第32話 恩仇
昭和二十九年(一九五四年)七月 東京・日本橋 東和建設
東和建設の社長室は、ビルの三階の、一番日当たりのいい角部屋にあった。
新堂は、革張りの椅子にふんぞり返り、葉巻をくわえていた。五十がらみの、脂ぎった顔の男だった。大河原の舎弟として、戦後の焼け跡から基地工事で財を成し、いまは大和プロレスの最大の出資者として、理事の筆頭に名を連ねている。
四年前、相撲を廃業したばかりの信格を、横須賀の現場の監督として雇ったのも、この男だった。
「よう、力王。座れや」
新堂は、顎で応接椅子を指した。信格は、座らなかった。
「今月の興行の上がりだがな」
新堂は、机の上の帳面を、指で叩いた。
「六割は、うちに入れてもらう。最初の金を出したのは、うちだ。リングも、道場も、外人を呼ぶ旅費も、全部うちが立て替えた。当然だろう」
「……先月は、四割でしたが」
「先月は先月だ。客が入るようになったんだ。取り分も変わるさ」
新堂は、葉巻の煙を、信格の顔に吹きかけた。
「それとな、力王。お前、近頃、少し天狗になってやしないか。記者の前で偉そうに喋るのは勝手だが、うちの名前を一度も出さねえ。誰のおかげで、そこに立ってられると思ってる」
信格は、黙って新堂を見下ろしていた。
「お前は、うちの犬だ。忘れるなよ」
新堂は、にやりと笑った。
「拾ってやった恩は、一生かけて返してもらう」
一週間後 神戸 岡田の屋敷
六甲の山裾に建つ屋敷の座敷で、岡田は、冷えた麦茶を一口すすった。
「東和の、新堂はんか」
「ああ」
信格は、膝の上で拳を握りしめていた。
「あいつを、協会から叩き出したい」
「ほう」
岡田は、細い目を、さらに細めた。
「大河原はんの舎弟やで。それを、わしに追い出せ言うんか」
「あんたは、損得で動く人間だと言った」
信格は、岡田の目を、まっすぐに見た。
「新堂が抜ければ、あいつの取り分の六割が浮く。その半分を、あんたにやる。西の興行は、全部、あんたの組が仕切ればいい」
座敷に、短い沈黙が落ちた。蝉の声が、庭の松の木から、うるさいほど降ってきた。
やがて、岡田は、喉の奥でくつくつと笑った。
「ええなあ、力王山はん。あんた、ほんまに、恩いうもんを知らん人やなあ」
「恩なら、もう十分返した」
「そうか」
岡田は、麦茶の碗を置いた。
「ほな、わしは、損得で動かせてもらいますわ」
昭和二十九年(一九五四年)八月 東京・日本橋 東和建設
東和建設の社長室の扉が、乱暴に開け放たれた。
入ってきたのは、信格と、その後ろに並んだ五人の男だった。揃いの白い背広を着た、目つきの鋭い、神戸訛りの男たちだった。
新堂が、椅子から腰を浮かせた。
「な、なんだ、力王。こいつらは」
「神戸の、岡田さんの若い衆だ」
信格は、新堂の机の上に、一枚の書類を放り投げた。大和プロレスリング協会の、理事の辞任届だった。
「判を押せ」
「ふ、ふざけるな! 誰のおかげで、お前が……」
信格は、新堂の机の端に手をかけた。
樫の分厚い天板が、みしりと音を立てた。信格がそのまま力をこめると、天板は真ん中から二つに割れて、床に崩れ落ちた。帳面も、灰皿も、葉巻の箱も、すべてが床に散らばった。
新堂の顔から、血の気が引いていった。
「金を出したくらいで、親気取りか」
信格は、新堂の胸倉を掴んで、椅子から引きずりあげた。
「勘違いするな。俺に命令できるのは、俺だけだ」
神戸の男たちが、無言で新堂を取り囲んだ。新堂の震える手が、朱肉に判を押しつけた。信格は、その書類を拾いあげて、懐にしまった。
扉を出るとき、信格は、一度だけ振り返った。
新堂は、割れた机の前で、床に膝をついたまま、呆然と信格を見上げていた。四年前、横須賀の現場で、相撲を辞めて行き場のなかった男に、監督の肩書きと給金をくれた男の顔だった。
信格は、何も感じなかった。
ただ、十三年前、障子の隙間から見た光景を、ぼんやりと思い出していた。封筒を懐にしまい、弟子の行く末を売った、あの親方。
自分は、あの親方と、同じことをしている。いや、もっとうまくやっている。
ふっ、と、信格は口の端を吊りあげて、扉を閉めた。
数日後 東京・銀座 大河原の事務所
大河原の事務所で、子分が、声を潜めて報告していた。
「……というわけで、新堂さんは、協会から手を引きました。神戸の連中が、だいぶ脅したようです」
「そうか」
大河原は、窓の外の銀座の街並みを見下ろしたまま、葉巻をくゆらせていた。
「先生の舎弟に、あんな真似をさせて、黙っておられるんですか」
「新堂の取り分が、力王山と岡田に回るだけだ。金の流れが変わったわけじゃねえ。こっちの懐は、何も痛まねえよ」
大河原は、紫煙を、ゆっくりと吐き出した。
「……ただな」
子分が、顔を上げた。
「あいつは、拾ってくれた恩人を、平気で叩き出せる男だってことだ」
大河原は、葉巻の灰を、灰皿の縁で静かに落とした。
「恩を仇で返す犬は、いずれ、飼い主の手も噛む」
その目が、ほんのわずかに細められた。
「覚えておけ」




