第33話 落日
昭和二十九年(一九五四年)九月 東京・浅草
『横綱桜富士、突如の引退』
新聞の見出しを、信格は、キャデラックの後部座席で、何度も読み返していた。
一門の内輪揉めに巻きこまれたのだという。後ろ盾だった親方と仲違いし、年寄の株も手に入らず、角界に居場所をなくした。三十二歳。綱を締めて、わずか六年だった。
記事の隅には、花道を引き揚げていく桜富士の写真が、小さく載っていた。大きな背中が、ひどく小さく見えた。
あの店に、桜富士は一人で座っていた。七年前、二人が初めて並んで飲んだ、浅草の縄暖簾の奥の席だった。
「……よう、力王」
桜富士は、猪口を持ちあげて、力なく笑った。
「来ると思ってたよ」
信格は、黙って隣に腰を下ろした。親父が、何も言わずに、もう一本徳利を置いていった。
信格は、その徳利を手に取り、桜富士の猪口に、両手で丁寧に酒を注いだ。七年前、この席で、大関だった桜富士が自分にしてくれたのと、同じように。
しばらく、二人は黙って飲んだ。
「笑えるだろう」
やがて、桜富士が、ぽつりと言った。
「お前を土俵から追い出した連中に、今度は、俺が追い出された」
信格は、答えなかった。五年前のことを、思い出していた。
欣ちゃんが四度目の優勝を飾った日、自分は、買ったばかりのオープンカーを、国技館の前に乗りつけた。協会に優勝パレードの決まりなどなかった時代だった。渋る桜富士を無理やり後部座席に押しあげ、両国から浅草まで、群衆の歓声の中を、ゆっくりと走った。
あの日の桜富士の、照れくさそうな笑顔。綱を締めた男の、まぶしいほどの笑顔だった。
その男が、いま、隣で背中を丸めて、安酒を舐めている。
信格の胸の奥で、何かが、ゆっくりと膨らんでいった。悲しみではなかった。同情でもなかった。もっと甘く、もっと暗いものだった。
ずっと見上げてきた男が、自分のいる場所まで、落ちてきた。いや、自分の下まで、落ちてきたのだ。
信格は、その感情を、顔のどこにも出さなかった。本郷に教わった、顔の作り方だった。
「欣ちゃん」
信格は、膝を桜富士のほうへ向け、声を落とした。
「今日は、頼みがあって来たんだ」
「頼み?」
「ああ」
信格は、桜富士に向かって、深々と頭を下げた。
「悪いようにはせんから、うちに来んか」
桜富士が、驚いたように目を見開いた。
「……プロレスに、か」
「欣ちゃんの力が、要るんだ」
信格は、頭を下げたまま言った。
「俺一人じゃ、もう限界なんだよ。外人を叩きのめすだけじゃ、客はいずれ飽きる。日本じゅうが本当に惚れこむのは、横綱の品格だ。欣ちゃんが土俵入りしただけで、明治神宮の境内が人で埋まった。あれは、俺には一生できねえ」
それは、本心だった。本心だからこそ、言葉に力がこもった。
「ハワイに、腕のいいじいさんがいる。俺を鍛え直したじいさんだ。そこで修行して、帰ってきたら、俺と組んでくれ。旅費も、向こうの暮らしも、全部俺が持つ。ギャラは、俺と同じだけ出す」
信格は、ようやく顔を上げた。
「頼む、欣ちゃん。俺を、助けてくれ」
桜富士は、長いあいだ黙って、信格の顔を見ていた。それから、その目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「……馬鹿野郎」
桜富士は、猪口を置き、信格の肩を掴んだ。
「助けてもらうのは、俺のほうじゃねえか」
桜富士は、信格に向かって、深々と頭を下げた。
「恩に着る、力王」
信格は、その頭を見下ろしていた。元横綱が、自分に頭を下げている。
信格は、桜富士の肩に、手を置いた。
「水くせえこと言うなよ。俺たちの仲じゃねえか」
その声は、自分でも驚くほど、優しく響いた。
昭和二十九年(一九五四年)十月 東京・赤坂 料亭の奥座敷
