格の前に来て、頭を下げた。


「ありがとうございました」


その丁寧な言葉づかいが、信格の胸を、ちくりと刺した。信格は、それを無視した。


「明日は、もっと早く来い。ここじゃ、俺が横綱だ」


桜富士の目が、一瞬だけ、信格の顔をまっすぐに見た。怒りの色は、なかった。ただ、何かを確かめるような目だった。


それから、桜富士は小さく頷いて、道場を出ていった。


その夜、天道が、帳面を手に、二階へ上がってきた。


「新聞は、どこも元横綱の話で持ちきりですよ。力王さんのときより、記者の数も多い」


信格は、窓の外を見たまま、答えなかった。


「それで、桜富士さんの最初の試合なんですが」


「俺と組ませろ」


信格は、振り返らずに言った。


「相手は、でかい外人だ。桜富士がさんざんやられて、血を流して、最後に俺が助けに入る。そういう筋書きでな」


天道の手が、一瞬だけ、帳面の上で止まった。


「……元横綱を、ですか」


「元、だ」


信格は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめていた。


「行き場のねえ横綱を、拾ってやったんだ」


信格は、背広の内ポケットから葉巻を取り出し、端を噛み切って火をつけた。近頃、大河原と同じ舶来の銘柄を、わざわざ取り寄せて吸うようになっていた。紫煙を、窓に吹きかけた。


「俺の噛ませ犬には、ちょうどいい」


天道は、黙って聞いていた。信格は、ふと思い出したように付け加えた。


「政木もな」


「政木さんも、ですか」


「あいつも、女房の薬代欲しさに流れてきた、食い詰めた柔道屋だ。看板だけはでかいが、中身は桜富士と同じだ。俺の横で、俺を引き立ててりゃいい」


天道は、何も言わずに頷き、鉛筆を走らせはじめた。その鉛筆の音が、いつもより少しだけ長く続いたことに、信格は気づかなかった。


窓ガラスの中の顔は、笑っていた。自分でも、気づかないうちに。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。