第31話 疑心
昭和二十九年(一九五四年)四月 東京・日本橋浪花町 大和プロレス道場
道場の門の前には、毎朝、行列ができるようになった。
シャーク兄弟との三日間から、わずか二か月だった。新聞も、ラジオも、街頭テレビも、毎日のように、力王山の名前を叫びつづけていた。その名前に引き寄せられて、全国から男たちが集まってきた。
番付から落ちて、行き場をなくした元力士。大学の柔道部を出たものの、職にあぶれた猛者。闇市で喧嘩に明け暮れていた、身寄りのない若者。郷里の田んぼを捨てて、夜行列車で上ってきた百姓の次男坊。
みな、同じ目をしていた。腹を空かせた目だった。
信格は、道場の二階の窓から、その行列を見下ろしていた。
「今日も、三十人は来てますね」
隣で、天道が、帳面をめくりながら言った。
「みんな、力王さんに憧れてるんですよ。テレビで見て、居ても立ってもいられなくなったって」
「憧れ、ねえ」
信格は、窓枠に寄りかかって、煙草をふかした。
あいつらが憧れているのは、俺じゃない。俺が稼いでいる、金だ。俺の血肉に群がって、少しでも分け前にありつこうとしている、ハイエナどもだ。
十四年前、自分も、腹を空かせて海を渡ってきた少年だった。茹でた芋を三つ、手拭いに包んで。そのことは、思い出さなかった。思い出さないことに、決めていた。
入門の試しは、簡単だった。道場のマットの上で、信格と一度だけ向きあう。それだけだった。
最初の一撃で、たいていの者はマットに沈んだ。立ちあがってきた者には、二撃目を浴びせた。三撃目を浴びて、それでも立ちあがった者だけが、道場に残ることを許された。血を流して門を出ていく若者たちの背中を、信格は、一度も見送らなかった。
その日、最後に試しを受けたのは、痩せた浅黒い若者だった。大阪から来たという。名前は、金田と名乗った。
一撃目で、若者は、マットに叩きつけられた。その瞬間、若者の口から、短い呻き声が漏れた。
〈アイゴ……〉
信格の手が、宙で止まった。道場の空気が、凍りついたように感じた。
若者は、自分が何を口走ったのかにも気づかない様子で、歯を食いしばって立ちあがった。
「お願いします。もう一回」
その日本語にも、かすかな訛りがあった。語尾が、ほんの少しだけ跳ねる。
信格は、若者を見下ろしていた。大阪の、猪飼野あたりの出だろう。朝鮮人の多い町だった。金田という名前も、日本で生きるための、よくある通り名だった。
「……お前、生まれはどこだ」
「大阪です」
若者は、まっすぐに信格を見上げた。それから、目を輝かせて言った。
「力王山さんは、長崎のどちらのお生まれなんですか。俺、いつか、力王山さんの故郷に行ってみたくて」
信格の背筋を、冷たいものが這いのぼった。
こいつは、知っているのか。嗅ぎつけて、ここまで来たのか。長崎のどちらか、と訊く。その答えを、確かめに来たのではないか。
道場の隅で、ほかの若い衆たちが、こちらを見ている。天道が、帳面を手にしたまま、首をかしげている。
信格の手刀が、若者の首筋に振り下ろされた。
二撃目、三撃目、四撃目と、それは続いた。若者が倒れても、信格は手を止めなかった。髪を掴んで引きずり起こし、また叩きのめした。若者の顔が、血に染まっていった。
「二度と」
信格は、若者の耳元で、低く囁いた。
「二度と、その面を見せるな」
若い衆たちに引きずられて、若者は、門の外へ放り出された。最後まで、何が起きたのかわからない、という顔をしていた。
その夜、天道が、何気ない調子で言った。
「あの金田って若いの、いい根性してましたけどね。力王さんの記事を、全部切り抜いて持ち歩いてたそうですよ。大阪の朝鮮人の町で、力王さんみたいになりたいって、近所の子供たちに、いつも話してたって」
信格は、何も答えなかった。天道は、にっこりと笑って、帳面に何かを書きつけた。
同じ夜 目黒の家
信格は、眠れなかった。
寝床の上で天井を見つめながら、指を折って数えていた。自分の生まれを知っている人間を。
大河原。岡田。松木も、おそらく知っている。秀貞。沖田。桜富士。三所の山の親方。協会の幹部たち。赤坂の病院の医師。長崎の対馬の家の、あの日焼けした農夫。
指が、足りなくなった。知っている人間が、多すぎた。
信格は、寝床から起きあがり、暗い部屋の中を歩き回った。
道場の門の前には、明日の朝も、行列ができる。人が集まれば集まるほど、その中に、あの金田のような男が紛れこんでくる。俺の顔を見て、俺の声を聞いて、何かを嗅ぎつける者が。
窓の外で、夜風が電線を鳴らしていた。
ふと、もう一つ、顔が浮かんだ。井戸端で、すがるように見上げてきた、痩せた若者の顔。永哲。あいつも、知っていた。十年前、雪の降る道を一人で出征していったきり、行方は知れない。
生きているのか。死んでいるのか。
信格は、窓辺に立ったまま、長いあいだ、その名前を胸の中で転がしていた。
朝が来るまで、一睡もできなかった。