契約は、料亭の奥座敷で交わされた。
大和プロレスの理事たちが居並ぶ前で、桜富士は、差し出された書類に、丁寧に判を押した。
信格は、その判が紙に押される瞬間を、黙って見つめていた。朱肉の色が、紙に滲んだ。十四年前、長崎の農夫の前で、自分が親指を押しつけたときと、同じ色だった。
これで、この男は、俺のものだ。
宴が始まると、信格は、床の間の前の、一番の上座に腰を下ろした。桜富士は、理事たちの後ろの、下座に通された。
酒が回りはじめた頃、信格は、空になった自分の猪口を、桜富士のほうへ、軽く突き出した。
「おい、桜富士」
一瞬、座の空気が止まった。欣ちゃん、ではなかった。
桜富士は、少しのあいだ、信格の顔を見ていた。それから、黙って立ちあがり、徳利を手に取って、信格の猪口に酒を注いだ。
信格は、礼も言わずに、それを一気に呷った。ふっ、と、誰にも聞こえない声で笑った。
昭和二十九年(一九五四年)十一月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
ハワイへ発つまでのあいだ、桜富士は、道場で稽古をすることになった。
初日、信格は、桜富士をマットの端に立たせた。
「まずは、受身からだ」
若い衆たちが、ちらちらと二人のほうを見ていた。元横綱が、入門したての若者たちと並んで、マットの上に背中から倒れこむ。何度も、何度も。土俵では、一度も背中をつけたことのなかった男だった。
信格は、腕を組んで、それを眺めていた。
「腰が高え。やり直しだ」
桜富士は、黙って立ちあがり、また倒れこんだ。
「もう一回」
「もう一回」
十回、二十回、三十回と、それは続いた。桜富士の額から、汗が滴り落ちた。けれど、一度も不平を口にしなかった。
稽古が終わると、桜富士は、信格の前に来て、頭を下げた。
「ありがとうございました」
その丁寧な言葉づかいが、信格の胸を、ちくりと刺した。信格は、それを無視した。
「明日は、もっと早く来い。ここじゃ、俺が横綱だ」
桜富士の目が、一瞬だけ、信格の顔をまっすぐに見た。怒りの色は、なかった。ただ、何かを確かめるような目だった。
それから、桜富士は小さく頷いて、道場を出ていった。
その夜、天道が、帳面を手に、二階へ上がってきた。
「新聞は、どこも元横綱の話で持ちきりですよ。力王さんのときより、記者の数も多い」
信格は、窓の外を見たまま、答えなかった。
「それで、桜富士さんの最初の試合なんですが」
「俺と組ませろ」
信格は、振り返らずに言った。
「相手は、でかい外人だ。桜富士がさんざんやられて、血を流して、最後に俺が助けに入る。そういう筋書きでな」
天道の手が、一瞬だけ、帳面の上で止まった。
「……元横綱を、ですか」
「元、だ」
信格は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめていた。
「行き場のねえ横綱を、拾ってやったんだ」
信格は、背広の内ポケットから葉巻を取り出し、端を噛み切って火をつけた。近頃、大河原と同じ舶来の銘柄を、わざわざ取り寄せて吸うようになっていた。紫煙を、窓に吹きかけた。
「俺の噛ませ犬には、ちょうどいい」
天道は、黙って聞いていた。信格は、ふと思い出したように付け加えた。
「政木もな」
「政木さんも、ですか」
「あいつも、女房の薬代欲しさに流れてきた、食い詰めた柔道屋だ。看板だけはでかいが、中身は桜富士と同じだ。俺の横で、俺を引き立ててりゃいい」
天道は、何も言わずに頷き、鉛筆を走らせはじめた。その鉛筆の音が、いつもより少しだけ長く続いたことに、信格は気づかなかった。
窓ガラスの中の顔は、笑っていた。自分でも、気づかないうちに。




